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仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep07「仕掛け」

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第22話「待たない」

 萌月二十九日。曇り。風は穏やかだが、空気に湿気が混じっている。春の終わりが近い。


 目が覚めたのは、まだ薄暗い時間だった。軍の習慣で朝は早い。だが今日は、それとは違う。——昨夜からずっと、考えごとをしていた。布団の中で、天井の染みを数えながら。


 ヘルマンの「もう少し待ってほしい」が、頭にこびりついている。


 あの老人が待てと言うなら、それなりの理由がある。いつもなら、従う。情報をくれる相手を問い詰めれば、情報が止まる——合理的な判断として、今まではそうしてきた。


 だが、待っている間にも向こうは動いている。工房からの回収は進んでいる。梱包材は港区に届いている。地図を探している。


 待つ理由はある。だが、待たない理由の方が多い。


 起き上がった。窓を開けると、曇り空の下を商業区から荷馬車が一台通り過ぎていった。春の終わりの湿った風が、事務所の中に入ってくる。


 棚から干し果物と硬いパンを出して、机の上に並べた。パンを齧る。硬い。昨日より硬い。——いい加減、新しいのを買うべきだ。


 蝶番が鳴った。


「先生、おはようっす。——今日は早かったんすね」


 レーネが入ってきた。額に少し汗をかいている。市場の朝の荷運びを済ませてきたらしい。腰に手を当てて、ひと息ついてから、事務所を見回した。


「あ、もう起きてるんすね。珍しい」


「……珍しくはない。軍にいた頃は毎日この時間に起きていた」


「あたしが来る前にってことっすよ。いつも起こすの、あたしっすから」


 否定できなかった。干し果物をレーネの分も出した。


 レーネが向かいに座って、パンと干し果物を食べ始めた。干し果物に手を伸ばす速度が早い。甘いものに弱いのは相変わらずだ。


「レーネ。今日は別行動だ」


「またっすか」


「仲介人を覚えているか。きれいな手の男。三十半ばで、訛りがなくて、中肉。あの男の足取りを探したい」


 レーネが干し果物を噛みながら頷いた。


「あの男は地図師にも依頼を出していた。古い地図——百年以上前のものを探している。そういう人間が出入りする場所がある。古書店、ギルドの文書室、地図師の工房。商業区のその手の店を回れ」


「きれいな手の、三十半ばの男が来なかったか聞くんすね」


「そうだ。店主たちに特徴を伝えて、来店があったかどうかだけでいい。深入りはするな」


「了解っす。——先生は?」


「別口を当たる」


 レーネがパンの最後のひと欠片を口に放り込んで、立ち上がった。外套のフードを直しながら、扉に向かう。


「先生」


「なんだ」


「朝ごはん、干し果物だけじゃ足りないっすよ。帰りに何か買ってきましょうか」


「いい。行け」


 蝶番が鳴って、レーネが出ていった。事務所が静かになる。


---


 昼前。商業区。


 三本槍に入った。昼間の店内は薄暗く、酒と脂の匂いが染みついた壁が低い天井に続いている。客はまばらだ。


 カウンターに、ブルーノの姿がなかった。


 いつもの定位置——カウンターの端、壁に背をつけられる席——に、別の男が座っている。痩せた老人で、一人で黙々と粥を食っている。


 店主に声をかけた。


「ブルーノは?」


「今日はまだ来てないよ。昨日も早く帰ったし、なんか落ち着かない様子だったな」


 落ち着かない。ブルーノがか。あの男が三本槍で落ち着かなかったことなど、今まであったか。


 店を出た。


 ブルーノの行動パターンは知っている。商人ギルドの仕事がある日は午前に帳簿場、昼に三本槍で酒を飲み、午後は検品で倉庫を回る。仕事がない日は——朝から三本槍か、港区の別の安酒場にいる。


 今日は来ていない。だが、あの男は生活圏から遠くには出ない。三本槍の近くにはいるはずだ。


 通りを歩いた。三本槍の裏手に回ると、狭い路地がある。商人ギルドの荷降ろし場に続く、人通りの少ない道だ。


 ブルーノがいた。


 路地の壁にもたれて、腕を組んでいた。三本槍の裏口から出てきたのか、それとも最初からここにいたのか。額の広い顔が、こちらを見て固まった。


「……仲介屋」


「探した」


「探さないでくれよ」


 ブルーノの声が低い。いつもの軽口がない。目がよく動く——周囲を見ている。警戒している。


「奢る。少し話を——」


「今日はいい。飲みたくない」


 ブルーノが酒を断った。三本槍の裏手で、昼間に、酒を断った。初めてだ。


「ブルーノ」


「勘弁してくれ、仲介屋」


 壁にもたれたまま、ブルーノが顔をそむけた。目だけが通りの両端を見ている。


「最近、変な連中が港区をうろついてる。商人ギルドの周辺にも顔を見せてる。おれの知り合いの検品係にも声をかけてきたらしい。——どういう荷が動いているか聞きたがっていたそうだ」


「声をかけてきた相手の特徴は」


「聞くなよ。おれは小物だ。こういう連中に目をつけられたくない」


 ブルーノの目が、一瞬だけこちらを見た。


「おまえのこと、聞かれたぞ」


「俺のことを」


「ああ。仲介屋のヴェルナーが、何をどこまで嗅ぎ回っているか。——そこまでなら、まだよかった」


 ブルーノが声を落とした。路地の壁に寄りかかったまま、腕組みを解かない。


「だがな。おまえの名前が出た。仲介屋のヴェルナーじゃなくて、別の——」


 ——止まった。


 心臓が、一拍だけ強く打った。


「いや。おれは聞かなかったことにする」


 ブルーノが壁を離れた。路地の出口に向かって歩き出す。


「ブルーノ」


「……悪いな、仲介屋。おれにはおれの暮らしがある。おまえの仕事に巻き込まれるのは、今回が最後だ」


 振り返らなかった。路地の角を曲がって、小太りの体が消えた。


 一人になった。


 路地に、荷降ろし場の方から風が通り抜けていく。湿った空気に、木箱と干し草の匂いが混じっている。


 壁にもたれた。ブルーノがさっきまで立っていた場所に。


 ——別の名前。


 仲介屋のヴェルナーではない、別の名前。


 考えるな。


 今はそれより先にやることがある。


 路地を出た。三本槍に戻って、薄い麦酒を一杯だけ頼んだ。カウンターの端で、一人で飲んだ。安い麦の苦味が喉を通る。ブルーノがいつも座っていた席の隣で。


---


 夕方。事務所。


 窓の外に曇り空が広がっている。春の光が薄い雲を通して、中層区の屋根を白く照らしている。


 蝶番が鳴った。


「先生、ただいまっす」


 レーネが入ってきた。頬が少し赤い。走ってきたのか。手に油紙の包みを持っている。


「揚げパン買ってきたっす。屋台のおばちゃんが一個おまけしてくれたんで」


「……ありがとう。で、どうだった」


 レーネが向かいの椅子に座って、揚げパンの包みを開いた。二人分を並べて、自分の分に齧りつく。


「商業区の古書店、三軒回ったっす。一軒目は知らないって言ってました。二軒目は、似たような男が来たかもしれないけど覚えてないって。——で、三軒目」


 揚げパンを噛みながら、レーネが身を乗り出した。


「当たりっす。商業区の西の方にある、古い地図とか古文書を扱ってる店。店主のおじいさんが覚えてました。きれいな手の男、三十半ば。何度か来て、古い文献を探していたって」


「何度か」


「ええ。地図っていうか——土地の記録。百年以上前の区画図を探していたそうっす。レーベン近郊の古い記録」


 ブルーノから聞いた「地図師への依頼」と繋がった。同じ男が、同じものを複数の場所で探している。


「来店の頻度は聞いたか」


「三日おきくらいだって、おじいさんが言ってたっす。最後に来たのが三日前だから——次は明後日あたりじゃないかって」


 明後日。花月の一日。——「くらい」がついた話だ。来なければ別の当たり方を考えればいい。だが、来る可能性があるなら、見に行く価値はある。


「他に何か」


「あ、もう一つ。その男、毎回一人で来るんだそうっす。荷物は革の書類鞄を一つ。滞在時間は長い時で半刻くらい。店主は『研究者か物好きだろう』って思ってたみたいっす」


 革の書類鞄。一人。三日おき。半刻。——行動パターンだ。


 揚げパンに手を伸ばした。表面がかりかりで、中が柔らかい。少し甘い。悪くない。


「よくやった」


 レーネが目を丸くした。


「えっ。先生が褒めた」


「褒めてない。事実を言っている。——明後日のことだが」


「明後日?」


「花月の一日だ。古書店に男が来る。見に行く」


 レーネの表情が変わった。揚げパンを持ったまま、目が鋭くなった。こいつのこの顔は、仕事の匂いを嗅いだ時のものだ。


「あたしも行くっすか」


「ああ。詳しくは明日話す」


---


 灰色猫亭。夜。


 マルタが焼き魚を出してくれた。川魚の塩焼き。皮がぱりぱりに焼けていて、身は白い。根菜のスープが一緒に出てきた。蕪と人参が柔らかく煮えている。春の終わりの味だ。


 レーネは先に帰った。下宿に用事があるらしい。俺は一人で、カウンターの隅に座っている。


 魚の骨を丁寧に外した。白い身を口に運ぶ。淡白だが、塩加減がいい。マルタの塩焼きはいつも安定している。スープを一口。蕪が舌の上で崩れる。


「あんた、今日は顔が固いね」


 マルタが布巾でカウンターを拭きながら言った。


「いつもの顔だ」


「いつもはもう少しだらしないよ。今日は顎が出てない」


 顎が出ていないという指摘が正確すぎて、返す言葉がなかった。


 スープを飲み干して、皿を返した。煙草入れを取り出した。ドルクに直してもらった蝶番が、滑らかに開く。煙草を一本巻いて、火をつけた。


 煙が天井に上がっていく。灰色猫亭の天井の梁は低い。煙がゆっくりと広がって、壁際のランプの灯りに混ざる。


 ブルーノが聞いた名前。仲介屋のヴェルナーではない、別の——


 考えるな。


 今はそれより先にやることがある。明後日、古書店に男が来る。仲介人を——この事件の糸を引く男を、初めて自分の目で見る。


 ヘルマンには——全ては話さない。ブルーノの件を話せば、あの老人はきっと知っている顔をするだろう。だが、知っていると認めるかどうかは別だ。今の段階でそこを突けば、情報が閉じる。確かめるなら、こちらの手札を見せない方がいい。


 待っているだけの日は、今日で終わりだ。


 煙草が短くなった。火を消して、煙草入れに灰を落とした。蓋を閉める。蝶番の音が小さく鳴って、止まった。


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