幕間「鉄と沈黙」
萌月二十七日、夜。
炉の火を落とした。
赤い光が薄れて、工房が暗くなる。窓の外はもう暗い。街灯の灯りが、石壁を薄く照らしている。炭の匂いと、鉄の匂い。水桶の底に沈んだ鉄粉が、一日分の仕事の名残だった。
ドルクは椅子に座らず、金床の前に立ったまま手を動かしていた。小さなヤスリで、真鍮の金具を磨いている。客の注文ではない。端材で作った蝶番の見本。誰に納めるあてもない。
手を止めると、考えてしまう。
ヴェルナーが昼に来た。あの話をした。工具が盗品の魔導具の調整に使われていた。街で魔導具の部品が集められている。探知系と浄化系。組織的に。
知っていた。
真鍮の金具をヤスリの横に置いて、棚から布に包んだ工具を取り出した。精密ヤスリ。刃先を、残った蝋燭の光にかざす。
昼にヴェルナーに見せた摩耗の痕。押す角度が違う。力の入れ方が均一すぎる。——教科書通りの使い方だ。手に馴染んでいない人間が、手順書を見ながら削った跡。軍にいた頃、新兵が同じことをした。基礎訓練で教わった通りに押す。
刃先が削った深さと方向から、何を削ったかは読める。筐体の内部。小さな溝を、精密に。道具を使った人間は手順を知っていた。だが、道具を知らなかった。俺の手に馴染んだ工具の癖を無視して、まっすぐに押した。
あいつには言った。「知ってた」と。
「巻き込みたくなかった」と、あいつは言った。
馬鹿な話だ。俺の作った道具が、俺の知らない場所で、俺の手癖ではない使い方をされた。——それは俺の仕事だ。道具を直すか、壊れないようにするか。そのどちらかが。
ヤスリを布に包み直した。丁寧に。——あいつが「巻き込みたくなかった」と言ったのは本当だろう。嘘をつく時の声ではなかった。だが、本当かどうかは関係ない。工具が使われた時点で、もう終わった話だ。
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壁際の棚に向かった。
工具掛けの裏。普通の客の目には入らない場所に、布の包みがある。大きくはない。手のひら二つ分。
取り出した。布を開けない。持ち上げて、重さを確かめた。変わりない。角の固さも、中身が動く気配のなさも。湿気が入った形跡もない。
昼にヴェルナーに言った。「お前の預け物は無事だ」と。あいつは聞くつもりがなかった。だが、言わなければならなかった。預かったものが無事であることを報告するのは、職人の義務だ。
この品が何であるか。名前は知らない。用途も聞いていない。あいつが預けた時、何も言わなかった。何も聞かなかった。
ただ——鍛冶屋の手は、金属の種類と加工の質を知っている。布の上からでも。重さと硬さと、指先に伝わる微かな振動で。
これは、普通の品ではない。
包みを元の場所に戻した。布を整え、位置を直し、工具掛けを戻した。
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母屋に戻った。工房と母屋は石壁一枚で繋がっている。扉を開けると、煮炊きの匂いが顔に当たった。温かい空気。
妻が台所にいた。鍋の蓋を開けて、中を覗いている。蕪と塩漬け肉の汁物。午前に仕込んだものの残りだ。
「おかえり」
「ああ」
手を洗った。水桶の水は冷たい。指の間の鉄粉を落とす。爪の間に入り込んだ分は、どうしても残る。二十年やっていれば、指先は常に鉄の色だ。
妻が器に汁物をよそった。向かいに座って、匙を取った。蕪は崩れるまで煮込まれていて、匙で触ると割れた。塩漬け肉が柔らかい。塩気がちょうどいい。——いつもちょうどいい。
「今日、ヴェルナーさん来てたでしょ」
「ああ」
「あの顔は面倒ごとだね」
蕪を口に運んだ。噛むと甘い。
「……ああ」
「手伝うって言ったんでしょ」
答えなかった。汁を啜った。塩漬け肉の脂が、舌にじわりと広がる。
妻は追わなかった。自分の器を持って、黙って食べた。
しばらく、二人で汁物を食べた。外は静かだ。中層区の夜は早い。通りを歩く足音はもう減っている。
「あの人にはうちの飯を食わせな。痩せてるから」
「……ああ」
器を空にした。
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食後。母屋の窓から、通りを見た。石畳に街灯の灯り。雲が月を隠している。
鉄のことなら、わかる。
温度を上げすぎた鉄は、叩いても形にならない。冷やしすぎた鉄は、叩くと割れる。ちょうどいい温度の範囲は狭い。その見極めに、二十年かかった。
あいつが今、その範囲のどこにいるか。——わからない。
ただ、ひとつだけ知っていることがある。鉄は、一度限界を超えて叩くと折れる。曲がるのではない。折れる。——戻らない。
窓を閉めた。
明日も、炉に火を入れる。いつもの朝だ。




