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仲介屋は煙草を巻く  作者: colove
ep06「輪郭」

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第21話「影の輪郭」

 萌月二十八日。朝は晴れ。


 レーネが事務所の床を掃いている。市場の朝の荷運びを済ませてから来たらしい。箒の音が規則正しく響く。窓から春の光が入って、埃が舞い上がるのが見える。


 俺は椅子に座って、古い旅行記を読んでいた。セレナード南部の巡礼路を歩いた修道士の手記。内容は退屈だが、土地の描写は参考になる。——暇な朝の過ごし方としては悪くない。


「先生、朝ごはんできたっすよ」


 レーネが鍋を持ってきた。卵と新玉葱の炒め物。屋台で覚えた味を再現したらしい。鍋から皿に移すと、湯気と一緒に甘い匂いが立つ。新玉葱が半透明になるまで炒められていて、卵は少し柔らかい。


「……悪くない」


「えへへ。市場のおばちゃんに教えてもらったんすよ。塩加減は——」


「多い」


「うっ。——次は気をつけるっす」


 塩は多いが、玉葱の甘さが補っている。不味くはない。むしろ旨い方だ。——だが、そう言ってやる義理はない。


 レーネが自分の分を皿に盛って、匙でかき込んでいる。食べるのが早い。


「先生。昨日の話なんすけど」


「なんだ」


「外壁区で知り合いに会ったんす。市場の荷運びの仲間で、外壁区に住んでるやつ。そいつが言うには——リュッケの方で、この数日、人の出入りがあるって」


 匙を置いた。


「リュッケ」


「ええ。あの廃倉庫の辺りっす。誰も近寄らない場所なのに、夜に人影を見たって」


 リュッケ。以前潰した場所だ。盗品の集積場所だったあの廃倉庫に、また人が出入りしている。


 組織が戻ったのか。あるいは、別の用事か。


「確認はしたのか」


「してないっす。そいつも遠くから見ただけだって言ってたっす。近づくのは怖いって」


「そうか。——行くなよ」


「え」


「リュッケには行くな。今の段階では確認しにいくリスクの方が大きい。先に周りから当たる」


 レーネが少し不満そうな顔をしたが、頷いた。


---


 午前中、事務所の整理を試みた。


 机の引き出しに溜まったメモ、古い地図の断片、使いかけのインク壺、折れた羽根ペン。軍にいた頃は、同僚が整理整頓を担当してくれていた。自分でやる必要がなかった。結果として、整理の仕方を知らないまま今に至る。


 メモを日付順に並べようとして、途中でわからなくなった。日付を書いていないメモがある。いつのメモだ。何のメモだ。


 レーネが見かねて手を出そうとした。


「先生、あたしが——」


「触るな。俺なりの配置がある」


「ないっすよ」


「……あるんだ。たぶん」


 結局、引き出しの中身を全部出して、また全部戻した。配置は変わっていない。整理とは何だったのか。


---


 昼前に事務所を出た。商業区の安酒場「三本槍」に向かった。


 通りは賑わっている。春の交易シーズンが本格化して、荷馬車の数が増えている。石畳の上を車輪が転がる音、馬の嘶き、荷を呼ぶ人足の声。冬の間は静かだった商業区が、活気を取り戻している。


 三本槍。名前の割に平和な店だ。入ると、カウンターにブルーノがいた。いつもの定位置。昼前から薄い麦酒を飲んでいる。小太りで額が広く、目がよく動く。


「よう、仲介屋。最近よく来るな」


「情報が欲しい。奢る」


「毎度同じ台詞だな。いいよ、座れ」


 麦酒を二杯頼んだ。ソーセージも一皿。粗挽きの、胡椒がきいたやつだ。ブルーノが早速手を伸ばした。


「何が聞きたい」


「二つある。一つ目——最近、冒険者ギルドの周辺で、地図師への依頼が増えているという話を聞いたことはないか」


 ブルーノがソーセージを噛みながら、目を細めた。


「地図師ね。——ああ、聞いたことはあるよ。冒険者ギルドの受付で、地図師の連絡先を聞いている男がいたって。レーベン近郊の古い地図を探しているらしい」


「どんな地図だ」


「さあ。おれが聞いたのは、開拓時代の測量図とか、百年以上前の地域図とか。そういう古いやつだ。普通の商人は要らないだろう。研究者か、物好きか——」


「あるいは、何かの場所を特定しようとしている人間か」


 ブルーノの目が一瞬止まった。ソーセージを飲み込んで、麦酒で流した。


「深いことは聞かないでくれよ。おれは耳が早いだけで、頭がいいわけじゃないんだ」


「もう一つ。港区で最近、出所不明の荷物が動いた話はあるか」


「港区か。——ああ、あるよ。先週、検品の帳簿で引っかかった荷がある。中身は空の木箱と梱包材だった。精密器具を入れるための、布と藁の詰め物。中身が入っていない」


「中身がない」


「ない。空の梱包材だけが港区の倉庫に入ってきた。どこから来たかは記録が曖昧で——おれの上司は気にしてなかったけど、おれは引っかかった。梱包材だけが先に来るってことは、中身は後から入れるんだよ。つまり——」


「レーベンの中で作ったものを詰めて、外に持ち出す」


「おれは何も言ってない。ソーセージは旨かった」


 ブルーノが立ち上がった。杯を空にして、店を出ていく。いつもの退場だ。——ただ、入口で一瞬だけ足を止めて、通りの左右を見てから出ていった。いつもより用心しているのか。——頭の隅に留めておく。


 ソーセージの残りを片付けて、麦酒を飲み干した。粗挽きの肉に胡椒の刺激。安い酒だが、昼に飲むにはちょうどいい。


---


 午後。薄曇り。


 上層区。ヘルマンの両替商。


 二階に上がると、帳簿の山は相変わらずだ。窓から差す光が曇り空のせいで柔らかい。


「ヴェルナーさん。どうぞ」


 ヘルマンが茶を注いだ。上等な茶碗。今日は菓子はない。


 報告した。


 ヨーゼフだけが切り捨てられたこと。他の工房からは回収が進んでいること。ドルクの工具に「マニュアル通り」の使用痕があったこと——軍の基礎訓練を受けた人間が使った痕跡。リュッケの廃倉庫地帯に、再び人の出入りがあるという噂。地図師への依頼。港区の空の梱包材。


 ヘルマンは黙って聞いていた。


 「マニュアル通り」のところで、眼鏡を拭いた。「さようでございますか」とだけ言った。確認であって、驚きではない。この反応は知っている。


 だが——地図の件で、ヘルマンは少し長く黙った。


 茶碗を持ち上げた。一口飲んだ。——重要なことを言う前の仕草だ。


「ヴェルナーさん。もう少し、待っていただけませんか」


「何を待つんだ」


「わたくしの方でも、確認したいことがございまして。——少々、時間をいただければ」


「確認。どこに」


「それは——申し上げかねます」


 沈黙。


 ヘルマンが茶碗を置いた。音を立てないように、静かに。


「危ないことではございません。ただ、わたくしの手持ちの情報だけでは、判断がつかない部分がありまして」


 この老人が「判断がつかない」と言うのを、初めて聞いた。いつもは全てを見通しているような顔をしている。——そう見せているだけかもしれないが。


「わかった。少し待つ」


「ありがとうございます。——くれぐれも、お気をつけて」


 階段を下りた。春の午後の光が、上層区の石畳を照らしている。


 ——泳がされているのか。


 足を止めた。


 ヘルマンが手紙を寄越し、セリーナを経由させ、ヨーゼフの件を俺に渡した。段取りが整いすぎていた。あの時から気づいていた。だが、追及しなかった。情報をくれる相手を問い詰めれば、情報が止まる。合理的な判断だ。


 だが——地図の件でヘルマンが黙った。「確認したいことがある」と言った。「判断がつかない」と言った。あの老人が確認を必要とする相手がいる。確認しなければ判断できない情報がある。


 俺が掘り返しているものの形を、ヘルマンは知っている。全てではないかもしれないが、俺よりは多くを知っている。そのうえで、俺を動かしている。——泳がせている。


 いつからだ。最初からか。


 歩き出した。考えすぎかもしれない。だが、考えすぎと切り捨てるには、この老人の段取りは良すぎる。


---


 事務所。夜。


 窓を開けた。春の夜風が入ってくる。穏やかだ。昼の薄曇りが晴れて、星が出ている。


 机の上に、メモを広げた。仕様書の写し。ブルーノの話。ドルクの分析。ヘルマンの反応。


 煙草入れを取り出した。ドルクに直してもらった蓋が、滑らかに開く。煙草を一本巻いて、火をつけた。煙が天井に上がっていく。


 「誰かが何かを探している」——あの時点での結論。


 今、もう少し先が見える。


 古い地図を探している。レーベン近郊の、百年以上前の地図。場所を特定しようとしている。そして、梱包材が先に港区に届いている。中身を後から詰めて、持ち出す準備。——探しているだけではない。見つけた後のことを考えている。


 探知系の器具。浄化系の器具。盗品でも足りず、金をかけて特注するほどの精度。軍の調達規格と同じ書式。マニュアル通りの工具の使い方。支払いにディナールが混ざっている。


 全部、繋がっている。だが——全体の絵が見えない。


 煙草の煙を吐いた。窓の外の星を見た。


 ヘルマンの「待ってほしい」が引っかかっている。あの老人が待てと言うなら、待つべき理由がある。だが、組織は待ってくれない。回収は進んでいる。梱包材は届いている。地図を探している。


 探し物の輪郭が、少しずつ見えてきた。


 だが——俺が見ているものは、全体のうちのどれだけなんだろう。


 煙草が短くなった。窓を閉めた。春の夜風が最後に一吹き入ってきて、煙を揺らした。


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