第20話「鍛冶屋の答え」
萌月二十七日。曇り時々晴れ。
目が覚めた。天井を見ている。
体は起きている。頭も動いている。だが、布団から出る気力が湧いてこない。——別に具合が悪いわけではない。ただ、今日やることの重さが、体を押さえつけている。
友人に嫌な知らせを持っていく日は、朝が長い。
窓の外に雲が流れている。切れ目から陽が差して、また隠れる。春の空は気まぐれだ。
蝶番が鳴った。
「先生、おはようっす。——まだ寝てるんすか」
レーネが入ってきた。手に紙袋を提げている。いつもの朝だ。いつもの声だ。
「寝てない。考えていた」
「布団の中で?」
「……うるさい」
起き上がった。レーネが茶を淹れている間に、棚から黒パンと干し肉を出した。切り分けて机に並べる。朝飯はこれでいい。
レーネが向かいに座って、パンを齧り始めた。干し肉を千切って、パンに挟んでいる。
「先生。今日はあたしも行くんすか」
「いや。市場で待ってろ」
「了解——っすけど、なんでっすか」
「用事がある」
レーネはそれ以上聞かなかった。こいつは、俺が「用事」とだけ言う時は私事だと知っている。市場で待てと言えば市場にいる。そのあたりの勘は、悪くない。
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中層区。ドルクの工房。
通りを曲がると、金属を叩く音が聞こえた。規則正しい、重い音。叩いて、戻して、また叩く。一定のリズムで途切れない。この音が聞こえる限り、あの男は仕事をしている。
扉は開いていた。中に入った。
炉の火が赤い。春の朝の光と、炉の光が混ざって、工房の中は奇妙な色合いになっている。壁の工具掛けには、大きな金槌から小さなヤスリまでが並んでいる。整理整頓というほどの秩序はないが、全てが手の届く場所にある。ドルクなりの合理性だ。
奥の金床で、ドルクが鉄を叩いていた。革のエプロン。腕の火傷の跡。額に汗。金槌が振り下ろされるたびに、火花が散る。
俺が入ったことには気づいているだろう。だが、手を止めない。これがいつもの二人だ。俺は工房の隅にある椅子に座って、ドルクの作業が一区切りつくのを待つ。何も言わなくていい時間。
しばらく見ていた。ドルクの槌さばきは無駄がない。力任せに見えるが、打点は正確だ。鉄の色、反りの具合を見ながら、一打ごとに角度を変えている。元軍鍛冶。こういう人間が作った武器を、俺たちは使っていた。
金属の色が変わった。ドルクが鉄を水桶に突っ込んだ。蒸気が立つ。じゅう、という音。工房の空気が一瞬、湿った。
ドルクが水を飲んだ。一杯。二杯目を半分飲んで、こちらを見た。
「ああ」
来たのか、という意味。
「お前の工具の件で、話がある」
ドルクの手が止まった。杯を金床の脇に置いた。腕を組んだ。
「前に盗まれた精密工具——戻ってきただろう。あれが盗まれた理由を、俺は調べていた」
ドルクは黙っている。
「この街で、魔導具の部品が系統的に集められている。盗品と、特注品と。両方だ。探知系と浄化系、同じパターンで。お前の精密工具は、盗品の魔導具を調整するために使われた」
炉の火がぱちりと爆ぜた。沈黙が工房を満たしている。
ドルクが腕を解いた。
「知ってた」
——俺の方が、手が止まった。
「知ってた、とは」
「工具が戻ってきた時に、調べた」
ドルクが金床の横の棚から、布に包まれた工具を一つ取り出した。精密ヤスリだ。刃先を窓の光に透かして見せた。
「使われた痕がある。ここ。——俺の手癖じゃない」
目を凝らした。ヤスリの刃面に、微かな摩耗の偏りがある。素人目にはわからない。だが、工具を作り、使う人間には見える。
「押す角度が違う。力の入れ方も。俺なら刃を引きながら削る。こいつは押して削ってる。——教本通りだ」
「教本」
「軍にいた頃、新兵がこういう使い方をした。基礎訓練で教わった通りに押す。手に馴染む前は、みんなそうなる」
軍の基礎訓練で教わった通りの使い方。マニュアル通り。道具に慣れていない人間が、教本を見ながら使った痕跡。
「つまり、お前の工具を使った人間は——」
「軍の手順を知っている」
ドルクがヤスリを布に包み直した。丁寧に。自分の道具を扱うように。
沈黙。炉の火が低く唸っている。
「なぜ黙っていた」
責めているのではない。理由を聞いている。——俺はそう取った。ドルクの声には温度がない。いつもの、必要なことだけを言う調子だ。
「巻き込みたくなかった」
ドルクが鼻を鳴らした。
「俺の工具が使われたなら、もう巻き込まれている」
返す言葉がなかった。その通りだ。
ドルクが杯に水を注いで、俺に差し出した。受け取った。冷たい水が喉を通る。
工房の外で、通りを荷馬車が通り過ぎる音がした。車輪が石畳を転がる音。日常の音だ。
「何か手伝えることがあるなら、言え」
「——ああ」
「ただし、客の道具には触れん。預かった品に手を出すのは、職人の筋に反る」
「わかっている」
もう一つ。ドルクが棚を見た。
「お前の預け物は無事だ。あれは別の場所にしまってある。手は触れられてない」
——それは、聞くつもりがなかった。だが、聞かなくてもドルクは言った。この男は、そういう男だ。
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工房にしばらくいた。昼飯はドルクが出してくれた。硬いパンと水。職人の昼飯だ。パンは昨日焼いたものだろう。噛むと顎に力が要る。だが、小麦の味がしっかりしている。ドルクの妻が焼いたものだ。
食べながら、もう少し詳しく聞いた。
「使用痕から、何の器具を調整していたかわかるか」
「形状はわからん。だが、ヤスリと精密ノミの使われ方から、筐体の内部を削っている。小さな部品を収める溝を整えた痕だ」
「探知系の器具か」
「たぶんな。筐体のサイズは——手のひらに乗るくらいか。精密工具を使っているから、大物ではない」
ヨーゼフの作った探知器具と合う。
「もう一つ聞く。お前の精密工具は、レーベンでは手に入りにくいか」
「軍鍛冶の標準装備だ。民間の鍛冶屋は持っていない。レーベンで持っているのは——俺と、冒険者ギルドの修理場くらいだろう」
つまり、ドルクの工房が狙われたのは偶然ではない。レーベンで精密工具を入手できる場所が限られていたから、この工房を選んだ。
「面倒をかけた」
「俺の方だ」
ドルクがそう言った。その言葉の意味を、しばらく考えた。ドルクは、工具が盗まれた時点で自分なりに調べ、結論を出していた。だが、こちらの事情を聞くまでは黙っていた。「俺の方だ」は——自分も黙っていたことへの、この男なりの言い方だろう。
立ち上がった。
「ドルク」
振り向いたら、ドルクが小さな包みを差し出していた。
「——何だ」
「煙草入れ」
開けた。俺の煙草入れだ。蝶番が滑らかに動く。留め金の歪みも直っている。
「いつの間に」
「前に見えた。蝶番が甘くなってただろう」
言葉が出なかった。
この男は、煙草入れを見ただけで蝶番の緩みに気づいていた。そして、俺が頼む前に直していた。——聞かない。頼まれなくてもやる。これがこの男の流儀だ。
「……世話になる」
「ああ」
工房を出た。春の陽が雲の切れ間から差していた。
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市場でレーネと合流した。レーネは屋台の前で串焼きを食べていた。
「先生、お疲れっす。——あ、煙草入れ直ったんすか」
「ドルクに直してもらった」
「いつの間に。昨日壊れてたっすよね」
「前から見えていたらしい」
レーネが首を傾げた。「ふーん」と言って、串焼きの最後の一口を噛み切った。
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灰色猫亭。夕方。
マルタが鍋の蓋を開けた。鶏肉と春豆の煮込み。薄い乳色のスープに、緑の豆がたくさん浮いている。ローレルの葉の香り。
レーネが隣に座った。二人分の皿が出てきた。春豆は柔らかくて、噛むと甘い汁が出る。鶏肉はほろほろと崩れる。春の煮込みだ。
「先生」
「なんだ」
「ドルクさんに、話したんすか」
「ああ」
「よかったっすね」
返事をしなかった。何がよかったのか、まだわからない。
ドルクは「知っていた」と言った。互いに黙っていた。互いに「相手を守るために黙る」選択をしていた。——結果として、同じ情報を別々に抱えていた。
それがよかったのかどうか。答えは出ない。
マルタが看板猫を膝に乗せて、鍋の蓋を閉めた。湯気が細く立ち上っている。
煙草入れを取り出した。蓋を開けた。蝶番が滑らかに動く。煙草を一本巻いて、火をつけた。煙が灰色猫亭の天井に上がっていく。
ドルクが直してくれた道具は、手に馴染む。




