第19話「工房の前で」
萌月二十六日。晴れ。風が強い。
窓の外で、干していた布巾が横に吹き流されている。春の風は暖かいが、力がある。通りの看板が揺れて、金具がきしむ音がする。
安い茶を淹れた。蒸らし加減は——まあ、こんなものだろう。色も香りもそこそこだ。良い茶葉は先週の報酬で買うつもりだったが、先に煙草を買ってしまった。いつもの順番だ。
煙草を巻こうとして、煙草入れの蓋を開けた。——蝶番がぎこちない。引っかかるような感触がある。見ると、小さな留め金が僅かにずれている。まだ使えるが、放っておくと蝶番が折れる。
ドルクに頼めばすぐ直る。あの男は、こういう細かい金属の修繕を嫌がらない。黙って受け取って、翌日には直して返してくる。
——だが、ドルクの工房に行くなら、話さなければならないことがある。
煙草入れを机の上に置いた。巻くのは後にする。
蝶番が鳴って、レーネが入ってきた。
「先生、おはようっす。市場で焼き栗買ってきたっすよ」
「焼き栗。この時期にまだあるのか」
「春の最後の在庫だって。おばちゃんが『もう今年はこれで終わりだよ』って」
紙袋から栗が転がり出た。小ぶりだが、焼き色がいい。殻を剥くと、甘い湯気が立つ。一つ口に放り込んだ。ほくほくして、素朴な甘さがある。安い茶と焼き栗。贅沢ではないが、春の朝にはちょうどいい。
レーネが向かいに座って、栗を次々と剥いている。手が早い。市場で鍛えた手際だ。
「レーネ」
「なんすか」
「今日、もう一度外壁区と商業区を回ってくれ。この前当たった工房——金属加工師と彫金工房だ」
「引き取りの確認っすか」
「ああ。仲介人が来たか来ないか。ヨーゼフの工房だけ来ていないのか、全部止まっているのか。それで意味が違う」
レーネが栗を咀嚼しながら頷いた。
「了解っす。昼までに回ってきます」
---
レーネが出ていった後、一人で事務所にいた。
煙草入れの蓋を開けたり閉めたりしている。蝶番がそのたびに小さく軋む。——直してくれと持っていけば、ドルクは何も聞かずに直す。それだけのことだ。
だが、工房に行って煙草入れだけ差し出して帰る、というわけにはいかない。あの男の工具は返した。盗まれた理由は伝えていない。
あの工具は、魔導具の精密加工に使われていた。盗品の探知系器具を調整するために。そしてその盗品と、今回の特注品は、同じ目的のために集められている。
ドルクの道具は——組織の道具として使われた。
壁に外套を掛けたまま、しばらく天井を見ていた。
---
昼。事務所を出て、屋台で肉パイを買った。風に吹かれながら歩く。春の日差しは強いが、風が冷たさを残している。パイの中身は豚肉と玉葱で、胡椒がきいている。歩きながら齧った。パン生地の中に脂が溜まっていて、指先が滑る。
パイを食べ終わる頃に、何をするでもなく中層区を一周した。いつもの散歩と称して、いつもと違う道を通る。軍にいた頃の癖だ。通りの変化を見る。新しい看板、閉まった店、見慣れない顔。何も変わっていない——それが確認できれば、それでいい。
---
夕方前に、レーネが戻ってきた。頬が赤い。走ってきたのだろう。
「先生、結果出たっす」
「座れ。まず水を飲め」
レーネが杯一杯の水を飲み干して、息を整えた。
「まず外壁区の金属加工師——あのおばさんのとこ。二日前に仲介人が来て、品物を引き取ったって」
「仲介人は前と同じ男か」
「おばさんの話だと、同じ男。中肉で、きれいな手の人」
「それで」
「次に商業区の彫金工房。こっちも引き取り済みっす。三日前に来たって。同じ男だって」
メモを取った。金属加工師——二日前。彫金工房——三日前。どちらも引き取り済み。
「ヨーゼフさんのところだけ、来てないんすね」
「ああ」
レーネが机に頬杖をついた。
「セリーナさんに相談したのがバレたってことっすか」
「可能性はある。だが、全部が止まったわけじゃない。ヨーゼフの工房だけだ」
つまり——組織は俺の調査全体を把握しているわけではない。ヨーゼフの「異変」だけを察知した。他の工房には、俺が聞き込みに行ったことすら気づいていないかもしれない。
ヨーゼフがセリーナに相談した。セリーナからヘルマン、ヘルマンから俺へ。その流れのどこかに漏れがあるのか。あるいは、ヨーゼフの工房そのものを監視していたか。——もう一つ。引き渡し日に品を出さなかったヨーゼフが、理由を聞かれて口を滑らせた可能性もある。あの職人は腕はいいが、図太い性格ではない。
「レーネ。他の工房で引き取り済みということは、仲介人はまだレーベンにいる。少なくとも二日前にはいた」
「追えるっすか」
「今からでは遅い。だが——回収が終わっているなら、次の段階に動いているはずだ」
レーネが頷いた。何の「次の段階」かはわからないが、こいつは俺の言葉を覚えている。
---
灰色猫亭に向かった。
春の夕方は長い。空がまだ明るいのに、通りの屋台には火が入り始めている。風が落ちて、建物の間に料理の匂いが溜まる。
中層区の通りを歩いている時、ドルクの工房の前に差しかかった。
——今日で二日続けてだ。
工房の扉は半分開いていた。中から槌の音はしない。この時間なら、もう仕事を終えているのだろう。炉の火がまだ赤く光っているのが、扉の隙間から見えた。
足が止まった。
ヨーゼフだけが切り捨てられた。他の工房は予定通り回収されている。組織は全体を掴んでいるわけではないが、一部の異変には反応している。この情報を持ったまま、ドルクの工房の前で立ち止まっている。
あの工具が盗まれた理由。あの工具が何に使われたか。それが今回の特注品と同じ線で繋がっていること。——ドルクはまだ知らない。
扉の向こうから声がした。
「あんた。ヴェルナーじゃないか」
ドルクの妻の声だ。扉越しに顔は見えないが、声でわかる。
「入りなさいよ。夕飯があるよ」
「——今日はいい。明日来る」
「明日ね。覚えておくよ」
足音が遠ざかった。炉の光が揺れている。
灰色猫亭に向かって歩き出した。明日、ドルクに話す。あの男の工具が、何に使われたのか。
---
灰色猫亭。
マルタが大鍋をかき混ぜている。羊肉と春キャベツの蒸し焼き。キャベツが柔らかく煮崩れて、羊の脂と絡んでいる。黒胡椒と干し薬草の香り。
「今日は風が強かったね」
「ああ。看板の金具がうるさかった」
「直さなきゃね。——あんた、顔が険しいよ」
「いつものことだ」
「いつもとは違う顔だよ」
マルタは鋭い。だが、何も聞かない。皿に蒸し焼きを盛ってくれた。
レーネが隣に座って、自分の分を貰っている。春キャベツを匙で掬って口に運んだ。甘い。冬のキャベツとは違う、柔らかい甘さだ。羊肉は臭みが抜けて、ほろほろと崩れる。
「うまいっすね、これ」
「春のキャベツは蒸し焼きが一番だよ」
マルタが看板猫を膝に乗せて、カウンターの向こうから二人を見ている。
明日、ドルクに話す。




