幕間「商会の夜」
萌月二十五日、夜。
商館の二階に残っているのは、セリーナだけだった。
一階の守衛が巡回する足音が、時折石壁を通して聞こえる。窓の外には星が出ている。春の夜はまだ冷えるが、昼の暖かさが石壁に残っていて、執務室は穏やかな温度だった。
蝋燭が一本。机の上の便箋を照らしている。
白ワインを一杯だけ注いだ。辛口の、アシュガル南部産。商館に常備している瓶の残りだ。一口含んで、筆を取った。
書いているのは、商会の報告書ではない。宛名は二文字の略号だけ。本国の、旧い知人に宛てた私信。
レーベンで魔導具関連の不審な動きがある。ヴェルナーの調査結果を簡潔にまとめた。複数の工房への分散発注。探知系と浄化系の同パターン。支払いにディナール銀貨が混在していること。仲介人は単独で五軒以上を回る男であること。引き渡し予定を過ぎても仲介人がヨーゼフの工房に現れないこと——これは、こちらの動きを察知した可能性がある。
筆を止めた。便箋の隣に、もう一枚の紙がある。
ヨーゼフから預かった仕様書の写し。
蝋燭を近づけて、改めて見た。項目の並び。精度等級の記法。数値の記載方式。
見覚えがある。——見覚えがあるどころではない。
これは、あの部隊の調達書式だ。
セリーナはワインの杯を置いた。音を立てないように、静かに。
あの日のことは、考えないようにしている。報告書の最後の頁に並んだ名前のリストを、今でも覚えている。軍を辞めた理由を聞かれれば「商会の方が性に合っていたの」と笑う。嘘ではない。嘘ではないが、全部でもない。
ヴェルナーも気づいたはずだ。あの仕様書を手に取れば——あの男の手は止まっただろう。だが何も言ってこなかった。セリーナも聞かなかった。
あの事件に触れたくないのは、お互い様だ。
筆を取り直し、書簡の末尾に一行を足した。仕様書の書式について。どの部署の調達規格であるか。——これを読む相手なら、意味がわかる。
ヘルマンのことを考えた。
あの老人は、なぜ自分を経由させたのか。ヴェルナーに直接渡す方が早い。わざわざセリーナを間に挟んだのは、理由がある。ヴェルナーに「なぜ知っている」と問われるのを避けるためか。——それだけか。
あの老人は、知っている。何をどこまで知っているのかがわからない。それが一番厄介だ。
ヴェルナーは優秀な仲介人だ。合理的に動き、感情を挟まず、結果を出す。だが——使い方を間違えれば、あの男は壊れる。かつて一度、壊れかけたのを知っている。
書簡を折り畳んだ。封蝋を溶かし、商会の印ではなく、別の小さな印を押した。
窓の外を見た。レーベンの夜は静かだ。星が、昼間の霧が嘘のように澄んだ空に散っている。商業区の通りには人影がない。
あの男には、まだ言わない。




