第18話「同じ目的」
萌月二十五日。朝霧。
窓の外が白い。建物の輪郭がぼやけて、通りの向こうが見えない。息を吐くと、まだ白くなる。春の朝は暖かかったり寒かったり、一日ごとに変わる。
安い茶葉で茶を淹れた。蒸らしが足りないのか、色が薄い。一口飲んで顔をしかめた。——良い茶葉は、もうない。
朝飯は昨夜の帰りに買った燻製鮭の薄切りとパン。小さな贅沢だ。報酬が入ったわけでもないのに、こういう買い物をしてしまう。マルタに知られたら「だからあんたは金が貯まらないんだよ」と言われる。
燻製鮭を薄くスライスしてパンに乗せた。脂が乗っていて、塩気がちょうどいい。パンの素朴な味と合う。安い茶がまずくても、鮭が旨ければ許せる。
食べ終わる頃に、蝶番が鳴った。
「先生、おはようっす」
レーネが入ってきた。今日はいつもより静かだ。
「茶は——」
「いい。自分で淹れる」
レーネが薬缶に手を伸ばしかけて、止まった。何か考えている。
「先生」
「なんだ」
「あたし、今朝ヨーゼフさんとこ行ってきたっす」
手が止まった。
「誰が行けと言った」
「誰も言ってないっす。でも、あの人に頼まれてた器具、仲介人が引き取りに来たかどうか気になって」
「——で」
「まだ来てないって。五日過ぎても音沙汰ないって言ってたっす。ヨーゼフさん、ちょっと安心してたっすけど」
五日。引き渡し予定の萌月二十日から五日。来ない。
ヨーゼフがセリーナに相談したのは引き渡し前だ。そこから俺が動いた。仲介人が引き取りに来ないのは、こちらの動きを知っている可能性がある。——あるいは、ヨーゼフの一台分はもう要らなくなったか。
「……助かる」
レーネが少し目を丸くした。それから、嬉しそうに茶を淹れ始めた。
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二人で机を挟んだ。
昨日の調査結果を並べた。ヨーゼフの仕様書。俺のメモ。レーネの報告。
「整理するぞ。探知系——ヨーゼフの器具と、筐体の工房。浄化系——外壁区の金属加工師。強化系——彫金工房の刻印。全部、別々の工房に部品単位で発注されている」
「あの——あの夜の倉庫と同じっすよね。探知と浄化」
「ああ。パターンは同じだ。『見つける』と『守る』。だが——」
仕様書に目を落とした。
「盗品とは精度が違う。こっちは特注だ。金をかけて、一から作らせている」
「先生、なんで盗むのやめて作らせるようにしたんすか。金かかるっすよね」
いい問いだ。
「一つは、俺たちが倉庫を潰したからだ。盗品のルートがなくなった」
レーネが頷いた。理由はそれだけではないかもしれない。だが、今のところはそれで十分だ。
「もう一つ聞いていいっすか」
「なんだ」
「あの仲介人。五軒以上に頼んで回って、全部に前金で払って、ディナールが混ざってて——一人で全部やってるんすよね。顔覚えられるのは怖くないんすか」
「怖くないんだろう。レーベンには長居しないつもりか、あるいは——顔を変えられる人間か」
「顔を変える?」
「考えすぎかもしれん。だが、五軒以上を一人で回る度胸は、普通じゃない」
レーネは黙って考え込んだ。歩きながらではなく、座って考えている。珍しい。
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午後。霧が晴れて、空が明るくなった。上層区への道を歩いた。
昨日の雨で洗われた石畳が、陽の光を反射している。街路樹の枝に、若葉が透けて見える。春が少しずつ深くなっている。
ヘルマンの両替商。二階。
「ヴェルナーさん。二日続けてですな」
「報告がある」
ヘルマンが茶を注いだ。今日は菓子も出てきた。アーモンドの焼き菓子だ。皿に小さく盛られている。
——黙って一つ取った。口に入れると、アーモンドの香ばしさと砂糖の甘さが広がる。さくりとした食感。旨い。
「どうぞ、お好きなだけ」
ヘルマンが微笑んだ。この老人は、俺が甘いものに弱いことを知っている。
もう一つ取った。——仕事の話をしよう。
「昨日、商業区と外壁区の工房を回った。同じ仲介人が、五軒以上に部品を分散発注している。探知系、浄化系、強化系。全て部品単位で、一つの工房には全体像が見えないようになっている」
「ほう」
「パターンはリュッケの盗品と同じだ。『見つける』と『守る』の組み合わせ。だが精度が違う。特注品は盗品より仕様が高い」
「さようでございますか」
ヘルマンが目を閉じた。
この反応を、俺は知っている。あの夜——エーリヒの名前を告げた時と同じだ。確認している。驚いていない。
「支払いにディナール銀貨が混ざっていた。複数の工房で確認した」
「ディナール」
ヘルマンが目を開けた。眼鏡の奥の目が、一瞬だけ鋭くなった。——これは、知らなかったか。
「レーベンでは珍しくない。だが、複数の工房で同じように混ざっているなら、偶然ではないな」
「わたくしもそう思います」
沈黙。ヘルマンが茶を一口飲んだ。
「ここから先は——注意が要りますぞ」
「何の注意だ」
「あなたが掘り返しているものは、小さな穴ではないかもしれません。——掘り進めるかどうかは、ご自身の判断でございますが」
答えなかった。菓子をもう一つ取って、立ち上がった。
「何を探しているのか、まだわからない」
「探し物があるということは確かになりました」
ヘルマンが頷いた。
「それだけでも、価値のある知見でございますよ」
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帰路。中層区を通った。
ドルクの工房の前を通りかかった。中から槌の音が聞こえる。いつもの、等間隔の重い音。
足が止まった。
ドルクの工具は返した。だが、その工具が盗まれた理由と、今回の件は繋がっている。あの時の盗品と、今回の特注品は、同じ目的のために集められている。
ドルクにはまだ言っていない。言うべきかどうか、まだ決めていない。
槌の音が続いている。中に入らなかった。
通りを歩いた。木々に若葉が広がり、市場からは屋台の匂いが流れてくる。日常は続いている。春が深くなっている。この街の人間にとっては、交易の季節が始まった、ただそれだけのことだ。
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灰色猫亭。
マルタが鍋をかき混ぜている。今日は根菜と豚の煮込みだ。軽い出汁に薬草の香りが混ざっている。冬の煮込みとは違う。柔らかくて、あっさりしている。
「いい匂いだな」
「そりゃ、作ってるのがあたしだからね」
レーネが先に来ていた。カウンターの中でエプロンをつけて、マルタの手伝いをしている。皿を並べたり、パンを切ったり。
「先生、お帰りっす。——ヘルマンさん、何か言ってたっすか」
「注意しろと言われた」
「何の注意っすか」
「さあな」
マルタが煮込みを盛ってくれた。春の根菜——人参と新玉葱と、小さな芋。豚肉は柔らかく煮崩れかけている。匙で掬って口に運んだ。出汁が優しい。薬草の風味が鼻に抜ける。
レーネがエプロンを外して隣に座った。自分の分の煮込みを貰って、すぐに食べ始める。
「先生」
「なんだ」
「あたし、まだ全部はわかんないっすけど——」
レーネが匙を止めた。
「誰かが、何か探してるんすよね。この街で」
「ああ」
「見つけてどうするんすかね」
「わからん」
嘘ではない。わからない。盗品でも足りず、金をかけて特注するほどの相手が、この街で何を探しているのか。
マルタがカウンターの向こうから声をかけた。
「最近忙しそうだね」
「暇な日が終わっただけだ」
「暇な日が一番の贅沢だってのに」
看板猫がカウンターに飛び乗った。マルタが「こら」と言いながら撫でている。
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夜。事務所。
仕様書を引き出しにしまった。メモも一緒に。
誰かが何かを探している。盗品のルートを潰されても、金をかけて特注するほどの執念。この街のどこかに、見つけなければならないものがある。
答えは出ない。だが問いの形は、少しだけ見えてきた。
窓の外を見た。春の夜。霧は晴れて、星が出ている。




