第17話「分散」
萌月二十四日。曇り。
昨日の晴れ間が嘘のように、空が低い。風が冷たく、外套の襟を立てた。春はまだ気まぐれだ。
朝飯は燻製の鰊とパン。鰊は昨日レーネが市場で買ってきた布袋の中身だった。塩が利いていて、パンとよく合う。鰊の脂が指先につく。指を拭きながら、昨日の仕様書をもう一度広げた。
レーネが茶を淹れ終わるのを待って、指示を出した。
「今日は別行動だ。俺は商業区の工房を回る。お前は外壁区と、市場の近くの工房を当たれ」
「何を聞くんすか」
「同じ仲介人が、他にも発注していないか。探知系に限らない。浄化系でも強化系でも、最近入った妙な注文がないか聞け。仲介人の特徴は——」
「中肉、三十代半ば、訛りなし、きれいな手。覚えてるっす」
「ああ。もう一つ。支払いに使われた銀貨の種類を確認しろ。クローネだけか、他の銀貨が混ざっていなかったか」
レーネが少し首を傾げた。が、頷いた。理由は聞かない。こいつはそういうところがある。
「夕方に灰色猫亭で合流する。気をつけろ」
「了解っす」
レーネが先に出て行った。俺も外套を手に取り、フードを被りかけて、やめた。まだ雨は降っていない。
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商業区。
ヨーゼフの工房がある職人通りから少し離れた、ギルド地区寄りの一角。ここにも魔導具を扱う工房がいくつかある。
一軒目。老舗の器具師。白髪の老人が奥の作業台で細かい部品を磨いていた。
仲介人の特徴を告げた。覚えがないという。ただ、話の流れで一つ拾えた。
「下の市場のあたりの同業者が、最近変な注文を受けたって聞きましたよ。浄化系の部品だったか。寺院向けにしては仕様が細かいって話でしたが——まあ、噂ですよ」
浄化系。探知系だけではない。
礼を言って出た。
二軒目。ギルド地区の路地を入った先にある、小さな工房。間口が狭く、看板もない。扉を叩くと、作業着姿の女が出てきた。手が油で黒くなっている。
「セリーナ殿の紹介で来た。少し聞きたいことがある」
「ああ、セリーナさんの。——入って」
工房の中は雑然としているが、作業台の上だけは整理されている。仕事道についてはきちんとした人間だ。
仲介人の特徴を告げると、女は頷いた。
「来たね。十日ほど前だったかな。探知装置のレンズ筐体を三組頼まれた。完成品じゃない。筐体だけ」
「部品だけか」
「そう。レンズと術式盤は別の職人に頼むんだろうと思った。まあ、うちは筐体が専門だし、仕事は仕事だから引き受けたよ」
「仲介人はどんな男だった」
「三十くらい。訛りのない男。手がきれいだったのは覚えてる。道具を握ったことのない手だったから」
同じ男だ。
「代金は」
「前金で全額。きちんと払ってくれたよ。——ああ、ディナール銀貨が混ざってたね。二、三枚」
二軒目。同じ仲介人。同じ支払い方。
もう一つだけ聞いた。
「仕様は普通だったか」
「普通じゃなかった。精度等級の指定があった。筐体で精度等級なんて、普通は言わないよ。中に入る部品と組み合わせた時の話だからね。——ちょっと気味が悪かったけど、金は良かったからさ」
礼を言って工房を出た。
空がさらに低くなっている。風に湿気が混ざり始めた。商業区の大通りで屋台を見つけ、豆と春野菜のパイを買った。立ったまま齧る。皮がぱりぱりで、中の豆と蕪が温かい。春の屋台は新しい野菜が入る分、冬よりずっと旨い。
食べ終わる頃に、最初の雨粒が外套の肩に落ちた。
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灰色猫亭に着いた時には、本降りになっていた。
外套を脱いで椅子にかけた。マルタがカウンターの向こうから顔を出す。
「あんた、ずぶ濡れじゃないか。風邪ひくよ」
「外套があるから大丈夫だ」
「その外套が限界だって言ってんだよ。——麦酒?」
「ああ。それと、何か軽いものを」
「春キャベツの酢漬けがあるよ。今朝漬けたばかり」
麦酒と酢漬けが出てきた。キャベツは薄く切られて、酢と塩と少しの薬草で漬けてある。歯ざわりがよく、酢の酸味で口が覚める。麦酒と合う。冬の重い煮込みとは違う、春の軽さだ。
カウンターの隅で看板猫が丸くなっている。雨の日は動かない。
レーネが来たのは、それから四半刻ほど後だった。髪が湿っている。手に油紙の包みを提げている。
「先生、お疲れっす。——あたし途中で屋台の鶏の串焼き買ってきたんすけど、もう食べていいっすか」
「報告が先だ」
「うっす」
レーネが向かいに座った。串焼きの包みを未練がましくテーブルの端に置く。
「外壁区で二軒見つけたっす。一軒目は冒険者ギルドの近くの金属加工師。浄化系の聖具の筐体を頼まれたって。寺院からの注文はたまにあるけど、今回は仕様が細かすぎるって言ってたっす」
「仲介人の特徴は」
「三十代くらいの男で、訛りがなくて、手がきれいだったって」
同じ男。三軒目。
「もう一軒は」
「市場の近くの彫金工房。若い職人で、金属板に術式の刻印を頼まれたって言ってたっす。強化系の刻印。日常的な雑仕事だと思って受けたけど、こっちも指定が細かかったって」
「仲介人は同じか」
「たぶん同じ人っす。手がきれいだったって言ってたっすから」
四軒。ヨーゼフを入れれば五軒。部品を分けて、別々の工房に発注している。一つの工房だけでは全体像が見えない。
「レーネ。支払いの銀貨は」
レーネが目を丸くした。
「先生、それあたしも聞いたんすよ。金属加工師のところで、ディナール銀貨が混ざってたって言ってたっす。あたし、聞く前に向こうから言ってきて」
「お前が気づいたのか」
「ヨーゼフさんの話聞いてたっすから。同じだなって思って」
——こいつは、ちゃんと聞いている。
「食え」
レーネが嬉しそうに串焼きの包みを開けた。鶏肉の焼けた匂いが広がる。
マルタがカウンターの向こうから声をかけてきた。
「あんた、また面倒事かい」
「いや。ただの聞き込みだ」
「その顔で『ただの』は通用しないよ。——まあいいけどさ。おかわりは」
「もらう」
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灰色猫亭を出た。雨は上がっていたが、石畳がまだ濡れている。街灯の光が水溜りに映って、通りが二重に見える。
事務所に戻った。煙草を一本巻いた。火打ち具で火をつけ、煙を吐いた。
煙を眺めながら、今日の収穫を整理した。
ヨーゼフの工房——探知系器具。筐体の女職人——探知装置のレンズ筐体。外壁区の金属加工師——浄化系聖具の筐体。彫金工房——強化系の術式刻印。
五軒以上に分散している。部品単位で発注し、一人の職人には全体像が見えない仕組みだ。だが全部並べてみれば、浮かぶ像は一つしかない。
探知系と浄化系。「見つける」と「守る」。——リュッケの倉庫にあった盗品と同じ組み合わせだ。
方法を変えた。盗みから、発注へ。だが目的は同じだ。




