第16話「紹介状」
萌月二十三日、朝。
窓を開けたら、春の匂いがした。
土と若葉と、どこかの煙突から漂う焼きたてのパンの匂い。ここ数日の曇り空が嘘のように、青い空が広がっている。風はまだ涼しいが、日差しに力がある。
封書は昨夜から机の上にある。ヘルマンの筆跡。「お会いしたい方がいらっしゃいます」。
二度読み返した。三度目は要らない。
鍋に水を入れて火にかけた。燕麦を一掴み放り込み、かき混ぜる。粥が煮える間に、棚の奥から蜂蜜の壺を出した。底に僅かに残っている。まあ、粥に垂らす程度なら足りる。
椀に盛った。蜂蜜を回しかけると、湯気と一緒に甘い匂いが立つ。匙で掬い、口に運んだ。麦の素朴な味と蜂蜜の甘さ。腹に落ちると、体が動き始める。——安い朝食だが、春の朝にはこれで十分だ。
蝶番が鳴った。
レーネが入ってきた。いつもの短い外套に、使い古したブーツ。手には布袋を提げている。市場で何か買ってきたらしい。
「先生、おはようっす。——あ、粥作ったんすか。珍しいっすね」
「燕麦があったからな。茶は——安いのしかない。淹れてくれ」
「はいはい」
レーネが茶を淹れている間に、封書を差し出した。
「読め」
「……ヘルマンさんっすか。『お会いしたい方がいらっしゃいます』——誰っすか、この方って」
「わからん。だが、ヘルマンが手紙を寄越す時は、碌な話じゃないことが多い」
「行くんすか」
「行く。お前もだ」
レーネが嬉しそうな顔をした。暇より仕事の方がいいらしい。——十九の頃は、俺もそうだったか。覚えていない。
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上層区。ヘルマンの両替商。
レーネを表で待たせて、二階の執務室に上がった。帳簿の山は相変わらずだ。窓から射す春の光が、紙の束の輪郭を柔らかく照らしている。
「ヴェルナーさん。お早いですな」
「手紙を受け取った。——会いたい方とは」
「まあ、お掛けくだされ」
ヘルマンが茶を注いだ。上等な茶碗だ。こちらには出さず、自分の前に置いた。
「セリーナ殿から、気にかけていることがございまして」
「セリーナから」
「ええ。商会の取引先の職人が、少々困ったことに巻き込まれているようでございます」
ヘルマンが眼鏡を拭いた。丁寧に、ゆっくりと。
「わたくしが申しますのもなんですが——お目にかけたいものがございましてな。セリーナ殿のところに寄っていただければ、話は早いかと」
依頼ではない。報酬の話も出ない。「お目にかけたい」——見せたいものがある、と言っている。
この老人がわざわざ手紙を寄越し、セリーナを経由させる。段取りが整いすぎている。俺が来ることを前提にした手順だ。
何も言わなかった。頷いて立ち上がり、階段を下りた。
表でレーネが壁にもたれて待っていた。日差しの中で欠伸をしている。
「商業区のアシュガル商館に行く」
「セリーナさんっすか。了解」
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商業区。アシュガル商館。
二階建ての石造りの建物は、春の日差しを受けて白く輝いている。商館の扉は重い樫の木で、取っ手に商会の紋章が刻まれている。
レーネを連れて中に入った。
「先生、ここ来たの久しぶりっすね」
「前回の仲裁以来だな」
受付に名前を告げると、すぐに二階へ通された。
セリーナの執務室。書類が整然と積まれた机。窓の前に立つ女が振り返った。隙のない身なり、微笑みの裏が読めない顔。
「早いのね。ヘルマンさんから行くと聞いてはいたけれど」
「話が回っているようで何よりだ」
「座って。——あなたも、レーネちゃんも」
セリーナが書類を一枚、机の上に置いた。
「うちの商会が取引している魔導具職人がいるの。ヨーゼフという名前。工学派の探知系器具が専門で、商業区に工房を構えている腕のいい職人よ」
「初耳だ」
「三週間前に、彼のところに注文が入った。匿名の仲介人を通じて、探知系器具を三台。仕様書付きの正式な発注」
セリーナの目が、一瞬だけ鋭くなった。
「仕様書の中身を見て、ヨーゼフが青くなった。精度等級が——民間で使う水準じゃなかったの。仕様書の写しは預かっているわ。——でも、現物はヨーゼフが持っている。あなたの目で見てほしいの」
「軍用か」
セリーナが頷いた。俺とセリーナの間で、余計な説明は要らない。精度等級という言葉が出た時点で、互いに何を意味するかはわかっている。
レーネがきょとんとしている。当然だ。精度等級は情報部の調達書類で使う用語で、一般には流通しない。
「ヨーゼフは作れるのか」
「腕はある。一台目は完成させた。だけど、二台目に取りかかる前に怖くなって、私に相談してきた」
「お前が直接動かないのは」
「商会の公式ルートで動くと、目立つでしょう。——それに、この手の話はあなたの方が向いている」
最後の一言に、軍にいた頃の含みがあった。
「報酬は」
「商会の調査費から出すわ。十クローネ」
「十五」
「……十二」
まあ、いいだろう。
「工房の場所を教えてくれ」
セリーナが地図に印をつけた紙を差し出した。商業区の裏路地。職人通りの一角。
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ヨーゼフの工房は、表通りから一本入った路地にあった。
金槌の音と、砥石の回る音が入り混じる一角だ。鍛冶屋、木工師、革細工師の工房が軒を連ねている。ドルクの工房がある中層区とは違い、こちらは精密加工の職人が多い。空気に金属の削り粉と灯油の匂いが混ざっている。
小さな看板に「ヨーゼフ工房」と書かれた扉を叩いた。
「——どうぞ」
中に入った。狭い。だが、壁の工具掛けは完璧に整理されている。同じ大きさの工具が等間隔に並び、使用頻度ごとに分類されている。作業台には拡大鏡の据え付け装置。棚には未完成の器具と材料が、品目ごとに仕切られた箱に収まっている。
ドルクの工房の無骨な実用性とは対照的だ。こちらは几帳面の極致。俺の事務所を見せたら卒倒するだろう。
奥から男が出てきた。痩せた角ばった顔。太い眉。首から鎖で拡大鏡を下げている。革のエプロンの前に、細かい金属粉がついていた。手を見た。指先に小さな火傷の跡が点々とある。鍛冶の大きな焼けとは違う——精密加工の痕跡だ。
「セリーナ殿の紹介で来た。ヴェルナーという」
「ああ、はい。聞いております。ヨーゼフです」
男は拡大鏡の鎖をいじりながら、俺とレーネを交互に見た。目が落ち着かない。
「まあ、座ってください。いや、椅子がですね——」
工房の隅から椅子を二脚引っ張り出し、金属片を払ってから差し出した。自分は作業台の前の回転椅子に座った。
「茶を——」
「いや、構わない」
「そうですか。まあ、すぐ話が——いや、仕様書を見ていただいた方が早いですかね」
話が前後する。神経質な男だ。
ヨーゼフが引き出しから紙を一枚取り出した。折り目正しく畳まれている。広げて作業台の上に置いた。
仕様書。
手に取った。——一瞬、手が止まった。
書式。項目の並び。精度等級の記法。数値の記載方式。
見覚えがある。
手が動き出した。読み進める。
探知系器具の製作指示書だ。検出範囲、感度閾値、方向精度、耐久時間——全ての項目が数値で指定されている。精度等級は第三級。民間の探知器具は等級の概念自体がない。これは軍の調達規格だ。
しかも、この感度は通常の索敵には過剰だ。もっと微弱な——地中や壁の向こうにある何かを探すような仕様になっている。
「ヨーゼフさん。この仕様で器具を作れる職人は、レーベンに何人いる」
「私を入れて、三人でしょうか。いや、この精度等級を満たせるとなると——二人かもしれません。もし仮にですが、軍の正規品と同等のものを求められているなら、まあ、私には作れますが」
「一台目は完成したと聞いた」
「ええ。仕様通りに。ですがね——」
ヨーゼフが鏡の鎖を磨き始めた。
「普通なら、こういう仕様書は出てきません。精度等級なんて言葉、この街の客は使いませんよ。商人が探知器具を注文する時は、『これくらい探せるやつ』とか、せいぜい『もっと遠くまで見えるように』とか。数値で指定してくるのは——」
「軍か、それに近い人間か」
「そうです。だから怖くなった」
レーネが口を開いた。
「怖かったんすか」
ヨーゼフがレーネを見た。単刀直入な問いに面食らっている。
「……ええ。まあ、仮の話ですが、こういう注文を出す人間が、もし仮に面倒な相手だとしたら——私はただの職人ですから。巻き込まれたくないんですよ」
「でも、セリーナさんに相談したんすよね。見て見ぬふりもできたのに」
ヨーゼフが黙った。鏡の鎖を握ったまま、数秒。
「——職人には矜持がありますんでね。自分の作ったものが何に使われるか、知らないままでいるのは、嫌なんですよ」
レーネが小さく頷いた。——こういう時のこいつは、妙に大人びて見える。
「もう少し聞かせてくれ。注文を持ってきた仲介人はどんな男だった」
「中肉中背。年齢は——三十代の半ばくらいですかね。身なりは悪くない。訛りはなかった。レーベンの共通語を綺麗に話す。印象に残ったのは——手ですね」
「手」
「商人や労働者の手じゃない。滑らかで、きれいな手でした。学者か、書記官か。ああいう手は、道具を握ったことがない人間の手です」
書き留めた。中肉、三十代半ば、訛りなし、学者の手。
「支払いは」
「前金で全額。気前がいいと思いましたよ。ただ、銀貨を数えた時に気づいたんですが——クローネに混ざって、ディナールが何枚か入っていました」
ディナール。セレナードの銀貨。
「数え間違いか」
「いいえ。五枚ほど混ざっていました。まあ、レーベンでは珍しいことではないですけどね。両方の銀貨が流通していますから」
珍しくはない。だが、五枚。偶然にしては多い。
「仕様書は借りていいか」
「ええ、どうぞ。——返してもらえるなら」
「返す。一つだけ確認したい。仲介人が次に来る予定は」
「一台目の引き渡しが萌月二十日の予定だったんですが、私がセリーナ殿に相談した後は——来ていません。三日過ぎても音沙汰がない」
引き渡し予定日に来ない。こちらの動きを知っているのか、別の理由か。
立ち上がった。レーネも続く。
「ヨーゼフさん。しばらく気をつけてくれ。何かあったらセリーナに連絡を」
「ええ。——お願いしますよ」
工房を出た。路地の向こうで、金槌の音がまだ響いている。
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帰路。
日が傾きかけている。商業区の通りには屋台が並び始めていた。春の夕方は、まだ明るい。
レーネが屋台の前で足を止めた。揚げ物の匂いだ。
「先生、若菜の天ぷらっすよ。春限定って書いてある」
「好きにしろ」
レーネが銅貨を出して、紙に包まれた天ぷらを受け取った。歩きながら齧っている。薄い衣の中に、柔らかい若葉が透けて見える。
「一個いるっすか」
「……もらう」
受け取って口に入れた。衣がさくりと割れて、中の若菜がほろ苦い。塩がきいている。春の味だ。
「先生。あの仕様書のやつ——あの夜の件と関係あるんすか」
あの夜。リュッケ。大柄な男が死んだ夜。——レーネはそう呼ぶ。名前をつけない。
「まだわからん。だが、匂いは同じだ」
「匂い」
「盗品の代わりに、作らせている。方法を変えただけで、欲しいものは同じ。——そういう匂いだ」
レーネは天ぷらを咀嚼しながら、黙って頷いた。
「先生、あのヨーなんとかさん——」
「ヨーゼフだ」
「ヨーゼフさん。いい人っすね。怖かったのに、ちゃんと言ったっすもん」
「ああ」
通りの街灯に火が入り始めた。春の夕暮れは長い。空がまだ青みを残したまま、西の端だけが橙色に染まっている。
「明日、少し歩き回る。付き合え」
「了解っす」
事務所に戻った。仕様書を机の上に広げた。
精度等級。数値指定。書式の並び。軍の調達規格そのものだ。これを書いた人間は、軍の内部文書を知っている。
三週間前。あの倉庫を潰したのは四日前だ。——盗みながら、同時に別の口も用意していた。用心深い連中だ。
盗めなくなったなら、作らせる。——金と手間を惜しまない相手は、面倒だ。




