第15話「煙草と麦酒」
萌月二十二日。
窓の外に、薄い光が差していた。昨日までの曇り空が少し退いて、雲の切れ間から陽が覗いている。
布団の中で目を開けたまま、しばらくその光を見ていた。今日も——何もない。いい傾向だ。
起き上がった。顔を洗い、階段を下りる。レーネはまだ来ていない。
棚の奥から煙草の包みを取り出した。安物ではない。先週の報酬で買った、南方産の乾燥葉。残り少なくなっている。紙を切り、葉を広げ、指で加減しながら巻く。きつすぎると吸いにくい。緩すぎると燃えが速い。中を見なくても、指先の感触でわかる。
火打ち具の蓋を親指で弾いた。小さな火花が散り、端に移る。工学派の量産品だが、これは具合がいい。煙草がゆっくりと赤く灯り、煙が胸に入った。吐き出す。朝の空気に煙草の香りが混ざった。これだけは、安物で妥協したくない。
次は茶だ。薬缶に水を入れ、火にかける。昨日レーネが「あと二回分」と言っていた東方茶——最後の一回分を使う。どうせ明日からは安茶に戻る。最後くらい、きちんと淹れたい。
湯が沸きかけたところで火から下ろした。この茶葉は熱すぎると渋みが出る。少し冷ましてから注ぐ。軍にいた頃、南方の駐屯地で茶の淹れ方を教わった。当時は面倒だと思ったが、覚えてしまったものは仕方がない。
茶碗に注ぐ。琥珀色の液体から、かすかに花の香りが立った。最後の一杯にしては、悪くない出来だ。
干し肉を薄く切り、平焼きパンに挟んで齧った。パンは昨日レーネが市場で買ってきた残りだ。西の小麦の柔らかいパンで、干し肉の塩気と合う。
扉が開いた。蝶番が軋む。
「先生、おはようっす。あ、煙草吸ってる」
「朝の一服だ」
「いい匂いっすね。あ、茶入ってる——先生が自分で淹れたんすか」
「最後の茶葉だからな。人に任せられん」
「ひどくないっすか」
「お前の淹れ方は雑だ。いい茶葉が勿体ない」
レーネが口を尖らせた。
「じゃあ明日から安茶っすよ。色付きの湯っすよ」
「わかってる」
「暇っすね、今日も」
「暇で結構だ。暇な日がどれだけありがたいか、お前もそのうちわかる」
レーネは不服そうな顔をしたが、それ以上は食い下がらなかった。
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午前中、一人で外に出た。
レーネには「少し歩いてくる」とだけ告げた。いつもの道——中層区の表通り——は使わない。裏路地を一つ南に折れ、職人通りを抜けて港区との境まで下った。
通りの端に小さな酒場がある。看板はない。入口の上に船の錨を模した鉄飾りがぶら下がっているだけだ。港区の労働者と、たまに商人ギルドの下っ端が使う店。
扉を開けた。店内を一瞥する。——出口は裏にもう一つ。窓は左手に二つ。客は三人。いずれもこちらに関心を示していない。
壁を背にした席が奥に一つ空いていた。そこに座った。
店主は中年の男で、禿げ上がった頭に汗をかいている。俺の顔を見て軽く顎を引いた。
「麦酒を一つ。干し鱈があれば」
「焼いたのがあるよ。朝入った分だ」
「それで」
麦酒の杯と、小皿に乗った干し鱈の焼き物が出てきた。鱈は塩が利いていて、身が厚い。脂が程よく乗って、春の鱈は冬場の干し物とは風味が違う。麦酒で流し込む。昼前の酒は体に悪い。だが、時々はいい。
「最近、外壁区の方はどうだ」
「さあね。ギルドが人を集めてるって話は聞くよ。冒険者が減ってるんだとか」
「減ってるのか」
「若い連中が東に流れてるらしいよ。セレナードの方に、いい依頼があるって話でさ」
冒険者が東に流れている。昨日の公示板の人員募集と符合する。——何かがあるのか、単純な市場の変化か。覚えておくだけだ。
麦酒を飲み干し、銅貨を置いて店を出た。帰り道は表通りを通った。行きと帰りで違う道。別に意識してやっているわけではない。
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事務所に戻ると、台所から音がしていた。
覗くと、レーネが包丁を握っている。まな板の上に新玉葱の切れ端が散らばっている。昨日市場で買った食材だ。隣に干し肉の塊がある。
「マルタさんに教わったやつ、作るっす」
「ああ」
椅子に座り、昨日の旅行記の続きを開いた。——が、視界の端で、レーネの包丁が動いているのが気になった。蕪を切っている。厚い。明らかに厚い。
「……その厚さだと、芯が残るぞ」
「え?」
「蕪は薄く切れ。火の通りが均一になる」
レーネが振り向いた。包丁を持ったまま。
「先生、料理わかるんすか」
「……見ればわかる。常識だ」
「常識で蕪の切り方は出てこないっすよ。先生、もしかして——」
「本を読む。静かにしろ」
旅行記を顔の前に掲げた。レーネの視線が刺さっているのはわかる。だが追及は来なかった。——今のところは。
しばらくして、台所から炒める音が聞こえてきた。玉葱の甘い匂いが事務所に漂ってくる。続いて干し肉の焦げる匂い。悪くない。火加減は——まあ、及第点だ。
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夕方。灰色猫亭。
ドルクと並んでカウンターに座った。いつもは工房で飲むが、今日はここだとドルクが言った。
「妻に帰れと言われた」
「何をやった」
「……わからん」
「怒らせたんだろう」
「知らん。朝は普通だった。昼に顔を出したら、帰れと」
ドルクがぐいっと麦酒を煽った。俺も杯を上げた。この男が妻に頭が上がらないのは知っている。
マルタが笑いながら二杯目を出した。
「あんた、また嫁さんに追い出されたのかい」
「また、じゃない」
「また、だよ。あんた、嫁さんの話を聞いてないんだろ。聞いてるふりして、頭の中は工房のことでしょ」
ドルクが無言で杯を傾けた。否定はしなかった。
カウンターの端から、灰色の影が飛び乗ってきた。看板猫だ。丸々と太った灰色の雄猫。マルタは「フリッツ」と呼んでいる。
猫がカウンターの上を歩き、マルタの前で座った。マルタが布巾で手を拭き、猫の顎を撫でた。猫が目を細める。
「あんたたちより、こっちの方がよっぽど素直だよ」
レーネが遅れて入ってきた。扉の蝶番が鳴る。
「お疲れさまっす!」
「おう、レーネちゃん。座んな。今日はね、川魚の煮込みがあるよ」
「マジっすか! いただきます!」
林檎酒がレーネの前に置かれた。マルタは何も聞かずにこれを出す。いつものことだ。
深皿が運ばれてきた。白身の川魚と蕪の煮込み。白い汁にバターの香りと、かすかに薬草が混ざっている。西の白葡萄酒と東のバターを合わせた出汁——レーベンの混ぜ文化の典型だ。
「熱いから気をつけな」
レーネが匙で掬い、口に運んだ。一瞬止まって、目を見開く。
「……うま。マルタさん、これめちゃくちゃ旨いっす」
「あたりまえだよ」
俺の前にも皿が出た。焼きソーセージ二本と粒マスタード。それと煮込みの小皿。ソーセージは皮がパリッとしていて、噛むと肉汁が熱い。マスタードの辛みが脂を切る。煮込みは魚の身がほろりと崩れ、蕪の甘みと溶け合っている。——マルタの料理に文句のつけようはない。
ドルクは麦酒を静かに飲んでいる。猫がカウンターから下りて、ドルクの足元に擦り寄った。ドルクは無言で足をずらした。
レーネが煮込みをおかわりした。「作り方教えてほしいっす」とマルタにせがんでいる。マルタは「勘だよ、勘」と笑った。
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夜。灰色猫亭を出た。
通りに街灯が灯っている。春の夜風はまだ冷たいが、腹が温かい。酒も入っている。
ドルクは先に帰った。「妻のところに戻る」と短く言って、夜の通りに消えた。帰る場所がある男は強い。
レーネが少し遅れてついてくる。林檎酒を二杯飲んだ頬が、街灯の下でわずかに赤い。
「先生」
「何だ」
レーネが足を止めた。俺も止まった。
「あの夜のこと——まだ時々考えるっす」
三日前の夜。リュッケの廃倉庫。大柄な男の自決。
「そうか」
「最初はなんていうか、頭がぐちゃぐちゃで。なんで死んだんだろうとか、あたしが何かできたのかとか」
「……」
「でも、今日みたいな日があるから——大丈夫だと思うっす。マルタさんの煮込み食べて、ドルクさんの嫁の話聞いて、猫撫でて。こういうのがあるうちは、大丈夫っす」
何も言わなかった。言葉は要らないと思った。
「禍い転じて福と——なす? しろ?」
「成す、だ」
「成す。——まあ、ちょっと違うっすけど、そんな感じっす」
少し歩いた。
「明日も暇だといいな」
「先生がそれ言うの、珍しいっすね」
「別に珍しくない」
「珍しいっすよ。いつもは『割に合わない』とか言ってるのに」
「……うるさい。帰れ」
「はいはい。おやすみなさい、先生」
今日の「おやすみなさい」は、昨日とは違っていた。少しだけ、いつもの調子に近い。
レーネの足音が角を曲がって消えた。空を見上げると、雲の切れ間に星がいくつか見えた。
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翌朝。
扉の下に、何かが差し込まれていた。
封書だ。薄い紙に、丁寧な筆跡で「灰色猫亭の仲介屋へ」と書かれている。裏に差出人はない。
封を開けた。中に短い文が一行。
「お会いしたい方がいらっしゃいます。——ヘルマン」
筆跡はヘルマンのものだ。間違いない。
暇な日は、どうやら今日で終わりらしい。




