第14話「仕事のない朝」
萌月二十一日。
目は覚めていた。
天井の染みが七つ。左から三番目が一番大きくて、雨の日に少しずつ広がっている。四番目は染みというよりただの汚れだ。いつか拭こうと思って二年ほど経った。
一昨日の夜のことが頭を掠めた。——白い泡。口の端。振り払うように寝返りを打ち、天井の染みの続きを数えた。五番目。六番目。
階下で音がした。表の扉が開く音。軋む蝶番。それから、箒が床を掃く規則的な音。
レーネだ。
布団を被り直した。依頼はない。急ぐ用もない。もう少しこうしていたい——が、階下の物音は着実に生活の気配を作っていく。水を汲む音。茶器の触れ合う音。やがて茶葉を蒸らす匂いが、薄く階段を伝って届いた。
階段を上がってくる足音。
「先生、朝っすよ。茶、淹れたっす」
「……ああ」
「起きてるなら降りてきてくださいよ。冷めるっす」
足音が階段を戻っていく。
天井を見上げた。七つ目の染みは窓際の角にある。光の加減で見えたり見えなかったりする。今日は——曇りか。見えない。
渋々、布団から出た。顔を洗い、髪を梳かす。寝巻きから着替えて階段を下りる。軍にいた頃の習慣で、身支度だけは手早い。
一階の事務所は、いつの間にか小綺麗になっていた。机の上の書類が端に寄せられ、床の埃が払われている。棚は——あれは触らないでくれと言ったはずだが、まあいい。
「朝飯、置いといたっす」
机の上に木の皿。黒パン、茹で卵、チーズの切れ端。チーズは昨日レーネが市場で買ってきたものだ。東の硬質な乳製品で、塩気が利いている。パンに乗せて齧ると、素朴な旨みが口に広がった。
「今日の茶葉、まだいいやつっす」
「先週の残りだろう。あと二回分くらいか」
「ケチらないでくださいよ。いい茶葉、先生が飲むの早いんすから」
「いい茶葉だから大事に使ってるんだ」
茶を一口。報酬後に奮発した東方茶の、三番煎じの手前くらいだ。花の香りはほぼ消えているが、かすかに残る甘みがまだ舌に触る。安い茶葉ならこの時点で色付きの湯だ。
「今日、依頼あるっすか」
「ない」
「暇っすね」
「暇で結構だ」
レーネが首を傾げた。この助手は暇を嫌う。体を動かしていないと落ち着かない性分だ。
「じゃあ、市場行ってきていいっすか。買い出し」
「好きにしろ」
「先生も来ないっすか? 外の空気吸った方がいいっすよ」
断る理由もなかった。茹で卵の殻を剥きながら、窓の外を見た。曇り空だが、雨にはなるまい。春の風が窓の隙間から入ってきて、少しだけ肌寒い。
「……ついでだ。少し歩くか」
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商業区の中央市場は、萌月に入ってから人が増えた。春の交易シーズンが始まり、南の港から船が入り、東の街道から荷馬車が来る。屋台も冬場より三割は多い。
レーネが前を歩く。市場に来ると、この助手の足は速くなる。
「先生、先生! ここ、新しい屋台っす!」
「……知ってる。先週からある」
「えー、あたし初めて見たっすよ。ほら、あの、東のセレなんとかの——なんだっけ、あの——」
「セレナード教皇領な」
「そう、それ! そこの香辛料、売ってるっす!」
屋台の軒先に、布袋が並んでいた。胡椒、クミン、乾燥させた薬草の類。奥の方に、赤い粒と黒い粒が混ざった袋がある。レーネが袋に顔を近づけて匂いを嗅いだ。目の色が変わっている。
「うわ、すっごいいい匂い。先生、嗅いでくださいよ」
「混合香辛料だ。東の巡礼団がよく持ち込む」
「へえ。これで肉焼いたら旨そうっすね」
「肉を買う金があるならな」
レーネは屋台の主人と値段を聞き始めた。こういう時のこの助手は、依頼の聞き込みより熱心だ。食に関することになると、途端に顔つきが変わる。
俺は屋台の並びを離れ、裏通りの古書店を覗いた。店の前に並んだ木箱の中に、旅行記が何冊か混ざっている。手に取ったのは、アシュガル南部の港町を巡った紀行文。著者は知らない名前だ。装丁は安いが、紙の質は悪くない。挿絵入り。銅貨三枚。——買った。
古書店の向かいに、商人ギルドの公示板がある。足を止めて目を通す。新しい通達が二枚。港区の荷揚げ税の改定と、外壁区の冒険者ギルドの人員募集。どちらも直接の関わりはないが、荷揚げ税が上がれば商人たちの機嫌が悪くなる。機嫌が悪い商人は面倒な依頼を持ち込みやすい。——覚えておくだけだ。
市場の噴水の前でレーネと落ち合う約束だったが、時間を過ぎても来ない。
二分ほど待って、反対側の路地から栗色の頭が現れた。
「先生! すいません、ちょっと——」
「迷ったのか」
「……はい」
「ここ、三回目だぞ」
「い、いや、今回はですね、角を曲がったら知らない路地があって——」
「知らない路地なんかない。お前が覚えていないだけだ」
レーネの腕には紙袋。中身は新玉葱と、干した薬草の束と、安い塩の小袋。それと——
「先生、干し果物も買ったっす。杏と無花果。おやつ用」
「おやつ用って、お前はいつもおやつを食ってるだろう」
「育ち盛りっすから」
十九歳を育ち盛りと呼ぶかどうかは議論の余地があるが、口にはしなかった。
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帰り道。商業区の東側の通りに、焼き菓子の屋台があった。
蜂蜜と胡桃の焼き菓子。木の板の上に並んだ小さな塊から、甘い匂いが漂ってくる。
足が止まった。
「先生?」
「……何でもない」
「止まったっすよ」
「日差しが出たかと思って空を見ただけだ」
曇り空だった。日差しなど出ていない。レーネがじっとこちらを見ている。
「先生、甘いの好きなんすか」
「別に」
「嘘っすね。前も干し果物の時——」
「うるさい。行くぞ」
「あたし買うんで。二つ買っていいっすか。先生の分も」
断ればいいものを、何も言わなかった。それを了承と受け取ったらしく、レーネが屋台に駆け寄って銅貨を渡した。
紙に包まれた焼き菓子を受け取る。歩きながら齧った。蜂蜜の甘みが口に広がり、胡桃の歯応えが後を追う。焼き加減がいい。外は軽く、中はしっとりしている。
「おいしいっすか」
「……普通だ」
「完食してから言っても説得力ないっすよ、先生」
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事務所に戻った。
レーネが市場で買った食材を棚に並べ始めた。玉葱は下の段、干し果物は上の段。薬草の束は紐で吊るして乾かすと言い出し、窓際の釘に引っ掛けた。
「先生、この棚なんとかしましょうよ」
「何が問題だ」
「何がどこにあるか全然わかんないっすよ。この書類の山、依頼書っすか? 二ヶ月前のが混ざってるんすけど」
「……場所は把握してる」
「本当っすか? じゃあ、ドルクさんの工房の受領書、どこにあるか言ってくださいよ」
沈黙した。
「ほらー」
「触るな。俺の方式がある」
「方式って言えるレベルじゃないっすよ、これ」
レーネは呆れた顔をしたが、それ以上は追及しなかった。代わりに、買ってきた食材の方に意識を向けた。
「今度、つまみ作るっす。玉葱と干し肉の炒め物、マルタさんに教わったやつ」
「好きにしろ」
椅子に座り、今日買った旅行記を開いた。棚の隅に安酒の瓶が一本、中身が半分残っている。昼から飲むかどうか少し迷って、やめた。今日は本を読む日だ。
アシュガル南部の港町。俺が軍にいた頃、一度だけ立ち寄ったことがある。挿絵の港の風景に、かすかに記憶が重なった。頁を捲ると、軍港の記述がある。アシュガル海軍の補給拠点。——読み飛ばした。今日は、こういうことを考えなくていい日だ。
静かな午後だった。窓の外は曇り空のまま、時折薄日が差す。レーネは一階の隅で何か片付けている。紙袋を畳む音。食材を並べ直す音。小さな生活の音だ。
気づくと、窓の外が暗くなり始めていた。
レーネが帰り支度をしている。外套を羽織り、紙袋を畳んだ残りを鞄に入れた。
扉に手をかけたところで、足が止まった。
「先生」
「何だ」
背中が見えた。振り向かない。
「……おやすみなさい、先生」
少し間があった。いつもなら「お疲れっす」と軽く言って出ていく。今日の声は、少しだけ静かだった。
「ああ。気をつけて帰れ」
扉が閉まった。蝶番が小さく軋んだ。通りに足音が遠ざかっていく。
椅子に座ったまま、しばらく旅行記の同じ頁を見ていた。
一昨日の夜のことを、レーネはまだ消化しきれていないのだろう。目の前で人が死んだ。それを「大丈夫」と言えるほど、十九歳の経験は厚くない。
何か言うべきだったか。——いや。言葉で片付くものじゃない。あいつは自分で時間をかけて消化する。待てばいい。
旅行記を閉じて、机に置いた。
外は完全に暗くなっていた。通りの街灯が石畳を照らしている。仕事のない一日が終わる。
明日も、こういう日だといいのだが。




