幕間「老人の天秤」
萌月二十日、夜。
ヴェルナーが階段を下りていく足音が、石壁に反響してから消えた。表の扉が閉まる音。それから、通りの足音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなる。
ヘルマンは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
机の上には茶碗が二つ。一つは空で、もう一つ——自分のものだ——はまだ半分残っている。すっかりぬるくなっていた。冷めた茶は苦みが勝つ。嫌いではないが、今夜は少し堪える。
帳面はヴェルナーが持ち帰った。だが、記されていた内容は目の裏に残っている。品名、日付、「済」の印。几帳面な字。そして最後の頁の手前にあった、別の筆跡。
エーリヒ——次は数を揃えろ。
エーリヒ。
ヘルマンは眼鏡を外し、布で拭いた。丁寧に、ゆっくりと。拭き終えても、すぐには掛け直さない。
知らないと言った。所感だと言った。ヴェルナーは信じなかっただろう。あの男がこちらの嘘を見逃すはずがない。見逃したのではなく、追及しなかっただけだ。今は聞き出せないと判断したのだろう。——合理的な男だ。かつて、あの方もそう評しておられた。
知っていると認めれば、次の問いが来る。エーリヒの背後にいる人間について。その問いに答えれば、さらにその先を掘ることになる。ヴェルナーはそういう男だ。糸口を与えれば、際限なく辿る。辿った先に何があるか——それを知っているからこそ、今は渡せない。
自決の毒。
ヘルマンは茶碗を持ち上げようとして、やめた。
歯に仕込む毒。軍の情報部でしか見たことがないと、ヴェルナーは言った。正確な認識だ。——だが、もう少し正確に言うならば、あれは情報部の中でも特定の部署にしか支給されないものだ。自国に戻れぬ任務を負う者たちに、最後の選択肢として渡される代物。
あの毒が出たということは、この件の向こう側にいるのは、レーベンの裏社会の人間ではない。
ヘルマンは椅子から立ち上がり、窓際に歩いた。上層区の夜は静かだ。通りの街灯が石畳を照らし、遠くで衛兵の巡回の灯りが動いている。商業区の方角には、まだ灯りが点いている建物がいくつかある。アシュガル商館の二階も、その一つかもしれない。
この街に、国家の影が伸びてきている。
窓から離れ、机に戻った。引き出しを開ける。帳簿の下に、古い封書が一通。宛名は自分自身。差出の名はない。封蝋は割られていない。
手に取り、重さを確かめた。薄い紙が一枚か二枚。何が書かれているかは知らない。知る必要が生じた時に開けるものだと、預けた人間から言われている。
まだ早い。
——だが、あの毒が出た以上、「その時」は近づいている。
封書を引き出しの奥に戻し、帳簿を元の位置に重ねた。手が震えるようなことはない。七十年も生きていれば、たいていのことには動じなくなる。ただ——冷めた茶の苦みが、いつもより長く舌に残った。
ヴェルナーのことを考える。
あの若者が来た時、茶を用意して待っていたのは偶然ではない。来るだろうと思っていた。昨夜の騒ぎを考えれば、今日中に報告に来るのが妥当だ。あの男は合理的に動く。——だが、合理的に動く男が、合理的でない選択をする時がある。あの事件の後に軍を辞めた時のように。
二十クローネの仕事は終わった。ヴェルナーはそう理解しているだろう。だが——終わったことにしておけるかどうかは、この先次第だ。
眼鏡を掛け直した。ぬるくなった茶を、一息に飲み干す。
「あの若者を、もう少し泳がせることになるかもしれませんな」
誰に向けた言葉でもない。この部屋には自分しかいない。帳簿の山が、黙って聞いているだけだ。
使うのか、守るのか。
それは、まだ決めなくてよい問いだった。




