第13話「二十クローネの値段」
萌月二十日、朝。
曇り空だ。窓の外は一面の灰色で、日差しは望めそうにない。昨日と変わらない空だが、地面は乾いている。雨にならないだけましだ。
事務所の机の上に、昨夜回収した帳面が置いてある。その横に、ドルクの工具を包んだ布と、持ち出せた分の盗品が並んでいた。
レーネが来た。左腕に昨夜巻いた布がそのままだ。
「傷を見せろ」
「大したことないっすよ」
「見せろ」
袖をまくらせた。浅い切り傷だった。昨夜の応急処置が効いて、血は止まっている。新しい布で巻き直し、薬草の軟膏を塗った。マルタに分けてもらった品で、こういう時しか出番がない。
「先生、逃がしちゃったっす」
「荷は確保した。帳面も取った。お前の仕事は十分だ」
レーネは窓の外を見た。いつもなら何か軽口を返すところだが、口を開かなかった。
大柄な男のことだろう。昨夜リュッケを離れる時、あの男の前でレーネの目が変わっていた。あの目が、まだ頭にある。
何も言わなかった。今は何を言っても薄っぺらくなる。
帳面を開き直した。昨夜は暗い倉庫の中で灯りを当てて一瞬確認しただけだ。朝の光の下で、改めて一頁目から読む。
日付、品名、数量。筆跡は一つ。几帳面な字だ。品名の横に「済」と記されたものがいくつかある。引き渡された分だ。棚にあった空きと数が合っていた。
最後の頁の手前に、異なる筆跡があった。太い字で、走り書き。
「エーリヒ——次は数を揃えろ」
エーリヒ。帳面を管理していた男の名前だろう。他の頁には名前は出てこない。この走り書きだけが、別の人間の手によるものだ。
エーリヒの上に、指示を出す人間がいる。
「先生、その名前——」
「帽子の男だろうな。昨夜逃げた方だ」
「じゃあ、この書き込みは」
「別の人間だ。エーリヒに指示を出している誰かがいる」
レーネが帳面を覗き込んだ。
「まだ上がいるってことっすか」
「少なくとも、あの男一人の仕事じゃない」
帳面を閉じた。裏表紙の内側に、引取日のメモがある。「次回引取——萌月二十日」。今日だ。——もっとも、昨夜の騒ぎでエーリヒが姿を消した以上、予定通りに動くとは思えないが。
レーネに茶を淹れさせた。少し前に奮発した茶葉はもう残り僅かだ。レーネが棚から干し果物を見つけ出して皿に並べた。
「先生、これ食べないと駄目っすよ。昨日の夜から何も食べてないでしょ」
「パンがあるだろう」
「硬すぎて齧れないっす、あれ。あたしが明日なんか買ってくるんで、今日はこれで我慢してください」
干し果物を齧り、茶で流し込む。杏の甘みが舌に広がった。夜通し動いた後の体には、甘いものが沁みる。
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午後、上層区に向かった。
中層区の坂道を上る途中、通りの屋台で豆のスープを買った。木の碗に注がれた、とろみのある黄色いスープだ。歩きながら啜る。豆の甘みと塩気が喉を温めた。朝から碌に食べていないことを、体が思い出す。
ヘルマンの両替商。二階の執務室。いつもの帳簿の山。老人は茶を用意して待っていた——まるで来ることを知っていたかのように。
「ヴェルナーさん。お顔の色がよろしくありませんな」
「寝てないだけだ」
「さようでございますか」
帳面を机の上に置いた。原本だ。持ち帰るが、この場で見せる分には構わない。
状況を報告した。廃倉庫の盗品の保管状況。管理帳面の内容。二人組の到着と交戦。片方が逃走したこと。
ヘルマンは帳面の頁を繰りながら聞いていた。手は淀みない。
「品の分類が徹底されておりますな。素人の仕業ではございません」
「ああ。帳面に名前が残っている。走り書きで『エーリヒ——次は数を揃えろ』。逃げた男がエーリヒだろう」
ヘルマンの手が止まった。
頁を繰る動きが、一拍遅れて再開する。表情は変わらない。だが一拍止まった。それだけで十分だ。
「エーリヒと。……レーベンでは、あまり聞かない名でございますな」
「知っているのか」
「いいえ。ただの所感でございます」
嘘だ。この老人が知らない名前に手を止めることはない。だが追及はしない。ヘルマンがこの名前について何を知っているにせよ、今の段階で聞き出せる類のものではない。
「もう一つ。逃げなかった方——大柄な男は、縛った後に自決した。歯に仕込んだ毒だ」
ヘルマンの手が、今度こそ完全に止まった。
沈黙が長かった。窓の外で、鴉が一声鳴いた。
「……そうでございますか」
老人が茶碗を持ち上げた。一口啜り、置いた。その間、一度もこちらと目を合わせなかった。
「厄介なことになりましたな」
「口封じの毒は、軍の情報部でしか見たことがない。盗品を運ぶだけの人間が持つものじゃない」
「さようで」
「一つだけ聞く。エーリヒの背後にいる人間について、心当たりはあるか」
ヘルマンが顔を上げた。穏やかな微笑みだ。いつもの微笑み。そして最も情報を出さない時の顔だ。
「さて。それは、わたくしの知る範囲を超えておりますな」
知らないのではなく、超えている。——言い回しに注意する男だ。
ヘルマンが引き出しから小さな革袋を取り出し、机の上に置いた。金属の重い音がする。
「約束の報酬でございます。二十クローネ。お確かめくだされ」
受け取った。中を改める。銀貨が二十枚。
「この先を掘るなら、別の形で改めて向き合うことになりますな」
丁寧な言い方だが、意味は明確だ。ここから先は、この依頼の範疇ではない。
帳面を懐に戻し、立ち上がった。階段を下りる。
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夕方。灰色猫亭。
カウンターにドルクが座っていた。いつもの場所だ。巨体を丸めて、麦酒の杯を手に持っている。隣の席が空いていた。
布に包んだ工具を、カウンターの上に置いた。
「返す。全部揃ってる。鏨三本、計器、硝子管」
ドルクが布を開いた。一つ一つ確認する。鏨の柄に刻まれた師匠の刻印を、太い指で撫でた。
「……ああ」
それだけだった。だが、杯を置く手が少しだけ震えていた。
マルタが麦酒を二杯、黙って出した。
「あんた、顔色悪いよ。飯食べてんの」
「食べてる」
「嘘おっしゃい。レーネちゃんから聞いたよ、昨日の夜から碌に寝てないって」
「あいつは余計なことを——」
「余計じゃないよ。ほら、今日は煮込みがあるからね。奢りだからありがたく食べな」
深皿がカウンターに置かれた。羊肉と根菜の煮込みだ。湯気が立ち、香辛料の匂いが鼻をくすぐる。西のアシュガル風の味付けに、東の薬草が少し混ざっている。この街らしい味だ。マルタの奢りは年に数回しかない。断る理由もない。
ドルクと並んで、黙って飲んだ。煮込みを匙で掬い、麦酒で流し込む。肉が柔らかく、根菜の甘みが舌に残る。温かい飯だ。いつもの席だ。
だが——杯を置いた時、麦酒の泡が白く縁に残っているのが目に入った。
あの男の口の端に残っていた白い泡と重なって、一瞬、手が止まった。
杯を持ち直した。一息に飲み干す。
「おかわり」
「はいはい」
マルタが杯を取り、新しい麦酒を注いだ。
ドルクが二杯目を空にして、立ち上がった。
「帰る」
「ああ」
「——面倒をかけた」
「酒代のツケで相殺だ。まだ溜まってるぞ」
ドルクが鼻を鳴らした。笑ったのかもしれない。この男の表情では判断がつかない。
大きな背中が扉をくぐり、夜の通りに消えていった。
しばらくして、レーネが隣に座った。左腕を庇うように体の前で組んでいる。マルタが何も言わずに林檎酒を出した。
「先生」
「何だ」
「あの男——大柄な方っすけど。あんなことする理由、わかるっすか」
一日かけて、ようやくレーネが口にした問いだった。
「わからん」
「……そうっすか」
「命じられていたか、脅されていたか、あるいはそういう世界に生きていたか。どれかだ。どれであっても——死んだ人間にはもう聞けない」
レーネは何も言わなかった。林檎酒を一口飲んで、皿の漬け物を一つ摘んだ。
窓の外は曇り空のまま暮れていた。通りの街灯が一つ、二つと灯っていく。
盗品の大半は確保した。ドルクの工具も戻った。報酬も手にした。二十クローネ分の仕事は終わった。
だが——棚にあった「済」の品。既に誰かの手に渡った分。あの男が死んでまで守った沈黙。帳面に残されたエーリヒの上の、別の筆跡。
二十クローネの値段に見合う答えは手に入れた。
見合わない問いだけが、残った。




