第12話「銀貨十枚の男」
萌月十九日、深夜。
事務所を出たのは、鐘楼が十一を打った後だった。通りに人影はない。街灯の火が風に揺れて、石畳に不安定な影を落としている。
出る前に、冷えた肉パイの残りを腹に入れた。空腹で判断が鈍るのは勘弁だ。外套の下に短剣を差した。使う機会がないことを祈る。レーネは腰の剣に手を触れて確認し、小さく頷いた。
「行くか」
「はいっす」
中層区から外壁区へ、足音を殺して歩く。普段なら四半刻の道を、街灯の少ない路地を選んで回る。春とはいえ夜は冬の名残があり、冷えた空気が首筋を刺した。月は雲に出入りを繰り返している。照らされたり隠れたり——都合がいいのか悪いのか、判断がつかない。
外壁区に入ると、城壁の影が通りを覆った。リュッケに近づくほど街灯が減り、建物の輪郭だけが暗がりに浮かぶ。
廃倉庫群。壁の漆喰が剥がれ、屋根瓦が崩れた倉庫が並んでいる。昼間でも寂れた場所だが、夜はただの廃墟だ。
「奥から三番目っす」
レーネが小声で導く。昼の偵察通りだ。足取りに迷いがない。
三番目の倉庫の前に着いた。蝶番に油が光っている。周囲の倉庫とは明らかに違う。扉には真新しい南京錠がかかっていた。廃倉庫に新品の錠前——答え合わせのようなものだ。
扉に耳を当てた。中に物音はない。
「俺が先に入る。錠を開けたら、お前は掛け直して外で待て。奴らが来たら挟み撃ちにする」
「了解っす」
外套の内ポケットから、細い金属の棒を二本取り出した。軍の情報部にいた頃に覚えた技術で、唯一まともに役に立っているものだ。南京錠の鍵穴に差し込み、手探りで内部のピンを探る。安物の錠前だ。三つ目のピンが落ちた時、小さな金属音とともに錠が外れた。
錠をレーネに渡し、扉をゆっくり押し開けた。蝶番は油のおかげで音を立てない。中に入ると、背後でレーネが南京錠を金具に通し直してカチリと閉める音がした。これで外からは元通りだ。
持ってきた覆い付きの灯りを点けた。
光が倉庫の中を照らした瞬間——足を止めた。
棚が壁際に並んでいた。整然と。左側に工学派の品、右側に祈祷派の品。種類ごとに仕切られ、布で包まれたものもある。探知用の計器、感知用の小型魔導具、浄化用の聖杯の素材、強化用の金属板。一つ一つが丁寧に保管されている。
ただの盗品の隠し場所ではない。在庫管理だ。入荷と出荷を把握している人間がいる。
左の棚の上段に、見覚えのあるものがあった。小ぶりな鏨が三本。導力計器。焼き入れ用の硝子管。ドルクの工具だ。鏨の柄に、軍鍛冶の師匠の刻印が入っている。間違いない。
奥の作業台に、帳面が一冊置いてあった。開くと、日付と品名が並んでいる。筆跡は同一——一人の人間が管理している。品名の横に「済」と記されたものがいくつかある。引き渡し済みの印だろう。棚の空きと数が合う。一部は既に誰かの手に渡った後だ。
裏表紙の内側に、走り書きがあった。「次回引取——萌月二十日」。明日だ。
帳面を外套の内側に押し込んだ。
外から、足音が聞こえた。一つではない。二人分の足音が、砂利を踏んで近づいてくる。
灯りを消した。棚の影に身を隠す。
表の扉の前で、足音が止まった。低い声で短く何か言い交わしている。鍵を取り出す音。錠が外れる金属音。いつもの手順だろう——何の疑いもない動きだ。
扉が開いた。小さな灯りが入ってくる。男が一人、中に入ってきた。続いて大柄な影が荷袋を担いだまま入る。二人だ。
先に入ってきたのは中背の男。帽子を目深に被っている。灰色の外套。昨日の尾行者だ。そしてきっと——ユルゲンの水夫を銀貨十枚で雇った、レーベン訛りの男。
大柄な方が荷袋を棚の近くに下ろした。中背の男が灯りを掲げて棚の配置を確認している。荷を運び入れる前の点検だろう。そのまま棚に手を伸ばした時——動きが止まった。
「……何だ、この匂いは」
鼻を鳴らして、ゆっくりと振り返る。
「誰かいるのか」
レーベン訛りだった。
帳面は確保した。あとはこの男の顔を確認しておきたい。
二人が棚に注意を向けている間に、棚の影を伝って扉の方に移動した。開いたままの扉の前に立つ。退路を塞ぐ。覆いを外し、灯りを点けた。
「動くな」
中背の男が身を翻した。速い。帽子の下から痩せた顔が一瞬見えた。三十代半ばか。目が鋭い。
大柄な男が先に動いた。考えるより体が動く類の人間だ。こちらに向かって突進してきた——扉を突破して逃げるつもりだろう。
体を半身にして軸をずらした。突進の勢いを利用して腕を取り、引き倒す——軍で叩き込まれた体捌きだ。大柄な男の体が傾いた。だが、腕を振り払う力が尋常ではない。関節を極めきる前に、体ごと引き剥がされた。
態勢を立て直す間もなく、大柄な男は扉に体当たりした。扉が弾け飛ぶように開き、夜の空気が流れ込んだ。
「——止まれっ!」
レーネの声だ。外で待ち構えていた。大柄な男が一瞬ひるんだ——だが止まらない。頭を低くして突っ込んでいく。
外で金属と肉がぶつかる音が短く響いた。次いで、重いものが地面に倒れる音。間を置かず、レーネの声がした。
「押さえた!」
「そいつは縛れ!中の男だ!」
本命はこっちだ。品を管理し、人を使い、金を動かしている男。
中背の男は倉庫の奥に下がっていた。腰から短刀を抜いている。一尺ほどの刃。構え方は喧嘩殺法——刺すのではなく払う構えだ。相手の動きを止めて隙を作るための使い方。知っている人間だ。
だが逃げ場はない。出入口は表の扉だけだ。窓は全て板で塞がれている。
レーネが倉庫の中に入ってきた。外で大柄な男を縛り終えたのだろう。息が荒いが、目は落ち着いている。
前にレーネ、横に俺。二対一。
普通なら、ここで終わる。
男は棚と棚の間に下がった。狭い隙間に自分から入っていく。——二人が同時に斬りかかれない位置を選んでいる。追い詰められているはずなのに、動きに迷いがない。
レーネが踏み込んだ。剣の一撃が横薙ぎに走る——男が半身になって躱し、短刀で剣の腹を叩いた。軌道がずれる。棚と棚の狭い間では、レーネの剣の間合いの利点が潰される。男はそれを分かっている。
俺は反対側から回り込んだ。短剣を構え、棚の隙間から退路を断つ。
男の目がこちらを見た。追い詰められた目——いや、違う。何かを計算している目だ。
レーネが二撃目を放った。上からの振り下ろし。男が短刀で受けた——腕が震えたのだろう、顔が歪んだ。力では負けている。だが後退しながらも、こちらとの距離を測っている。
追い詰めている。そのはずだった。
男の左手が外套の内側に入った。
——まずい。
「レーネ、離れ——」
白い閃光が弾けた。
倉庫の中だ。壁と天井に反射して、光が逃げ場なく目を打つ。乾いた破裂音が耳を潰した。閃光弾。工学派の道具だ——盗品の中から持ち出していたか、最初から懐に仕込んでいたか。
視界が白く飛んだ。耳鳴りが頭を埋める。扉の方角で足音が——
何秒か。わからない。視界がゆっくりと戻った時、表の扉が開いていた。男の姿はない。
「レーネ!」
「——大丈夫っす。でも、逃げられた」
レーネが棚に手をついて立っていた。左腕を右手で押さえている。袖口から血が滲んでいた。
「腕は」
「浅いっす。閃光の直前にやられた」
レーネが顔を上げた。まだ光の残像が消えていないのだろう、目を細めている。
「——あいつ、距離を詰めるのを待ってたっすね。棚の間に下がったのも、わざとだ」
気づいていたか。追い詰めていたのは俺たちだと思っていた。だが実際には、閃光弾の射程に引き込まれていたのは俺たちの方だ。密閉された倉庫の中——壁と天井に光が反射する空間で使えば、効果は倍になる。
一人に絞って、二対一で挟んで、それでも逃げられた。
外に出た。
夜の空気が、焼けた目に冷たかった。月が雲から顔を出していて、倉庫の前が薄く照らされている。
縛ったはずの大柄な男が、地面に横たわっていた。
動かない。
近づいた。仰向けだった。目は開いている。口の端に白い泡が残っていた。
体に触れた。もう冷え始めている。
歯の奥に仕込んだ毒だ。縛られた状態でも噛み砕ける。猿轡を噛ませていなかった。盗品稼ぎの手下にそこまでする必要があるとは、思っていなかった。
口封じの毒。軍の情報部にいた頃、敵地に潜入する工作員が持たされる代物だった。捕まった時に噛む。情報を漏らすよりも死を選ぶための、最後の手段だ。
盗品を運ぶだけの人間が、なぜこんなものを持っている。
レーネが隣に来た。男の顔を見て、足を止めた。何も言わなかった。
「……倉庫に戻るぞ。荷を回収する」
倉庫に入り直した。棚からドルクの工具を探す。鏨三本、計器、硝子管——全部ある。布に包んで外套の内側に入れた。帳面は最初に確保してある。他にも持てるだけの品を抱えた。大柄な男が持ち込むはずだった荷袋にも新しい品が詰まっていた。それも回収した。
遺体はそのまま残した。衛兵が見つけるだろう。身元を辿れるものは何もないはずだ——そういう連中だ。
「レーネ、動けるか」
「余裕っす」
声は平気そうだったが、振り返ったレーネの目は、さっきまでとは違っていた。
倉庫を出て、リュッケを離れた。




