第11話「二つの刻印」
萌月十九日。朝は薄曇りだった。昨日ほど風は冷たくない。窓の外で、向かいの屋根に雀が二羽止まっている。平和な朝だ。
茹で卵を二つ剥いて塩を振り、黒パンの端を添えて朝飯にする。卵は昨晩のうちに茹でておいた。少し前に買った茶葉で湯を出す。一等級上にしただけで、ちゃんと茶の味がする。こういう小さな贅沢が金欠を呼ぶのだと、頭ではわかっている。
レーネが朝一番で来た。日の出前に外壁区に出ていたらしく、事務所に入ってきた時、靴の泥が多かった。外壁区は石畳が途切れる場所が多いから、足元を見ればどこを歩いてきたかわかる。
「先生、外壁区の情報っす」
「座って話せ。茶を飲むか」
「いただくっす」
レーネが一口飲んで、話し始めた。
「外壁区の城壁寄りに、廃倉庫が並んでるところがあるんすよ。地元の人はリュッケって呼んでるらしいっす」
「リュッケか」
聞いたことはある。外壁区の南東側、城壁と居住区の間に挟まれた一帯だ。かつては交易品の一時保管に使われていた倉庫群だが、十年ほど前に河港側に新しい倉庫街ができてから、ほとんど放棄されている。今は浮浪者か、表に出せない商売をする人間が使う場所だ。衛兵も滅多に巡回しない。
「で、そこの倉庫の一つに、最近になって出入りがあるって話を聞いたっす。冒険者ギルド近くの屋台のおっさんが教えてくれました。夜中に荷物を運び込んでる連中を何回か見たって」
「何人だ」
「二人組が多いらしいっす。一人は中背で帽子を被ってて、もう一人は大柄。荷袋を担いで運んでくるって」
二人組。中背の方は昨日の尾行者と重なる。大柄な方は——港区の倉庫番が言っていた男か。やはり一人の仕事ではなかった。
「どの倉庫かはわかったか」
「まだっす。リュッケの倉庫って十以上あるんで、あたしが直接見てこないとわからないっす。昼のうちに偵察してきましょうか」
「頼む。ただし、絶対に中には入るな。外から見るだけだ。出入りの痕跡——足跡、荷運びの轍、扉周りの傷。それだけ確認しろ」
「了解っす」
レーネが出ていった。足音が階段を下り、表の扉が開いて閉まる。
一人になった事務所で、茶を啜りながら考える。
これまでに判明している盗品を、頭の中で整理した。
工学派の品——ユルゲンの探知用魔導具。ドルクの精密工具。ブルーノが言っていた計測器や探知用の小物。
祈祷派の品——浄化用の聖杯の素材。強化用の護符の土台になる金属板。銀杯の素材。
二つの体系の品が混在している。だが、でたらめではない。並べてみれば、偏りがある。
工学派の品は、どれも「探知」「感知」「計測」に関わるものだ。防壁を張ったり攻撃に使う類の品は一つもない。
祈祷派の品は、「浄化」「強化」に関わるもの。治癒や幻惑の用具は含まれていない。
探知と浄化。感知と強化。
片方は「見つける」ための道具。もう片方は「守る」ための道具。
——何を探して、何から守ろうとしている?
軍の情報部にいた頃、魔術の理論書を読み漁った。使えないからこそ、仕組みを理解しなければ現場で判断ができない。どの道具が何に使えるか、どの組み合わせが何を可能にするか。それは今でも頭に残っている。
工学派の探知道具と祈祷派の浄化用具。この二つを組み合わせるなら——封印された何かを探し出し、安全に取り出すための道具一式という可能性がある。探知で位置を特定し、浄化で周囲の障壁や汚染を取り除き、強化で対象を保護する。
だが、それはあくまで可能性の一つだ。確証はない。わかっているのは、誰かが意図的に、両体系の特定の機能に関わる品だけを集めているということ。二種類の刻印が、一つの目的のために並んでいる。
これは単なる転売目的の窃盗ではない。
午後、上層区に向かった。空は薄い雲に覆われていて、日差しが弱い。坂道の途中で焼き栗の屋台を見かけたが、今日は買わずに通り過ぎた。昨日ここで立ち止まった時、尾行者の姿を視界の端で捉えた。今日は——背中に視線を感じない。
ヘルマンの両替商。二階の執務室。老人はいつものように帳簿の前に座り、小さな眼鏡越しにこちらを見た。
「ヴェルナーさん。何かおわかりになりましたかな」
「中間報告だ。盗まれている品にパターンがある。工学派は探知・感知系、祈祷派は浄化・強化系。どちらも特定の機能に偏っている」
ヘルマンは出された茶を啜りながら聞いていた。表情は穏やかだが、目が鋭くなったのを見逃さなかった。
「それと、品の集積場所に心当たりがある。外壁区のリュッケだ」
ヘルマンの茶碗を持つ手が止まった。
一瞬——本当に一瞬だけ、老人の表情に何かが走った。すぐに穏やかな顔に戻ったが、指先の強張りは少し遅れて解けた。
「リュッケでございますか。……あそこは昔——」
言葉が途切れた。ヘルマンが茶碗を置き直して、微笑んだ。いつもの微笑みだ。
「いえ、昔の話でございます。それで、どうなさるおつもりで」
「倉庫を特定して、中を確認する。品を回収できれば回収する」
「そうでございますか。——ヴェルナーさん。一つだけ、老人の忠告をお聞きくだされ」
「何だ」
「裏で品を集める人間は、品だけを集めているとは限りませんぞ。お気をつけなさいませ」
帰り道、坂を下りながら考えた。ヘルマンは「リュッケ」という名前に反応した。「昔——」と言いかけて、止めた。あの老人が言葉を途中で止めることは滅多にない。止めたということは、言うべきでないと判断したということだ。
ヘルマンはリュッケについて何か知っている。だが今は追及しない。この老人に対しては、こちらから踏み込むより、向こうから出してくるのを待つ方が結果的に多くを得られる。
事務所に戻り、通りの屋台で買った肉入りのパイを齧った。冬野菜と羊肉が詰まっていて、皮がぱりぱりと砕ける。一日歩き回った体に、温かい飯が沁みる。
日が傾いた頃、レーネが戻ってきた。頬が薄く赤い。走ってきたのだろう。
「先生、見つけたっす。リュッケの奥から三番目の倉庫。扉の蝶番に油が塗ってあって、錆びてないんすよ。周りの倉庫は全部錆びてるのに、そこだけ新しい。あと、真新しい南京錠がかかってました」
「中は」
「見てないっす。先生の指示通り、外からだけ。壁の隙間から覗いたんすけど、中は暗くて何も見えなかった。窓は板で塞がれてました」
「よくやった」
蝶番の油。新品の南京錠。窓の板塞ぎ。廃倉庫にそれだけ手が入っているなら、間違いない。
レーネが少しだけ口元を緩めて、すぐに真顔に戻した。
「先生、踏み込むんすか」
「今夜だ」
「——今夜っすか」
「昨日、俺は尾行された。相手は俺の動きを把握している。猶予を与えれば品を移される。今夜動くのが一番確実だ」
レーネが頷いた。表情が引き締まる。
「あたしも行くっすよね」
「当たり前だ。俺一人じゃ荷物は運べん」
半分は本当で、半分は嘘だ。相手は二人組だ。俺一人では対処しきれない。レーネの剣は荒削りだが、俺より速い。いつの間にか——この一年で、確実に腕を上げている。
「先生、あたし最初は荷物運びの手伝いだったのに、いつの間にか突入要員になってるんすけど」
「出世だと思え」
レーネが笑った。
夜になった。事務所の窓から外を見る。月は薄い雲に隠れている。街灯の光が石畳を濡らしたように照らしていた。
二十クローネ分の仕事にしては、きな臭すぎる。
両体系の品を組織的に集める誰かがいて、それを実行する人間がいて、その背後にはさらに別の人間がいるかもしれない。ブルーノが「一人じゃない」と言っていた。
それでも、足を止めるわけにはいかない。ドルクの工具を取り返すと約束した。




