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カムサリガタリ  作者: 夢物語草子
弐の編

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酒と刀と元許嫁 2話

第2章

「遅くなりました!」

勢いよく台所の扉が開いた。

朝の入浴を終えた東雲が飛び込んできた。湯気がまだ立っている。水気を拭ったばかりの黒髪が朝の光の中で艶めいて、しかしその一部が濡れたまま顔に張り付いている。朝の訓練——早朝二時間、欠かさず行う剣の鍛練——を終えた後の入浴は東雲の日課だ。暁家には天然の温泉が湧いており、二十四時間いつでも入ることができる。これは北部高原の地の利であり、暁家の家人達が心から喜んでいる恩恵の一つだ。

温泉で東雲はよく居眠りをする。

湯船の心地よさ、湯けむりの柔らかさ、鍛練後の心地よい疲労感、それらが三つ揃うと東雲の意識はたちまち溶けていく。今日もそうなった。うとうとして、気づけば時間が経っていた。慌てて飛び出した。

濡れた髪のまま、台所に駆け込んだ。

「おはようございます。東雲、髪が濡れてますよ」

清子はすでに綺麗な手拭いを取り出している。東雲が飛び込んでくることを予想していたかのような手際だ——実際、予想していたのだろう。東雲の行動パターンは清子には完全に把握されている。

「ご、ごめんなさい」

清子は有無を言わさず東雲の髪を拭い始めた。手加減はない。きっぱりとした、しかし丁寧な拭き方だ。このままでは風邪を引く。清子の判断は常にそういう実務的な優先順位に基づいている。

「髪結いはどうします?」

「あ、三つ編みがいいです」

「じっとして。すぐ整えます」

老婆の指が、驚くほどなめらかに東雲の髪を捌いていく。三つ編みを結う指先は器用で早い。これも小太刀を扱う手先の器用さと同様だろうか、と東雲はぼんやり思ったことが、本人に聞いたことはない。

東雲は台所の中を見渡した。阿久刀がいる。清子がいる。そして——

「……あの~……どうして白院様が……」

白院が台所にいる。

東雲の声が小さくなった。身体が小さくなった。背筋が伸びて縮み、今度は硬直した。

白院に対する東雲の緊張は、筋金入りだ。ハクが今は退位した身であることは頭で理解している。しかし精神と身体がついてこない。かつてテンを宿していたその存在の前に立つと、どうしても膝の辺りから力が抜けていく。

誰も東雲の問いかけに答えなかった。答えることが難しかったのか、あるいは答えるよりも先にやることがあったのか。

「…結いましたよ」

清子の声が告げた。

「あ、ありがとうございます」

三つ編みに整えられた髪を手で確認してから、東雲は気を取り直すように小さく息を吐いた。朝食の支度に加わろうと袖をまくり、一歩踏み出したその瞬間——

「ハクはおてつだいいたします」

白院の声が言った。

東雲の足が止まった。

白院はためらいのない歩みで、かまどへと近づいた。そしてかまどの前に立つと、傍に置かれた鉄鍋へと手を伸ばした。直に触れようとした。鍋は火にかかっている。

「あ、危ないです!火傷します!」

東雲は反射的に白院の手首を掴んだ。白院は止まった。東雲を見た。

「……そうなのですか?」

その問いは、疑問というより確認だった。熱いものに触れると焼ける。痛い。それは東雲にとって幼い頃から知っていて当然の知識だが、白院にとってはそうではなかったらしい。かつて器であった時、テンがその身体を守っていたのか。あるいは単純に、そういった日常の痛みと無縁の生を送ってきたためか。

「そうです!そうです!」

東雲は力強く頷いた。必要以上に力強く頷いた。それは緊張から来る力みだったかもしれない。

白院は考えた。

数秒の処理時間があった。

「では」

白院は咒を展開した。

台所の空気が変わった。一瞬で変わった。指先から白い光のような何かが滲み出して、それは鍋に向かった——ではなく、鍋の傍の空間に。氷が生まれた。大きな塊が。かまどの上の空間に、綺麗に整えられた氷の直方体が出現して、重力に従い鍋の中へと落下しようとした。

「駄目です!駄目です!」

東雲は今度は白院の袖を引いた。

白院は止まった。氷も止まった——空中で静止した。白院が咒で引き留めたのだ。

「……………そうなのですか………?」

今度の問いには、わずかに困惑の色が混じっていた。人間の感情が少しずつ戻ってきているのかもしれない。あるいは単純に、やり方が分からなくて途方に暮れているのかもしれない。その表情の微細な変化を、東雲は感じ取った。

「て…てつだいはだいじょうぶですので……」

東雲は精一杯の笑顔を作って言った。精一杯すぎて少し引きつっていた。

「ハクはおてつだいいたします」

白院は言った。

断固として言った。

阿久刀と清子がそれぞれの位置から白院を見た。その顔には、それぞれ異なる表情が浮かんでいた。阿久刀は困惑と覚悟の混じった表情。清子は冷静に事態を分析している表情。どちらも、さてどうしたものかという認識において一致していた。

白院は台所全域を見渡した。

そして咒を展開した。

今度は指先からではなかった。全身から、だった。


それは朝食の準備ではなかった。

強いて言うならば、世界の再編成だ。言い方は大袈裟ではない。本当にそうなのだ。

白院の咒が台所全域に広がった瞬間、清子は「これはまずい」と瞬時に判断して「皆、外に出なさい」と一声かけた。同時に阿久刀も「全員台所から出ろ」と言っていた。二人の声が重なったが、方向性が同じだったので混乱は起きなかった。

家人達が台所から撤退した。

扉の外から、中の様子を窺う。咒の光が扉の隙間から漏れ出している。台所の中では何かが起きていた。物が動く音。沸騰する音。凍る音。燃える音。それらが同時に発生しているような、奇妙な音の混在。

「……何が起きてるんですかね」

東雲が覗き込もうとして、清子に首根っこを掴まれた。清子は危険を察知する能力は並外れている。東雲が覗けば何かが起きるだろうと、清子は感じ取ったのだ。

やがて台所は静かになった。

白院が扉を開けた。

その顔に、何らかの達成感のようなものがあった。かすかな満足の気配が、ほとんど無表情の中に滲んでいた。

「ハクはあさごはんをつくりました」

沈黙があった。

全員が台所の中を覗いた。

そこにあったのは、朝食と呼んでいいのかどうか、誰にも判断のつかない代物だった。


食堂。その食卓に並べられたものを、清子は仕事の顔で検分した。

凍った焼き魚。文字通り凍っている。焼き目がついているにも関わらず、触れると霜が降りている。これは焼くことと凍らせることを同時に行おうとした結果と思われた。咒によって熱と冷が共存したのだ。物理的には説明のつかない代物だ。

炎に包まれた冷奴。豆腐の表面で炎が燃えている。しかし豆腐は崩れていない。触れると冷たい。が、熱い。冷奴であることは間違いないが、表面の炎が消えない。

溶岩のような見た目の味噌汁。椀の中のそれは確かに味噌汁の香りを放っているが、色が暗赤色で、表面がゆっくりと波打ちながら、ごく稀に泡立つ。椀が振動している。持ち上げることを清子は試みたが、熱くて持てなかった。

異臭を放つ新鮮な果物。これは果物として見た目に問題はないが、近づくと目が痛くなる種類の臭気がある。新鮮であることは疑いようがない。ただし果物として新鮮なのかが不明瞭だった。

紫色の肉汁が滴る薄切りの肉。こんにゃくのような色だが、切り口から滴り落ちる液体は確かに肉のそれだ。ただし紫色。食欲を著しく減退させてくれる。

白米は問題なかった。漬け物も問題なかった。

「畏れ多くも白院様が自らお作りになられた朝食です。心して召し上がるように」

清子はそう宣言した。

「いや、それ以前にさ、これ、食べていいものなの?」

アティヤが言った。露骨に嫌な顔をしている。これは無礼ではなく、生存本能だ。アティヤは貧民街で生き延びてきた。何が食べられて何が食べられないかという判断は、本能的な直感がある。今その本能が警戒信号を出している。

「普段の食事とはちょぉっと違うが…食べれば旨いと思うぞ」

阿久刀が努めて明るく言った。努めて、という部分が清子には透けて見えた。

「……違いすぎる……」

千早がぼそっと言った。

白黒の視界で見てもそう思うのなら、実際に相当違うのだろう。

「と、とりあえずいただきましょう!」

東雲が音頭を取った。これは勇気というより、白院への配慮だった。白院が何かを作ったのだ。食卓に出したのだ。それを誰も食べないというのは——退位したとはいえ、あの方に対して、それは。

全員が一度は手をつけた。義務感と礼儀と、それから少しの恐怖心によって。

「……ねぇ、この味噌汁、箸いれたら溶けちゃったんだけど……」

アティヤは先端が溶けてなくなった箸を見ていた。声が震えていた。

「魚、固い、冷たい」

千早が言った。鉄よりも固そうな焼き魚を前に、動かない箸を見下ろしていた。

「うーん……いくらあたしでもこれを口にほうりこむのは無理だあ!」

鶴罪が燃え盛る冷奴と対峙していた。箸を近づけると炎が揺れた。冷奴が怒っているように見えた。箸先が焦げたのもいただけない。

「こ……これやべえええええ!!!」

一切れ口に入れた爛漫が、叫びながら厠の方向に走っていった。紫色の肉汁が滴る肉を食べた結果だった。足音が廊下を遠ざかっていく。

清子は静かに椀を手に取った。ご飯茶碗だ。

白院のみが淡々と食事を進めていた。何の問題もない顔で、作った本人として当然の速度で口に運んでいる。

東雲はガクガクブルブルと震えていた。食べなければ不敬。食べたら命に関わるかもしれない。その板挟みの状態が姿勢に出ていた。

阿久刀は箸を手に取った。

覚悟というものがある。戦場における覚悟と、これほど似た何かを朝食の前で感じることになろうとは、かつての自分には想像できなかっただろう。しかし覚悟は覚悟だ。腹を括った。とりあえず口に入れてみよう——それ以外の選択肢が今の自分にあるとは思えなかった。

凍った焼き魚を箸で叩く。金属質な音がした。


その後のことは、あまり詳しく語るべきではないかもしれない。

完食したのは一人だけだった。

白院は全く問題なく食べた。これは凄まじいことだと後になって誰かが言った。食べた本人に凄まじいという認識はないから、ますます凄まじい。

阿久刀は悪戦苦闘しながら三割を食べた。夜刀と恐れられた男の意地がそうさせたのか、あるいは白院への配慮がそうさせたのか、おそらくその両方だった。

朝食が終わった後、白院は瞑想のために部屋に戻った。その姿は静かで、まっすぐで、何事もなかったような歩みだった。

阿久刀は少しの間、台所に残っていた。

清子と二人で。

「早急に、料理とは何かを学んでいただく必要がありそうですね」

「…あぁ」

「お任せください」

「…頼む」

それだけが交わされた。しかしその短い言葉の中に、幾重かのものが込められていた。清子はその幾重かを全部受け取ってから、片付けを始めた。

阿久刀はしばらく厠に閉じ籠もる羽目になった。

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