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カムサリガタリ  作者: 夢物語草子
弐の編

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酒と刀と元許嫁 1話

夜明け前の暗闇とは、ただ暗いのではない。

それは漆黒というより、世界がまだ準備を整えていない状態というべきで——光が来ることを知りながら息を潜めている、一種の期待に満ちた沈黙だ。暁家の台所は特にそういう気配を帯びていた。かまどの灰はまだ温かく、前夜の火の記憶を手放していない。囲炉裏の傍に積まれた薪は、まだその役割を果たす前の静けさで黙り込んでいる。天井の隅、梁の重なりに棲みついている何かが、かすかに軋む。家の骨格が伸びをするのだ。夜と朝の狭間で、建物すらも目を覚ます。

氷清子が台所に入ったのは、その沈黙がまだ充分に残っている時刻だった。

外では山鳥の鳴き声一つない。星はまだいくつか残っているが、東の稜線がほんのわずか、ほんのわずかだけ鈍い藍色に滲み始めている。それで充分だった。清子はそういった気配の変化を、骨の髄まで叩き込まれた習慣によって感知することができる。何年も何年も繰り返してきた。それは今や思考以前の行為だ——眠りから覚め、衣を整え、台所へ向かう。その連なりに、迷いというものが挟まる余地はない。

老婆の身体というのは、つくづく都合よくできていると清子は思う。

ゆっくりと動く。軋む。節々が痛む。世間はそう思っている。しかし実際のところ、清子の身体は二十歳前後の娘のそれであり、その俊敏さは鍛え上げられた若武者をも凌ぐ。老婆の姿は咒のそれ——昼の間と限られた時間帯に纏う衣のようなもので、清子自身にとってはもはや自分の素顔同然に馴染んでいる。鏡を見れば皺と白髪がそこにある。それで何の不自由もない。美貌などというものは、清子が望んで持ったものではないのだから。

初代氷家の当主が願いを込めた呪詛に似た呪い。子々孫々絶世の美しい女が生まれますように、と。

それはたしかに叶った。叶い過ぎた。

美しく生まれるということは、たぐいまれな美しさを理由に狙われ続けるということだ。清子は幼い頃からそれを知っていた。だから咒を纏う。だから夜だけ本来の顔でいる。月明かりの下、銀髪が流れ、黒い瞳が静かに世界を見渡す時間——それは清子にとっての休息ではなく、むしろ戦いの時間だ。本来の自分でいる間だけ、失われた何かのことを思い出してしまうから。

今は昼前の時刻。老婆の姿で台所に立つ。これが清子の戦場だった。

野菜を切る。

包丁が木のまな板を叩く音は、規則正しく、小気味よい。清子は包丁を握る時も、小太刀を握る時と同じ手付きをする——刀は腕の延長、腕は意志の延長、意志は清子そのもの。だから野菜を切ることも、剣を振ることも、本質的には同じことだと清子は考えている。どちらも、今この瞬間に集中すること。どちらも、手を抜けば結果に出ること。

大根が均一な厚みに切られていく。牛蒡は斜め切り。蕪は薄く薄く、透けるほどに。

魚は昨夜から塩をしてある。捌いて、身を整えて、焼き台の上に並べる。脂の乗ったものを選んだ。暁家の当主は味にうるさくはないが、素材に対して敬意を持って接することを厭わない人だ。それがわかるから、清子もまた素材に誠実でいようとする。

鶏を絞める。この作業が好きかと問われれば、清子は答えに詰まるだろう。好き嫌いの問題ではない。食卓に上るものの命を、自分の手で断つ。その重みを感じながら行う。それが料理というものの一端だと信じているから行う。

一時間ほど、清子は無言で台所を動いた。

鍋が火にかかる。出汁が取れてくると、台所の空気が変わる。昆布と鰹の香りが立ち上り、夜の冷気を押しのけて、朝の気配が確かになってくる。この瞬間が好きだと清子は思う——料理が始まったと、台所が生き生きとしてくるこの瞬間が。

ふと。

扉の向こうに、人の気配がした。

人の気配、と言い切るには些か躊躇がある。この気配は清子が長年にわたって感じてきたどの人間の気配とも微妙に異なる。重さが足りない。いや、重さが多すぎる。どちらとも言えるし、どちらとも言えないような、奇妙な気配の質だ。

清子は包丁を置いた。静かに振り返る。

扉の敷居に、白い影が立っていた。

純白の装束。それは朝の暗がりの中で、淡く発光しているようにさえ見えた。小柄な身体。整った顔立ち。大きな目が台所の中をゆっくりと見渡している——何かを見ているのだが、何を見ているのか、その目を見ていても判然としない。炉の火を見るような目で、清子を見ている。石の上に落ちた雨粒を見るような目で、積まれた薪を見ている。

白院様。

かつての器のお方。千代目の帝の体内にテンを宿した少女。現人神の肉の依り代として生まれ、生きて退位するという前代未聞の形で、人の世に戻ってきた少女。

清子はその場で深く頭を垂れた。

「ご挨拶申し上げます。白院様」

白院は清子を見ていた。しばらくの間、何も言わなかった。いや、何かを言おうとしている様子でもなかった。ただ清子を見ていた。それからゆっくりと目を閉じた。薄い唇が開く。

「おはよう」

声は小さく、柔らかく、しかし奇妙なほど澄んでいた。朝の最初の光が地面に触れる時の、あの清潔な感触に似た声だった。

「おはようございます」

「邪魔してすまない。清子」

廊下から別の声がした。低く、穏やかで、少し疲れを帯びた声。

暁家の当主、明保能阿久刀が台所の入り口に現れた。


阿久刀という男を表現するのは難しい。

難しいというのは、彼が複雑だからではない。むしろ逆だ——単純すぎるほど単純な信念で生きているために、その全体像を掴もうとすると必ず何かが抜け落ちる。例えば、あの目。獣のように油断なく周囲を見渡す、暗い色の瞳。それだけを見れば、これが人間嫌いで用心深い男だと誰でもわかる。しかし同じ目が、碧天の丸まった背中を眺める時には全く別の色になる。家族と認めた者を見る時の目は、温かくて柔らかくて、見ていると少しだけ胸が痛くなるような目だ。

四十に手が届く年齢というのに、どこか少年めいた部分が残っている。それは幼さではなく、傷の深さのようなもので——深く傷を受けた人間は、ある部分において成長を止める。時計が壊れた時刻を指し示し続けるように、その頃の自分を内側に飼い続ける。

「夜刀」と呼ばれた男が台所の入り口に立っている。

明保能家の夜刀。夜間の奇襲強襲。無数の命を闇の中に沈めてきた腕。その腕が今は、白院の傍に立って「おはようございます。白院様。ご不便をおかけしておりませんか?」などと言っている。

清子はこの当主の矛盾を長年見てきた。矛盾だと思ったこともある。今はそう思わない。人間は矛盾を生きている。矛盾こそが人間の証明だ。

「ご当主様。お早いお目覚めでございますね」

「あぁ。たまにはな」

阿久刀が答える。たまには、という言葉の軽さで誤魔化しているが、清子にはわかる。白院様を見守るためにここにいる。退位したとはいえ、器のお方を一人で放置するほど、この当主は不用心ではない。

清子は一礼して言った。

「白院様。おそれながら朝食はまだご用意ができておりません。居間にてお待ちくださいますよう」

白院はその言葉を聞いた。聞いて、しばらく考えた。考えているのかどうかも実はよくわからない——ただ、何かを処理しているらしき時間があった。それからはっきりと言った。

「ハクはおてつだいいたします」

沈黙が落ちた。

台所の火が細く揺れた。出汁の香りだけが、のどかに漂い続けていた。

「……白院様?」

清子は老婆の皺の寄った目を細めて、白院を見た。白院はもう清子を見ていない。台所の中を、改めてじっくりと見渡している。かまどを見る。積み上げられた食材を見る。鍋を見る。その視線はまるで初めて博物館に入った子どものようであり、同時に、初めて陸に上がった深海の生き物のようでもあった。何もかもが等しく新鮮で、等しく解読を要するものとして目の前に広がっている。

阿久刀が口を開いた。

「白院様の申し出でな。ただ世話になるのは心苦しいから手伝うと」

「手伝うと言われても」

清子は率直だ。遠慮というものは必要な場所にしか配置しない。

「やり方をご存じとは思えないのですが」

これは侮りではなく、事実の確認だ。白院は生まれた時からテンを宿す器として育てられた。日常生活の技術——料理、掃除、洗濯——は習得の対象外だったはずだ。むしろ、そういった俗世の仕事から隔離されて生きてきたに違いない。

阿久刀は真剣な顔をした。台所の入り口に寄りかかっていた身体を起こし、少しだけ声のトーンを変えた。

「…………人に戻る時が来たんだ」

「人、ですか?」

「器のお方が生きて退位するのは歴史上初めての事だ。天から人へ」

阿久刀は少し間を置いた。その間に何を考えたか、清子には分からない。しかし次の言葉は、考えた後の言葉だった。

「その現実に一番混乱しているのは、他ならないあの方だ。だから、人の生活を教えて差し上げてくれ。頼む」

頼む、という言葉を阿久刀が使う時、それは本物の依頼だ。この当主が他人に頭を下げる機会は極めて少ない。清子はその重みを知っている。

「承知致しました」

清子は頷いた。老婆の顔が、にこりとも笑わずに答えた。

「では一切の手加減なく、徹底的に仕込ませて頂きます」

一瞬の間があった。

「おい待てやめろ」

阿久刀の声が、今度は別のトーンになった。

「もし何かしらの後遺症が残った時は当主様が責任を取られるようお願い申し上げます」

「やめてよ…お願いだから」

阿久刀は額に手を当てた。四十近い歳の男がそういう仕草をすると、妙に生々しい。明保能家の夜刀が、台所で「やめてよ」と言っている。歴史の謎というものはこういうところに潜んでいる、と清子は内心で思った。

清子は暁家の全般を仕切る執事の立場にある。台所のことだけでなく、家人の管理、来客の応対、財務の一端、日常の秩序の維持——全て清子の手が届いている。平時において最も発言力があるのは当主ではなく清子だということを、暁家の家人達は全員知っている。当主自身も知っている。そして当主が知っていながら受け入れているという事実が、この家の均衡を保つ重要な柱の一つだった。

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