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カムサリガタリ  作者: 夢物語草子
壱の編

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31/34

運命の男と女 最終話

世界というものは、たとえ誰かが死んでも、誰かが殺されても、誰かの人生が根こそぎ引っくり返されても、まるで意に介さず動き続ける。

街道の石畳は、昨日と同じように陽を受けて温かく、行き交う人々の顔は、戦場の血臭など欠片も知らぬげに穏やかで、荷を積んだ牛車が軋んで通り、茶屋の暖簾が秋風にふわりとはためいている。そういう世界の無頓着さを、無慈悲な日常を、明保能阿久刀は苦くも愛している。何があろうとも回り続けるこの世界の無感動さが、生きている者を助けることがある。世界が一緒に沈んでくれないから、こちらも沈んでいられないのだ。

「あー……つらかった」

声に出して言うと、少しだけ楽になる気がした。武人としての矜持がどうとか、明保能の当主の弟がどうとか、そういうものを一旦全部脇に置いて、ただの一人の疲れた男として、阿久刀は伸びをした。腕を天に向かって突き上げ、背骨を音高く鳴らし、肺の底まで秋の空気を引き込んで、それをゆっくりと吐く。関節がほぐれていくような心地がした。

十五日。

この半月あまりの都暮らしは、北の大乱の戦場で過ごしたどの一夜にも劣らぬ消耗だった。ただし方向性がまるで違う。刀傷は身体を傷つけるが、精神はむしろ研ぎ澄ます。しかし取り調べというものは身体に傷をつけぬかわりに、精神を擦り減らして粉にする。

明くれば呼び出し。暮れれば尋問。夜が明ければまた呼び出し。

朝廷の各所から、次々と呼び出しの使いが来た。天部の明官が問いただし、秋部の穂官が調べ、春部の桜官が記録し、そしてまた別の部署が確認を求めてきた。同じ問いを、七度も八度も、問う者の顔だけを変えて繰り返された。これは偶然ではない。別々の部署が連携しているようで、意図的に繰り返すことで矛盾を引き出そうとしているのだ。阿久刀はその試みが不快、というよりも呆れたが、怒りを見せれば相手の思うつぼだ。だから平静を保ち続けた。二十年、監視の目の下で生きてきた者の、静かな頑固さで。

疑いの目は多岐にわたった。

白帝の御身を危険に晒した。前代未聞の独断専行だ。

二十年前の叛乱の主犯格が関与した以上、この騒動は第二の大乱の前兆である。

いや、そもそも白帝を害しようとした企みがあったのではないか。

さらには、界外の勢力と通じていたのではないか。

疑いの蔓は蔓延るものだ。一本を切っても、また新たな一本が地面の下から伸びてくる。阿久刀は丁寧に、しかし根気強く、一本ずつを断ち続けた。言葉で。論理で。証言で。碧天の保証で。

そして、その碧天が。大事件を引き起こした。

阿久刀の脳裏に、あの場面が蘇る。

朝廷の大広間に居並ぶ、百を超える官僚たちの前で、白銀の巨狼が静かに歩き出したときの情景。それまで最も激しく阿久刀を糾弾していた中年の高官が、ちょうど「この大逆人めを、斬首にして晒し首にすることが」と言いかけたそのとき。碧天の顎が、その男の左腕を、まるで干し魚を齧るように、バクッと嚙んだのだ。

静寂が、広間全体を凍らせた。

血がない。骨もない。しかして腕もない。男の左肩から先が、見事に無くなっていた。

男は数秒間、自分に何が起きたかを理解できずにいた。やがて視線を自分の左肩に落とし、それからゆっくりと、信じられないというふうに顔を上げ、そして声にならない叫びを上げながら後ろへと倒れた。

碧天は、その様子を一顧だにせず、広間の全員を見渡した。

その琥珀色の双眸に、何の感情も宿っていなかった。ただ、問いかけていた。黙って。言葉なく。次は誰か、と。

『我に喰われたいのは誰ぞ』

そして声が、思念として広間の全員の頭の中に直接響いた。言語を超えた、神獣の意志の直接伝達。それを受けた者たちが、文字通り泡を吹いて気を失うものが相次いだ。

結果として、その日の取り調べは散会となり、翌日以降は誰も阿久刀に向かって断罪的な言葉を使わなくなった。六官の官僚たちというものは、御遣様には勝てないことを、骨の髄まで知っているのだ。

「まぁ……おかげで俺の立場はいっそう悪くなったけどな」

阿久刀は苦笑した。神獣が人間の腕を食い千切ったことの後始末は、面倒だった。腕を取り戻すために医術師を呼び、繋ぐための手術を手配し、その費用を誰が負担するかという押し付け合いが三日続いた。さらには碧天の行いは神の御意志であるか、それとも阿久刀の指示であるか、という論争まで始まった。前者であれば神の御意志として受け入れるしかなく、後者であれば阿久刀の罪として問えるという計算が透けて見えた。

「いずれにせよ、兄上が奔走してくれたおかげで命はつながった」

阿久刀は松並木の先に視線を投げた。街道はどこまでも続いている。いつのまにか空が高くなっている。秋の空は遠く、澄んでいて、そこに浮かぶ白い雲の形が鳥のようにも見えた。

十勝が動いた。

それは阿久刀も驚いた。普段は腰が重く動かない。いや正確には、動かないように見せている。宗家当主として八方に根を張り、慎重に、慎重に情報と影響力を蓄積する男だ。いざというときにその全てを一気に使う。今回がその「いざというとき」だったのだ。

証言を集め、根回しをし、特定の官僚には個別に働きかけ、ある者には恩を売り、ある者には腹を見せ、ある者には取引を持ちかけた。阿久刀には知らされていない部分の方が遥かに多いだろう。阿久刀を守るためだ。十勝はそういう男だ。弟に全部を知らせて巻き込むような不器用さを持っていない。

「今度、秘蔵の酒を持っていかないとな」

呟いた言葉に、頭上から返答が降ってきた。

『その酒は我のものだ』

碧天が、松の梢の高さを悠然と泳いでいた。白銀の毛並みが木漏れ日を受けて、まるで動く星のように輝いている。普段時の大きさで、重力を知らぬかのように空間を移動する姿は、どれだけ見ても慣れない非現実感がある。

「一つしかないから、兄上と一緒に飲んでくれ」

『赦さん』

「わかったわかった……兄上には別の酒を持っていくさ」

阿久刀は肩をすくめた。碧天の双眸に、ちらりと殺気めいたものが光ったが、そちらの視線はあえて受け流すことにした。神獣の機嫌を取る方法をこの年まで習得できていないのは、阿久刀の数少ない失敗のひとつかもしれない。

しかし、甘いものの次に酒、というのは変わらない。


あの廊下での邂逅を、阿久刀は思い出した。

軟禁されて五日目の昼下がりのことだ。

その日の取り調べはことのほか苛烈だった。白帝と共に北部の街道を移動したという事実に、さまざまな解釈が乗せられた。「現人神を拐かして何を企んだか」という基調は変わらない。ただ問い手の顔が変わるたびに、その言い回しが巧妙になり、罠の精度が上がっていく。阿久刀は自分が碁盤の上に置かれた石のように感じていた。話す言葉が全て相手の手の中で別の意味になっていく、そういう感覚だ。

取り調べを終えて廊下を歩いていると、柱の陰に人影があった。

見た瞬間に、阿久刀の全身が反応した。それは警戒心の本能であり、ある種の危機感知能力だった。この人物が纏う空気は、単純な殺意や敵意ではない。もっと複雑な、複合的な何かだ。甘さと腐臭が混じったような、一言で言えば「煮込まれた悪意の泥」とでも呼ぶべきもの。

悪虫田村麻呂だった。

痩せ細った身体。生気の薄い顔色。それでいて目だけが爛々と輝いている。この男が「病弱」と言われるのは、たしかに体格だけを見れば正しい。しかし何十年もこの朝廷で生き延びてきた男の目は、決して病人のそれではなかった。人の急所を測ることに特化した、捕食者の目だ。

「……明保能……阿久刀……」

その名前の呼び方は独特だった。まるで名前を味わっているかのように、ゆっくりと、舌の上で転がして。

「……悪虫卿」

阿久刀は平静を装った。苦虫を嚙み潰した感覚だが、顔には出さない。

今回、悪虫家は阿久刀の側についた。

これは憂慮すべき事態だった。二十年前の大乱でも悪虫家は暗躍した。明保能家の側でも、叛乱軍の側でも、都合のいいように動いた。あの乱でどちらの側について利を得たのか、いまだに明確にはわかっていない。それだけの手練手管を持つ一族が、今回、阿久刀のために動いた。

動機がわからないことほど、不安なことはない。

「……派手に……やったねぇ……」

田村麻呂は這い寄るように近づいてきた。その足音の小ささが、むしろ威圧感を増していた。大きな音を立てる者には対応できる。しかし音のない歩みは、気づかぬ間に懐に入ってくる。踏み潰したくなる衝動を、阿久刀は理性で押さえた。

「悪虫卿、この度はお力添えを頂き感謝します」

言いながら、阿久刀は頭を下げた。感謝の形式を整えることと、感謝の感情を持つことは、別のことだ。前者は礼儀であり、後者は感情だ。阿久刀は前者を丁寧に行い、後者については言葉だけ、本心は隠した。

「……礼を……言えるのだねぇ……このわえに……」

田村麻呂の声には、愉快げな響きがあった。明保能阿久刀が頭を下げた。その事実を心底楽しんでいるのが伝わってくる。不愉快だが、それに反応するのも相手の思う壺だった。

「分別はつけることにしています」

「……鹿島の王、南に二歩……で……礼にしてくれないかなぁ……」

阿久刀は田村麻呂の顔を見た。

薄い笑みが張り付いている。真剣なのか冗談なのか、わからないように作られた表情だ。しかしこの要求の内容は、冗談で済まないものだ。鹿島の王とは伝説に語られる巨神で、その足は九メートルほどあったという。南に二歩とは、つまり明保能家の領地の南端から何十メートルか分を割譲せよ、という要求だ。控えめに見せかけているが、その南の土地にはとある鉱脈があることを、田村麻呂は知っているだろう。

「それは過ぎた要求です」

阿久刀は即答した。

「当主様に伝えるまでもなく、俺の独断でお断りする」

「………は、は、は………」

田村麻呂の笑いは静かだった。声高ではない。ひっそりと、腐葉土の中から何かが芽を吹くような、静かな笑いだった。

「……そうだよねぇ……うん……いいねぇ……十勝殿は良い弟を持った……」

称賛の言葉に、阿久刀は油断しなかった。田村麻呂の称賛は、鋭利な刃を花で包んで隠したものだ。簡単に相手を刺す。

「でも……詰めは……甘いよ……」

その言葉の温度が、少し変わった。

阿久刀の背筋に、細い刃を走らせたような感覚があった。何かが来る。

「例の……者達……なんだけどねぇ……」

田村麻呂の口調は変わらない。ゆったりとして、甘さがあって、しかし内容は冷徹だ。

「生き残り……がいたようだから……わえの方で……掃除をしておいた……異なるものが……いるのは……よろしくないからねぇ……」

阿久刀の内側で、何かが沈んだ。

鷲の尾の村。田村麻呂が口にしているのは、零零七部隊の生き残りのことだ。阿久刀が村長に頼んで保護を依頼した、あの者たちのことだ。

「お礼……は……いらない……よ……」

「……村人はどうした」

問いは短かった。言葉数を増やせば、動揺が滲む。

「心配……いらない……心地よく寝てる間に……やったからね……」

その言い方の意味を、阿久刀は理解した。

穏やかに。苦しまずに。眠ったまま。

暗殺というものは様々な方法がある。しかしその中で最も技術を要するのは、相手を苦しませずに行うことだ。それができる者は限られている。田村麻呂は己の技術を自慢しているのではない。それはただ、事実の報告だった。

田村麻呂は阿久刀の横をすり抜けながら言った。

「……じゃあねぇ……」

その背中が廊下の角に消えるまで、阿久刀は動かなかった。

窓から光が差し込んでいた。埃がゆっくりと光の中を漂っていた。木の廊下が、風にわずかに軋んでいた。

阿久刀は、深く息を吐いた。


「碧天」

思い出していた記憶から引き戻されるようにして、阿久刀は声を出した。

「鷲の尾の村のことだが」

梢の高さを漂う白銀の毛並みが、こちらに向いた。

『ん? 何度も聞くな。村人は一人も死んでおらん。界外の者達は皆死んでいたがな』

田村麻呂との廊下での邂逅の後、阿久刀は軟禁の身のまま碧天に頼み込んだ。碧天にとって鷲の尾の村まで飛ぶことなど、人間が隣の部屋に歩いていくのと変わらない。碧天は渋い顔をしたが、結局行ってくれた。甘いものの積み立てが効いているのか、それとも阿久刀の顔が余程切羽詰まっていたのか。

碧天が確認した事実はこうだった。

零零七部隊の生き残りたちは、全員が眠るような状態で死んでいた。傷はなく、苦悶の跡もなく、ただ静かに冷えていた。田村麻呂の言葉通りだった。村長は深く頭を下げ、謝罪を繰り返した。手厚く葬ったと碧天は言い、その村長の声は涙を含んでいたと、興味なさそうに付け加えた。

「……村に迷惑をかけたな」

阿久刀は呟いた。

遅くないうちに訪ねよう。謝罪しなければならない。鷲の尾の村のことを田村麻呂に知られたのはまずい。手出しできないようしなければ。

零零七の生き残りを全て殺された。田村麻呂を恨むべきか、という問いに、阿久刀は答えを出していた。恨む意味がない。あの男は、阿久刀が詰め切れなかった後始末を引き受けた。方法は阿久刀の望むものではなかった。結果は、あの者たちは苦しまずに逝った。それを「悪いこと」と断じることは、阿久刀には難しかった。

道徳というものは、単純な場所では単純に使える。しかし複雑な場所では、単純な道徳は機能しない。阿久刀はそれを若い頃に、嫌というほど学んだ。この出来事と事実をどう活かして利用するか、だ。

松並木の影が長くなっている。秋の陽は傾きが早い。

町の入口が見えてきた。栢山まで来た。隼人まであと少しだ。

石畳が続き、商家の看板が並び始める。遠くから話し声や荷馬の蹄音が聞こえてくる。文明の音だ。

そこで、碧天の声が降った。

『阿久刀よ』

「ん?」

『あれを見よ』

阿久刀は前方に目を向けた。


明保能十勝が立っていた。

立っていた、というよりも待っていた。今まさにこちらに気づいたようだ。宗家の一団が整然と周囲を囲み、十勝はその中央に、少し前に出て立っている。数日前に京師を出て先んじて帰路についたはずが、まだここにいる。

「兄上?」

阿久刀は歩みを緩めながら声を上げた。「すでに隼人に到着しているとばかり」

十勝は、特有の人好きのする笑顔を見せた。

その笑顔を、阿久刀は長年の経験で読む。十勝という男は笑顔の種類が多い。心から喜んでいる笑顔、政治的な笑顔、照れている笑顔、機嫌が良い笑顔、機嫌が悪い笑顔、非常に機嫌が悪い笑顔、そして困りに困り困惑に達して言葉が出なくなった末の笑顔。今のこれは、最後の種類に属する。

「……なぁに、お前の顔を一目見ておこうとな……」

奥歯に何かが挟まっているような言い方だ。一言一言が選ばれている。選ばれているということは、選ばれなかった言葉群が裏にある。それが怖い。

嫌な予感というものは、長年の経験と共に精度が上がる。阿久刀の嫌な予感は今、最高精度で何かを警告していた。

「………ん?」

行列の中に、普通ではない馬車があることに、阿久刀は気づいた。

宗家の行列に使う馬車ではない。格段に格が高い。精緻な意匠が施された屋根の曲線、金具の輝き、馬の立派さ。これは、貴人が移動する際の馬車だ。

簾が、上がった。

中にいる人物の顔が、夕暮れの光の中で見えた。

「せ、聖上……?」

阿久刀の声が、かつてないほど上ずった。

幻夢郷宮に帰還したはずだ。取り調べの間中、白帝は無事に朝廷の元に戻り、今は幻夢郷宮で安静にしておられると聞かされていた。それなのに、なぜここに。

「兄上、どうして聖上が?」

十勝の顔が、素晴らしい笑顔になった。それは阿久刀の不安感をあおるのに十分すぎるもので。

「禅譲された」

「は?」

「そして退位された」

「はあ??」

器の御方が退位するのは、肉体の死によって命が終わるときのみだ。テンが宿った器が寿命を全うし、新しき器に宿り替えるとき。しかし生きたまま退位するなど、歴史に前例がない。前例どころか、想定すらされていない事態だ。この国の制度は、器の御方が生きているままに退位することを、そもそも考えていない。

「……生きて……退位された……?」

「あぁ」

「名も変わられた。退位された日より、白院様と改められた」

「院……?」

阿久刀は言葉を反芻した。院とは、王が退位したのちに使われる号だ。政から退き、別の場所で余生を送る元王に使われる。それを器の御方に当てはめることは、格式の上でいえば著しく位が落ちる。

「格下扱いをするとは…!」

「……白院様自らの申し出だ」

「そこは百歩譲って認めるとしても」阿久刀は一呼吸した。「朝廷を離れるとは、どういう」

「そこだ」

「ん?」

十勝の目が、細くなった。

「白院様は市井で暮らすことをお望みだ」

「んん?」

「ならばと私は協力を申し出た。我が一族に、うってつけの者がいたのでな」

「誰だそいつは?」

「お前だお前」

びしっと指を指された。

阿久刀は、返す言葉を失った。

いや、正確には言葉は幾つも湧いてきた。しかしその全てが、この場で使えるものではなかった。「なぜ俺?」という問いは、十勝に通じるとは思えず。「お断りします」という言葉は、十勝がもうこれを決定事項として持ってきていることから拒否権はない。

「聖上にお供して冒険した実績がある」

十勝の言い方は、流れるように自然だった。まるで、この流れが当然であるかのような話の運び方をする。

「これは大変なことだ。誰一人成し遂げたことのない偉業だ」

「いや、しかし。俺のところは」

暁家の居候は訳ありの人間が多すぎる。

「わかっておる」

十勝は頷いた。わかっている上で、それでも頼みに来た。その顔に書いてある。

「第一、事情を知るお前の方が何かと良いと判断した。私では力不足も甚だしい」

これは本音だ。器の御方が市井で暮らすとなれば、その周囲には常に危険がある。朝廷内の権力争いに利用しようとする者、利益のために誘拐しようとする者、単純に接触しようとする狂信者。そういった全てから守り続けるためには、普通の護衛では足りない。それを一手に引き受けられる者が、この国に何人いるか。

「七難八苦を乗り越える自慢の弟だ。安心して任せられる」

「おい、押し付けているようにしか聞こえないぞ」

「はっはっはっ」

十勝は笑った。快活で、開けた笑い声だ。政治的な笑顔ではない。これは本当に笑っている。弟が困惑しているのを見て、兄として愉快に思っているのだ。

そして十勝は、阿久刀の両肩を掴んだ。

「頼んだぞ」

「えぇ……」

骨が軋むほどの力で肩が掴まれた。十勝は刀を握る腕を持つ武人でもある。その手の力は、柔和な顔立ちからは想像できないほど強い。阿久刀の顔が、思わずひきつった。

これは確認ではない。委任だ。既に決まったことの、形式的な通達だ。

馬車の中で、白院と名を改めた少女が、こちらを見ていた。

その目は、以前と変わらない。感情の波が静かで、深い。器として過ごした十年が刻んだ静けさの中に、しかし今日は何か別のものが混じっているように阿久刀には見えた。

期待、とは少し違う。

好奇心、とも少し違う。

あえて言葉にするなら。

始まりを見ている目、だった。

阿久刀は、溜息をついた。それから、十勝の手が肩から離れるのを感じながら、小さく頷いた。

押し付けられた。完全に、見事に、退路を全て塞がれた上で押し付けられた。兄上は昔から、これが上手い。

「わかりました、兄上」

「うむ」

「ただし。何かあったときは、力を貸して下さい。これは条件です」

「当然だ」

「それから」

阿久刀は少し間を置いた。

「……今度の秘蔵の酒は、兄上のところに持っていきます」

十勝の顔が、一瞬だけ、無防備に輝いた。それは、政治家の顔でも当主の顔でもなく、酒好きの兄の顔だった。

「それは嬉しい。期待しておるぞ」

頭上で、低い唸り声が聞こえた。碧天だ。

その声の意味は、阿久刀にはわかった。

約束を破ったことへの、静かな怒りだ。すまん。極上の菓子をあげるからと阿久刀は碧天に懇願した。


暁家の屋敷が見えてきた頃、空の色は深い藍に変わりかけていた。

残照が、地平の際に橙の帯を残していた。一番星が、東の空の端で瞬いている。街道の石畳が、夕暮れの光を受けて黄金色に染まり、その上を、一行の足音が刻んでいた。

阿久刀は、屋敷の門が視界に入ったとき、思ったより感慨が深いことに気づいた。

ここに戻れる。

それだけのことだ。大げさに言えば、それだけのことだ。しかし十五日の間、軟禁され、責め立てられ、自分の言葉が常に別の意味に変換されていく日々の後では、ただここに戻れるという事実が、有難かった。

門の前に人がいる。

出迎えだ。普段の暁家の出迎えとは、人数が全然違う。下働きの者まで含めた全員が、門の前に整然と並んでいる。

先頭の東雲の顔が見えた。隣にアティヤ。少し後ろに鶴罪、爛漫、千早、清子。

東雲の目が、阿久刀の姿を捉えた瞬間、何かをこらえるような表情をした。それから、深く息を吸って、背筋を伸ばして、凜然とした顔を作り直した。弟子として師を迎える、その構えを。

「お帰りなさいませ、お師匠様」

その声は、よく通った。震えていなかった。

ただ、少しだけ、温かかった。

「ただいま」

阿久刀の返答は、短かった。それ以上の言葉は、今は要らなかった。

阿久刀は後ろを振り返った。家人は帰ってきたのが阿久刀と碧天だけだと思っているだろう。

門前に馬車が止まる。

白院として今日から新しい名で呼ばれる少女が、馬車から降り立つところだった。その脚が石畳を踏んだ瞬間、場の空気が、変わった。神を宿した器として生きた人ならざる気配が、まだその身に残っているのだ。

「えー……今日から客人として暮らす……ハク、白院様だ。よくお世話をしてくれ」

阿久刀の紹介は、ごく簡潔だった。

白院が頭を下げかけて。

「いけませんっ」

阿久刀が慌てて阻止した。白院が下々の者に向かって頭を下げる。それは、この屋敷の者たちには刺激が強すぎる。案の定、並んでいた者たちの動揺が伝わってきた。

東雲が、ゆっくりと傾いた。

足に力が入らなくなったのか、全身から力が抜けていくように、横にふらりと倒れ込んだ。咒刀を腰に差した若い女武者が、夕暮れの石畳の上で静かに崩れ落ちていくさまは、どこか絵のようだった。

鶴罪が素早く東雲を受け止めた。その巨体で、ごく自然に。しかし受け止めながら、鶴罪自身も頭巾を深く被り直して顔を隠した。

爛漫は、いつのまにか消えていた。この少年は、こういうとき瞬時に姿をくらます才能がある。どこへ行ったのかは、誰にもわからない。おそらく縁の下か屋根の上かどこかで、息を潜めているのだろう。

千早は平伏したまま、頭を上げなかった。その周囲に、見えない誰かの気配がした。亡霊の妹が、不安そうに千早に寄り添っているのかもしれない。

下働きの者たちも、一様に平伏したまま動かない。

「まぁとにかくだ……」

阿久刀は、困惑が顔に出ていることを自覚しながら言った。言葉が見つからなかった。この状況を、どう言葉でまとめればいい。前代未聞の事態だ。マニュアルも先例もない。

「お茶でも飲もうかぁ……」

それだけが、阿久刀に言える最大のことだった。


アティヤは、腕を組んで、その光景を見ていた。

なるほど、と思っていた。

この屋敷に来て日が浅い自分でも、それぞれの者がどう驚いているかはわかる。東雲が倒れたのは、混乱からではなく、畏怖の重さに膝が折れたのだ。鶴罪が顔を隠したのは、素顔を聖なるものに向けることへの恐れからだ。爛漫が消えたのは、本能的に危険を感じてのことだろう。

清子が、アティヤの腰をつねった。

「痛」

振り返ると、清子の白髪が夕暮れの中で月のように輝いていた。その顔は穏やかで、しかし目だけが「跪け」と言っていた。

「……なんで私が」

「貴人に対する礼儀です」

「国が違うから」

「この家に世話になっているならば、この家の作法で生きなさい」

清子の声は、穏やかで、しかし有無を言わさぬ強さがある。アティヤは渋々と、慣れない所作で膝をついた。

白院は、その様子を見ていた。

何も言わなかった。表情は静かだった。しかし、その目の奥に、ほんのわずかな変化があった。それは何だったのか。

見ていた東雲だけが、後からそれを誰かに語ることになる。

「笑いそうになっていた」と、東雲は言った。「白院様は、笑いそうになって、こらえていた」と。

それを聞いたアティヤは、しばらく黙った後に「知らない」と言った。知らない、というのは事実ではなく、照れ隠しだったようで、東雲には筒抜けだった。


お茶の場は、主屋の広間に設けられた。

清子が手配し、下働きの者たちが準備した。それぞれがまだどこかぎこちなかったが、仕事の手は確かだった。白院が座る位置の畳は、急遽、新しい座布団が重ねられた。茶を運ぶ碗は、暁家が持つ中で最も格式の高いものが選ばれた。

阿久刀は、白院の斜向かいに座った。

一対一ではなかった。東雲が少し後ろに控え、清子が脇に立っている。アティヤは部屋の隅で、膝を抱えるでもなく立て膝でもなく、正座しようとして足が痺れて、結果として微妙な体勢で座っていた。

「ご不便をおかけしています」

阿久刀は言った。

白院は、少しの間、阿久刀の顔を見ていた。

「きになさらず」

声は小さかった。しかし、その声には意志があった。幻夢郷宮で過ごした十年間、おそらく白院は多くの言葉を飲み込んできた。自分の感情を言葉にすることを、教えられていなかったかもしれない。しかし今、この場では、白院は自分の意思で言葉を選んでいた。

続く言葉を、阿久刀は待った。

「はじめて……」

という言葉が、白院の口から出るまでにわずかな間があった。その間に、どれほどの言葉が候補として浮かんでは消えたか。

「ひとり……」

阿久刀は、その言葉を受け取った。

幻夢郷宮の中では、空を直接見ることがない。儀礼のための庭はあるが、それは囲まれた庭だ。街道で、夜空の全部が見える場所を馬で進んだとき、白院はどんな顔をしていたか。阿久刀はそれを、夢見の中の出来事として覚えていた。

「しせいのくらしは、なれておりません。めいわくをかけますが…おねがいします」

白院は言った。

事実の告知だった。慣れない。迷惑をかける。それは予測であり、そして同時に、それでもここにいたいという意志の表明。

「もちろんです」

阿久刀は答えた。

「どうか我らを頼って下さい」

東雲が、後ろで小さく息を吸った。何か言いたそうにしている気配があったが、清子の視線で押しとどめられた。

「…………あの方は…おられますか」

白院が、珍しく言葉に詰まった。

阿久刀は誰を指しているのか察した。

「碧天……いるか」

阿久刀は少し驚いた。

ハクが碧天のことを尋ねた理由が分からなかった。

『何用だ?』

「白院様がお会いしたいと」

『器の娘。我に…』

「ふれてよろしいですか?」

その言葉は、率直だった。

装飾がなく、計算もなく、ただそのまま出てきた言葉だった。ハクの言葉。とアティヤは思った。神を宿す器だった白院ではなく、一人の少女としてのハクの言葉。

碧天は縁側に降り立った。普段の大きさで、縁側の板張りの上に横たわり、その琥珀色の瞳が広間の方を向いていた。

ハクは立ち上がった。

東雲が護衛として素早く動いたが、阿久刀が小さく手を振って制した。

白院は縁側に歩み寄り、板張りに座り込んだ。そして、横たわる碧天を見た。

碧天は白院を見た。

互いに、しばらく、黙って見ていた。

それは奇妙な静けさだった。神を宿していた器と、神の遣いが向き合っている。何かが交わされているのか、それとも何も交わされていないのか、人間には測れなかった。

碧天が、鼻先を白院の膝に乗せた。

ごく自然な動作だった。重みがかかった白院の膝が、少し沈んだ。白院は、少しの間、驚いたように碧天の顔を見ていた。それから、ゆっくりと、その白銀の毛並みに手を触れた。

広間の中で、清子が深く息を吐いた。

東雲は、その光景を見て、何かを言おうとして、言葉を探して、見つからなくて、ただ目元を一度拭った。

アティヤは、正座に失敗して完全に片膝を立てた状態で、その光景を黙って見ていた。何も感じていないような顔をしていたが、その目が、少しだけ柔らかかった。


夜になった。

屋敷の中が静まり返った頃、阿久刀は縁側に出た。一人で。

星は多かった。この夜空には星が多い。京師の澄んだ空とは違う、隼人の夜空の濃さがある。天の川が、うっすらと、白い帯となって弧を描いていた。

阿久刀は、膝を立てて縁側に腰を下ろした。

紫の顔が、浮かんだ。

亡くした娘の顔は、歳を取らない。常に十四歳のままで、記憶の中にある。海竈門岬で戦いが続いていた頃、阿久刀はアティヤの顔に紫を重ね見ていた。それを自覚していた。しかし、自覚していても止められなかった。人間というものは、そういう生き物だ。

紫がいれば、どう思っただろうか。

この状況を、この場を、この屋敷に集まった奇妙な一同を。

おそらく笑っただろうと、阿久刀は思う。腹を抱えて笑ったかもしれない。そして、誰かの傷の手当てを無言でしながら、当たり前のように場を整えただろう。明保能家の思金と呼ばれた少女は、恐ろしく賢かったが、決して賢さを前面に出さなかった。

「紫」

声にしてみた。

夜の空気に、その名前が溶けた。

返事はない。当然だ。そんなものは期待していない。ただ、時々、名前を呼ばないと、その輪郭が薄れていく気がする。呼ぶことで、記憶の中の像が、また少し鮮明になる。それだけのことだ。

「お前ならば……この騒動をどう見ただろうな」

風が、庭の松を揺らした。

その音が、返事のようでもあり、全く関係ないようでもあった。

縁側の端に、気配があった。

阿久刀は振り返り、姿勢を正した。

「眠れませんか?」

問いかけると、少しの間があって、小さな声が返った。

「……めがさえてしまいました」

ハクだった。

夜着に着替えた姿で、縁側に立っていた。その白髪が、月明かりを受けて淡く光っていた。

「お座り下さい。夜の景色はよいものですよ」

ハクは少し迷ってから、阿久刀から少し離れた場所に腰を下ろした。

二人で、しばらく星を見た。

碧天の気配が、屋根の上にあった。

「一つ聞いてもよろしいですか?」

阿久刀が言った。ハクは頷いた。

「退位された理由を、お聞きしたく。無論、お答えしなくてもかまいません」

ハクは空を見ていた。

「テンが……いきることをゆるしてくれました」

その言葉は、短かったが、重かった。

阿久刀はしばらく黙った。

テンが許した。つまり、これは白院一人の意志ではない。テンもまた、この決断を認めた。神が器に対して、望むならば生きろと言った。そういうことか。

「いきてみたかったのです」

ハクが、続けた。

「そとで、いきてみたかった」

その声は、子供のようだった。いや、実際に子供だ。十年以上、神を宿す器として生きてきた少女が、初めて自分の望みを口にしている。

「…そうですか」

阿久刀の答えは、それだけだった。

余計なことを言う必要はない。この少女が必要としているのは、許可ではない。ただ、受け取ってくれる者だ。

「……いきれるでしょうか」

不安が滲んだ問いだった。

阿久刀は星を見ながら答えた。

「わかりません。ただ、やってみて損はないかと」

「やってみる……」

「やってみることはできます。結果はわかりませんが、だが、やらなければわからないことは多いものです」

ハクは、その言葉を反芻するように黙った。

それから、ひっそりと言った。

「……ほしがおおいです」

「はい」

二度目の言葉は、初めて言ったときとは少し違う響きがあった。最初は発見の言葉だった。今は、しみじみとした確認だ。この星が、これから毎夜見られる。その事実の重さを、今この瞬間に量り直しているような言葉だった。

碧天が、屋根の上から降りてきた。

音もなく、縁側に着地し、ハクの隣に横たわった。ごく自然に、当然のことのように。

ハクの手が、またその毛並みに触れた。

阿久刀は、それを見ながら、徳利を傾けた。今夜のために清子が用意してくれた酒だ。格別のものではないが、今の阿久刀にはそれで十分だった。

月が昇りきっていた。

屋敷の中から、誰かが笑う声がした。東雲とアティヤの声が、混じって聞こえた。どちらかが何か言い、どちらかが反論し、清子がたしなめる声がする。いつものことだ。

阿久刀は、その声を聞きながら、空の星を数えた。

数えることはできない。しかし、数えようとすることはできる。

それで十分だと、今夜は思った。

――暁家に、一つの夜が静かに終わっていく。

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