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カムサリガタリ  作者: 夢物語草子
弐の編

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酒と刀と元許嫁 3話

渡り廊下は朝の光を受けて、板の色が温かみを帯びていた。

廁から出てきた阿久刀は、少しの間その廊下に立ち止まった。腹の不快感は落ち着いていた。朝の澄んだ空気が、廊下の端まで届いている。山の冷たさと、台所から流れてくる甘い香りと、それから——碧天が朝の日向ぼっこをしている方向からの、獣特有の森の匂い。

あれだけの騒ぎがあって、碧天は台所に来なかった。来る必要もなかったのだろう。御遣様というものは、そういう部分で人間より淡白で興味がなければ気にも止めない。白院が作り上げた朝食について、後で何か聞いてくるかもしれないし、聞かないかもしれない。聞いて興味をもたれる方が怖い。

阿久刀は歩き出した。

廊下を歩きながら、あることを思い出す。

「そういえば……今年は東雲の……」

大騒ぎで忘れかけていた。もしかしたら当人の東雲も、今朝の騒動ですっかり忘れているかもしれない。あるいは覚えているかもしれない。東雲は真面目な性格だから、大抵のことを忘れないので覚えていると思うが。

今年は咒刀造りの時期だ。そして今年は東雲も参加する。

そのことを——

阿久刀は足を止めた。

止まったのは思考によってではなく、反射だった。身体に染み付いた反応。身体が勝手に動いた。前髪をかすめて何かが通り過ぎた。ほんの数寸、数分の一の差だった。もし足を止めていなければ——側頭部に、それが突き刺さっていただろう。

振り返る。

黒い羽。嘴。鋭い爪。

鴉が廊下に着地して、凄まじい勢いで阿久刀を威嚇していた。羽を広げ、嘴を向け、目を据わらせている。これほど攻撃的な鴉を阿久刀は見たことがない。いや、一度あった気がする。あの時とこの鴉の気配は似ていた。

鴉は嘴を阿久刀の顔に向けて突き込んできた。

咒刀が鞘から抜かれる。刃が顔を出す。

空気を裂く音がした。刀身によって鴉は二つに割れた。割れながら、姿が変じた。鴉という形が解けて、紙の白さが現れた。一枚の手紙が、廊下の板の上に静かに落ちた。

手紙鳥。

手紙を生き物に変じさせて送る術。阿久刀はその術を知っていた。この術の特徴は、使い手が感情を細かく設定できることだ。穏やかに届けたければ蝶や雀を使う。急ぎの用件ならば燕を使う。そして——怒り心頭の場合は、鴉を使う。

しかもこの鴉は、向かってくる方向から判断するに、相手を殺そうとする設定にまでされていた。

嫌な予感がした。

手紙を拾い上げ、差出人を確認する。

殴り書きの文字が、怒りで紙を破りそうな勢いで書かれていた。

雷日彦。

阿久刀は目を閉じた。一秒間、目を閉じた。

そしてゆっくりと思い出した。日彦に東雲の弓術指導を頼んでいたこと。それをほったらかしにしていたこと。言い訳も謝罪も、ただの一言も送っていなかったこと。その間に白院の件があって、朝廷の騒動があって、様々な事が起きて——つまり完全に失念していたことを、今この瞬間に思い出した。

封書には山彦の咒がかかっていた。声が閉じられている。手紙を開くと声が解放される仕掛けだ。

阿久刀は封蝋に指をかけた。割った。

手紙を開いた瞬間、声が廊下に轟いた。

『師を蔑ろにするとはなにごとじゃあ!!おおばかやろー!!』

壁が震えた。廊下の先で誰かが「なんだ!?」と叫んだ気配がした。鴉よりも凄まじい怒りが、紙の中から飛び出してきた。

「……これはまずい」

阿久刀は呟いた。

日彦の性格は長い付き合いで熟知している。あの弓の名人が本気で怒った時、それは射殺という形で解決されることがある。阿久刀の頭に、一本の矢が飛来する想像が過ぎった。身震いする。

謝りに行くしかない。

手土産に良い酒が必要だ。日彦は大の酒好きである。

酒蔵に向かうべく廊下を歩き出した阿久刀の耳に、中庭から声が届いた。


「てやあ!」

アティヤの声だった。

阿久刀は廊下の端から中庭を覗いた。

アティヤが刀を振っていた。相手は鶴罪。鶴罪は刃を避けながら、指先でアティヤの身体の要所を叩いている——おでこ、腕、脚、腹。見た目は軽いが、その一突き一突きは正確に急所を打っていた。咒刀を持たない鶴罪の戦い方は、持ち前の怪力と長年の喧嘩術を合わせたものだ。いかなる咒刀の使い手も、その圧倒的な膂力の前には正面から組み合うことを躊躇するだろう。

「駄目だ!駄目だ!駄目だ!駄目だあ!」

鶴罪の声が中庭に響いた。アティヤへの指摘なのか、自分自身への叱咤なのか、あるいは単なる気合いなのか、その三つを兼ねているようだった。

木の上に腰掛けた爛漫が、二人の様子を眺めながら棗のようなものを口に放り込んでいた。満足そうな顔をしている。先ほどまで厠に駆け込んでいたとは思えない回復の早さだ。子供というのは逞しい。

「うわあ…鶴姐ってば、ようしゃねー」

爛漫が呟いた。

「はぁ…はぁ…はぁ…なんで…あたらないのよ……」

アティヤは息を乱していた。刀を正面に構えて、しかし構えが崩れている。疲労からではなく、力みから崩れている。それは今の段階では仕方のないことだ。

「そりゃあ下手くそだからだ!」

「これでも軍で叩き込まれたの!刀の使い方は!」

「こりゃダメだ」

鶴罪はアティヤの手首を掴んだ。引いて、崩して、投げた。アティヤの身体が弧を描いて地面に叩きつけられた。受け身はとれていたが、それでも衝撃があった。

「刀を振ってるから駄目なんだ」

「刀を振ってるのよ!」

「鶴姐。意味通じてねーぞ」

爛漫が指摘した。鶴罪は腕を組んで唸った。どう言えば伝わるか、言葉を探している。言葉は鶴罪の得意な道具ではない。怪力と闘争本能は抜きん出ているが、それを言語で説明することは、また別の能力を要する。

阿久刀は中庭に降りた。

「親父殿!腹の調子はよくなったのか!」

鶴罪が声をかけた。

「あぁ」

阿久刀はアティヤに歩み寄り、その手から刀を取った。

「こいつでものを切ったとする。アティヤは何でものを切ったと思う?」

「刀で切ったんだから当然、刀でしょ」

「鶴罪、爛漫、二人はどうだ?」

「手だ!」

「腕だろ」

二人の答えが重なった。アティヤは眉を寄せた。理解できない。それは顔に出ていた。

阿久刀はしばらく考えた。考えながら刀を軽く動かした。その動きには何の力みもなかった。刀が、阿久刀の腕の一部として当然のように動いた。それだけで、中庭にいる全員が何かを感じた。爛漫でさえ木の上で姿勢を正した。

「そうだな…似た言い方をするなら…手刀と言うべきか」

阿久刀は刀を返した。

「この二人の実力だと刀を使っても刀で切ってない。手や腕、脚で切っている感覚に変わる。今は難しいだろう。だが、ここで鍛練を積めば自ずとわかるようになる」

「鍛練を積めば自ずとわかるようになる!」

鶴罪が繰り返した。まるで祝詞のように。

「………ぜんぜんわかんないんだけど……」

アティヤの正直な言葉が朝の空気に溶けた。

「まぁ頑張ることだ。ほら、続きを」

阿久刀は中庭を後にした。

背後から再び稽古の音が始まった。刀が風を切る音。地面を踏む音。鶴罪の指摘する声。アティヤの悪態。爛漫ののんびりした観戦。

朝の暁家は、そうやって動いていた。

清子は台所を片付けている、東雲は領地の運営の勉強をしている、退位した器の少女は瞑想して、亡命者の娘が刀の扱い方を学んでいる。二十年前の乱の生き残りが集まった家で新たな客を迎えながら、それぞれの今日が始まっていた。

廊下の端で、阿久刀は一度だけ振り返った。

中庭に朝の光が差し込んでいた。

アティヤが走っていた。鶴罪が笑っていた。爛漫が木の上から何か叫んでいた。

この景色を阿久刀は好んでいた。

「……酒蔵、酒蔵、と」

阿久刀は呟いて歩き出した。本日の最初の難関——雷日彦への謝罪のための品探し——が待っている。良い酒を持っていかなければ命が危ない。それは比喩ではなく。

廊下の向こうで、碧天が一声、短く吠えた。

朝は続いていく。

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