第二章 Vol3.01 少女の決意
日付が変わる頃まで、私は机にかじりついて参考書と格闘していた。でも、今日はいつもの半分も進まなかった。
頭がぼんやりして、文字も図も、どれも輪郭だけが浮かび上がって、心に入ってこない。
夕食のあと、翔ちゃんはまた医療用ゴーグルを掴み、私の部屋にやってくる。小さな声で“惑星”や“電車”の擬音を繰り返し、私の机の端っこや、本棚の隙間に指先を走らせていた。静かな夜の中、機械音のような独り言が、時々部屋の空気をふるわせる。
十時半をまわると、お母さんが珍しくきつい口調で「お風呂入りなさい!」と翔ちゃんを促した。翔ちゃんはしぶしぶ立ち上がり、ゴーグルを持ったまま浴室へ向かっていった。その背中を見送りながら、私はふと、あのゴーグルを外せない弟の不思議を考えていた。
お風呂からあがった後、翔ちゃんはリビングのソファで寝落ちしていた。薄暗い照明の中、重そうなゴーグルをきゅっと抱きしめて眠る弟の姿は、まるで別世界の住人みたいだった。
仕事から帰った父は、眼鏡を外してため息を一つつき、眠っている翔ちゃんをそっと抱き上げる。父の腕の中でも、翔ちゃんはゴーグルを絶対に手放さない。
不思議だな、それほどまでに大事に思えるもの、私にはあるだろうか――小さな疑問が、胸に静かに波紋を広げていく。
あのゴーグルはサイクリング用のヘルメットみたいな形で、けっこう重そうに見える。でも父親が、「子供用に特別に軽量化されてるんだってさ」と言っていたことを思い出す。
青と緑の配色が、どこか戦隊ヒーローのマスクみたい。それが気に入っているのかもしれない。
だけど私には、首が痛くてとても真似できそうにない。
お母さんが寝る前、「明日は朝が早いからね」と声をかけていた。翔ちゃん、病院で検査の日なのだ。帰りにケーキを買ってくるって言っていたけど、たぶんまた翔ちゃんの好きなチョコレートケーキなんだろう。私はクリームの方が好きなのに……ちょっぴり、心が拗ねる。
長い黒髪をドライヤーの熱風で乾かしながら、ぼんやりと天井を見上げる。
指先で髪をすいていると、窓の外に街の灯りが滲んで、静かな夜が部屋を包み込んでいた。
あと少しでクリスマス、そして冬休みが始まる。
クラスの誰かが「イブはみんなで遊びに行かない?」なんてグループLINEで誘いをくれたけれど、たぶん男子に「園山も呼んだら?」って言われただけだろう。
私がそこにいる理由なんて、きっと風景と同じ。ごめん、やっぱり無理。
女子たちは十二月になると急に「誰が好き?」「誰と付き合いたい?」なんて話で盛り上がるようになった。
誰かが放つ噂や好奇心が、廊下にまで静かに伝染していく。
何組か実際にカップルができ、クラスの空気がどこかぎこちなくなった。
この間も突然、知らない番号から「好きなんだけど、どう?」ってメッセージが届いた。
思わず「――きゅぅ……だれ?いつアドレス教えたの……」とつぶやいてしまった。
数日間、学校でもSNSでも変な雰囲気が続いた。勝手に“付き合ってる”ことにされて、慌ててアドレスを変更した。
アドレスを流した張本人には、文句のひとつも言いたかったけど、気恥ずかしさと面倒さで結局そのまま。
ほんと、ややこしい。
髪が乾いて、鏡の前でぼんやり自分の輪郭を確かめる。
歯を磨きながら、そっとリビングをのぞく。
家の灯りはどこも落ちていて、みんな眠っている。
誰にも咎められないこの静けさが、ひそかに心地よい。
壁のカレンダーに赤く丸がついたクリスマスの文字。その下にある空白を見ながら、あの人……駅で出会った、赤い服の大学生は、今何をしているんだろう。私の知らない場所で、別の誰かと笑っていたらどうしよう……そんな不安と淡い憧れが胸をしめつける。
――顔が熱くて、耳まで真っ赤になってる。
――もしかして、好きなの?私……。
思い返すだけで、心臓がドキドキして息が苦しくなる。
あの人の腕の温もり。通りを曲がる影、掴めそうで掴めない距離。
――もう一度、会いたい。
口には出せないけど、胸の奥で願いは膨らんでいく。
「ダメ、きっと気のせいなんだから――」
思わず、声になっていた。
けれど、心はわかってる。私は彼のことが、本当に気になってしかたがない。
――心の奥で、決意のようなものが芽生えていく。
絶対にもう一度会って、今度こそちゃんと気持ちを確かめるんだ。
知らず知らず、ベッドの中で引き出しの手帳をじっと見つめていた。
ささやかな願いは、静かな決意へと形を変えていった。
* * * * * * * * * *
朝――
思うように目覚ましの音が耳に入ってこない。太陽の気配もまだ薄くて、静かな家の空気に自分の呼吸だけが響いている。
ふと気づくと、翔ちゃんが私の部屋にいた。
机の脇に椅子を引き寄せ、私の頭にそっとゴーグルを乗せている。
「……やっぱり。」
私は静かにゴーグルを外して、手に取った。
以前、あれを被って眠ると「怖い夢じゃなくなる」って翔ちゃんは言っていた。
もしかして、私の夢を心配してくれたのだろうか。
彼が夢を持ち歩くように、ゴーグルをずっと手放さない理由の答えも、私にはまだ分からない。
リビングから、母の呼ぶ声が響く。
翔ちゃんは足音も軽く、そのまま玄関の方へ駆けていく。
「あっ、翔! ゴーグル!」
母が慌てて翔ちゃんを追いかける。
「もう、翔ちゃんあれがないと困るでしょう?」
母が困ったように言うと、翔ちゃんは首を何度も横に振った。
私がゴーグルを手渡すと、翔ちゃんはまっすぐ私を見て、ゴーグルを取り戻す。そしてなぜか、今度は私にそれを差し出そうとしてくる。
「翔ちゃん、遅れるから、それ持ってて。」
母は優しく声をかける。
ゴーグルの側面のアクセスランプが、小さくチカチカと点滅している。
振り回していたせいか、内部の回路が微かにチリチリという電子音を立てている。
まるで、弟の不安や願いがそのゴーグルのなかで小さく信号になって震えているみたいだ。
翔ちゃんはゴーグルを頭深くかぶり直し、スキップのような足取りで、玄関で待っていた母のもとへ走っていった。
――何を感じ取っているのだろう。
――私の夢も、翔ちゃんには伝わるのかな。
けれど――彼の気持ちはきっと、私にはまだ全部は分からない。
不思議で、愛しくて、少しだけ心配だ。
けれど私は今日も、自分なりの日常へ戻っていく。
――「あっ、私も急がなきゃ。」
私は慌ただしく身支度を始める。
冬の朝の冷たい光を背中に受けて、終業式までわずかとなった学校へと向かう準備を始めた。
心理描写って難しい。ごだごだ書いてしまうと興ざめするし・・・・




