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第二章 Vol3.00 黒髪の少女

 園山真由美――みんなからはマーちゃんと呼ばれている。

 中学三年生。春から受験生。

 窓の外は薄曇りで、冬とは思えない光がぼんやりと部屋の机まで届いている。


 私は紙袋から重い参考書をひとつひとつ取り出していった。

 進学校を目指して親の期待を裏切らないように、少しでも点数を取れるように、机の上にはノートや教科書、そして数学用の関数電卓も並んでいる。    母も父も「真由美は手がかからない子だね」と言う。

 父はよく、「女の子はしっかりしないと」と口癖のように言うし、実際、私はその役をどうしても演じてしまう自分から抜け出せずにいる。本当は甘えたいし、両親にたくさん話を聞いてほしい。家族3人がそろっている食卓でも、私はつい「聞き分けのいい長女」として振る舞ってしまう。


 母は小さな弟――翔ちゃんにかかりきりだ。

 翔ちゃんは、生まれつき感覚が過敏で、病院で「自閉症スペクトラム」と診断された。

 母は毎日送迎をしながら、療育施設や発達支援の先生たちとLINEで連絡を取り合っている。そんなとき――

 リビングのノートパソコンも、母にとっては情報を得たり、北欧の支援グッズを通販で探したりと、今や日常の必需品だ。

 私は別の“デバイス”――科学の世界への小さな窓――を使って、問題集の難題を解いたり、時にはネットで「進学データ」や「勉強法」を検索したりする。

 Wi-Fiルーターの青いランプが私の机の端で静かに点滅していると、この小さな部屋もささやかな実験室みたいだと思うことがある。


 翔ちゃんは機械や数字が好きだけど、目を合わせて話すのは苦手だ。

 彼は医療用の青いゴーグルをお気に入りにしている。強い光や雑音がつらいらしく、外に出るときもこれを手放さない。一度、母がパソコンで調べて通販で買った、“特殊なフィルター”らしい。


 ――私が小さいころ、まだ翔ちゃんが幼児だった頃、母はよく料理しながら私にも話しかけてくれた。

 遊びやお話を私とだけする時間もあった。

 でも今は、台所の音も、リビングで流れるタブレットの療育動画も、翔ちゃん優先なのは当然で……私は少しだけさみしくなってしまう。


 たまに母がキッチンに私のノートパソコンを置いて、「レシピ動画」を見せてくれるときがある。

 そのときだけは、少しだけ昔に戻ったみたいな気分になる。


 今日はリビングで母と翔ちゃんの声が聞こえていた。翔ちゃんは「アラーム」「ねじ」「惑星」など、気に入っている単語や数字をずっと口ずさんでいた。母はできるだけやさしく答えている。「そうだね、翔ちゃん。木星は地球よりもずっと大きいよ」と。私はそんなやりとりを遠くで聴きながら、心の奥でふわりとうらやましい気持ちになる。    少し前、ふと思いがけない出会いがあった。

 あの日、私は参考書をたくさん買いすぎて友達に持ってもらっていた。そして紙袋の底が駅で抜けてしまった。見知らぬ大学生の人が、黙って大きな紙袋を渡してくれた。目立つ赤い服。私と入れ違い夢で見た儘の人物。


「ありがとう」とちゃんとお礼が言えなかったのがくやしいまま、今でも何度もその場面を思い出してしまう。


 今、紙袋の底に何かが残っていた。

 そっと取り出すと、それは宝くじの券と、太くまっすぐした字で番号が書かれたメモだった。

 あの人が入れたのかな、忘れ物かな――無意識に胸がドキドキした。


 私は机に置いたノートパソコンを開く。薄くてねずみ色のボディが、冷たくもどこか安心感をくれる。画面を叩き、「ロトくじ 当選日」と検索すると、抽選日は明日だとわかった。

 番号と宝くじ券はそっと手帳に挟み込み、引き出しを静かに閉じた。


 玄関で「ガチャ――――バタン」とドアが大きな音を立てた。

 私は思わず、手帳を机の引き出しに滑り込ませる。隠す必要なんてどこにもないのに、咄嗟に隠した手つきが我ながらおかしかった。


 母の「ただいま、マーちゃん、すぐご飯の用意するからね」という声が廊下を通り抜けてくる。

 続けて、階段を小さく駆け上がる足音――。

「ドタタタタタ」と小刻みに響いて、やがて私の部屋の前でぴたりと止まる。

   いきなり扉が「バタン」と勢いよく開く。

 翔ちゃんだ。


 私が顔を向けるよりも早く、翔ちゃんは部屋に一歩入ると、すぐに部屋の空気を全身で確かめるように立ち止まる。

 彼はお気に入りの青い医療用ゴーグルをつけたまま、じっと部屋を見回す。

 そのまま数秒、なにかを探しているかのような静かな沈黙が流れる。

   翔ちゃんは視線をゆっくりと手元に持っていき、今度は小さく首をかしげた。

 彼が近づいてくるときは、足音がほとんどしない。

 彼は私の方には目もくれず、静かにベッドと机の間を歩き、ベッドの影――部屋のいつもの隅へ腰を下ろした。


 私は声をかけようか一瞬迷った。

 いつものように「翔ちゃん、おかえり」と言うだけで、こちらを振り返りもしない妹と弟の二人きりの空間。

 彼は、なぜか両手で自分の膝を抱え、宙を眺めるように部屋の隅の一点を見つめていた。


 突然、翔ちゃんはそっと顔を上げ、ゴーグルを指先で直すと、私の背中を見る。

 それから、机の上――特に私がさっき手帳をしまい込んだ、引き出しのあたりをじっと見つめた。    私は思わず引き出しを覆い隠すように手を置いた。

 翔ちゃんが、その動きを静かに追い、まるでなにか“気配”を確かめるみたいに、一瞬目を細めた。

 彼は言葉を発することもなく、ただ静かに、けれど妙に真剣な様子で、しばらく私の手元を見つめていた。


 ……何かが気になるのだろうか。

 あるいは、私が隠したもの――宝くじやメモ用紙の存在を、まるで空気の振動や、部屋の静電気のわずかな乱れのように感じ取っているのかもしれない。

 彼のなかで何が“ひっかかって”いたのかはわからない。


 しばらくすると、翔ちゃんはすっと視線をはずし、またゴーグルを両手で丁寧に拭いた。

 壁に向き直りながら、小さな声で「カチャ……カチャ……」となにかの機械音を口の中で真似している。

 それは、彼だけにしかわからない、彼の頭の中だけの世界――


 私は、振り返りもせずに、弟に優しく「おかえり」と声をかける。

 翔ちゃんはその声に短くうなずくだけで、それ以上訊ねることもなく、再びいつもの床の隅で自分だけの宇宙に帰っていった。


 ほんの少しの沈黙。部屋の空気が不思議に揺れた気がした。

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