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第二章 Vol3.02 翔とゴーグルと姉の声

 朝の久留米中央医大病院――冬の早い朝、まだ空気が冷たく澄んでいる。大きな病院の自動ドアをくぐると、消毒薬の清潔な匂いと、静かな足音、電子音、低い話し声が交錯する。

 白く明るい照明の下、翔ちゃんはお気に入りのゴーグルをかけ、母親の隣で受付の順番を待っていた。


 翔のゴーグルは、ただの気休めや心のよりどころではなかった。超音波と磁気センサーが内蔵され、脳波をリアルタイムで検出、さらに映像と音楽を使って感情の起伏を自然に抑え、薬物療法の負担をできる限り減らすことを目標とした臨床実験用デバイス。臨床医や研究開発のスタッフたちが慎重にモニタリングする最新の医療機器である。


 もともと翔ちゃんは、動くもの――とくに回転運動への興味や反応が強く、意識がしばしば一つの動きや色に深く“同期”してしまう。色彩・音の刺激にも敏感で、衝動的に体ごと跳ねたり、独り言や擬音をくり返したりする。その特性自体は彼の個性だが、社会や日常生活のなかで突出しすぎるとき、本人も家族も、繊細な緊張や不安を抱えることになる。


 このゴーグルの中では彼の気持ちが乱れそうな瞬間になると、自動で彼の好きな映像――回転する傘、青いビー玉のころがる様、フィギュアスピンなどが、音楽と一緒に脳のリラックス波に合わせてふわりと流れる。クラシックからアニメソングまで、その“選曲”は搭載されたAI〈ドクターホームズ〉がモニタリングして最適化する。データは常時病院のサーバーに送信され、翔ちゃんの「今日」の心と体をずっと見守っていた。


 最近の医療の現場では、デジタル化・自動化が急速に進む。来院者は受付後、全身を一度にスキャンする大型CTと自動採血装置で検査終了。主要な血液・臓器マーカーは最新の自律解析システムで一瞬のうちに測定される。AIは、膨大な過去データと比較し、診断精度を高め続けている。AIが判断できない特殊例のみ、複数の医師による“並列診断”が求められる。その割合も年々減って、いまでは大半の症例をAIが診断する。医師の仕事の多くは、AIでは代替できない対話や、診断結果の説明技術、そして機械との共同作業へと変質していた。


 母が診察室から呼ばれる。来院してまだ15分ほどしか経っていない。翔ちゃんは待合の長椅子に小さく座り、ゴーグルの奥で静かに足をぶらぶら揺らして母を待っていた。


 そのゴーグルの液晶ディスプレイには、さまざまな回るもの――傘や、青いビー玉が床を転がり、分割画面では色とりどりのフィギュアスケートのスピン。ゆっくりと、静かに、彼の心の波へ共鳴するようにそれは流れていた。


 しかし突然、画面にノイズが走り、全てがブラックアウトする。    次の瞬間、ピー・ガ・ガ・ガ・ヒーピーと、耳鳴りのような電子ビープとともに、半角英数カナの羅列が流れていく。

 システムトラブルか、それとも何らかの脳波の急激な変化に機器が反応したのか。医学的にも、この種のインターフェーストラブルは不可解な点も多い。


 翔ちゃんは空へ誰かに話しかけるように、ぽつぽつと声を出す。


 「うん、わかってる」


 「……笑ってた」


 「……待てる、うん、約束どおり」


 直後、どこかで聞き慣れた声が――姉、真由美の声が、ノイズ混じりのゴーグルのスピーカーから小さく流れた。


 ――じゃ、この後がんばってね。


 システムのどこかに記憶されていた音声メッセージが、彼を支えていたのかもしれない。


 母親が診察室から戻ると、ゴーグルの画面には転がる毛糸玉と、シュトラウスの「美しき青きドナウ」のワルツがふんわりと流れ始めていた。


* * * * * * * * 


 「翔ちゃん、この後お買い物してケーキを予約するから、まだ頑張れる?」


 病院の駐車場からショッピングモールへ向かう短い車内。外は冬の午前の光で街路樹が白く輝いていたが、翔は窓の向こうをじっと見つめ、返事をしなかった。

 店についても、ゴーグルは深く目元まで下ろされたまま。母親の手を握りしめて、人混みに耐える。手のひらがじっとりと汗ばんでいる。


 翔ちゃんにとって、人が集まる場所での刺激は“ノイズ”として頭に入ってくる。

 視線、声、高い天井の反響音、調光された強い光、レジの電子音。科学的にいえば、脳が入力する情報量が飽和状態に近いのだろう。それでも今日は驚くほど大人しく、極端な反応も見せず、母親に寄り添っていた。


 「今日の翔ちゃん、偉いわねぇ。お昼前だけどドーナツ食べようか?」


 母親は少し安心したように翔の頭を撫で、トレイとトングを持って店内のガラスケースに並ぶ。ふんわりとした甘い香り、揚げたてのドーナツがカウンター越しのライトで艶やかに見える。


 そのとき、背後に気配が近づいた。

 翔ちゃんは、急にゴーグルを外し、警戒するように振り返る。


 後ろに立っていたのは、無精髭を生やした中年男性――40代半ばほどか。男は舐めるような視線で母親を見ていた。

 翔の瞳と男の目が交差した瞬間、翔は一瞬で体がこわばり、手からゴーグルが転げ落ちた。


 男はそれを拾い上げ、ニヤリと笑って「坊主、かっこいいヘルメットだな」と声をかけた。


 悪意はないのかもしれない。それでも、見知らぬ大人が自分の大切な医療機器に無配慮で触れること――それは翔ちゃんにとって、耐えがたい侵害だ。男は軽々しくゴーグルを自分の頭に載せてみせた。


 途端に、ゴーグルが爆音を響かせる。


 フィィオオオオォーンンン――


 内部のマイクとスピーカーの共鳴で、制御されていたフィードバックが異常出力に切り替わったのだろう。科学的には、機器の生体認証機能が使用者以外の着用を防ごうとした自動的な安全機構かもしれない。

 ハウリング音が店内に響き、人々の視線が集中する。


 母はとっさに振り向き、息をのみ、開口一番謝罪した。


 「ごめんなさい、それうちの子のなんです!」


 男は一瞬目を白黒させたが、母親が前に出て深く会釈すると、ゴーグルを慌てて返し、周囲の視線を気にしながら足早に立ち去った。


 「びっくりしたねぇ、翔ちゃん、大丈夫?」


 母の問いかけに、翔ちゃんはじっとゴーグルを胸に抱きしめ、ゆっくりとうなずいた。

 母は気遣うように、トレイに新しいドーナツをいくつか追加している。


 翔ちゃんはゴーグルを受け取り、慎重に額へ戻した。

 ふっと緊張を解いた彼は、小さな声でつぶやく。


 「おわった、後は宜しく……α」


 ――まかせて。


 ゴーグルのスピーカーから、翔ちゃんにしか分からないギリギリの音量で、やさしい姉・真由美の声が聞こえた。

 姉の存在と、医学と科学の積み重ねが、彼の日常と心の静けさを支えていた。

 


第二章に分けた方が良かったかな;;時系列が前後するから読みにくいかも;;構成考える。

評価や感想欲しいです。;;この哀れな作者に皆様のご慈悲を・・・・・

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