第9話 ホームパーティー 愛莉須視点③
翔平さんがトイレから戻った後、私は残ったワインを舌先で転がしながら、次に打つべき一手を計算していた。
すると、ダイニングテーブルの下で、小型犬のテセラが司のズボンの裾をくわえて引っ張り始めた。遊んでほしいとせがむ無邪気なその姿すら、この完璧な密室では司の計算通りに動く歯車の一つに過ぎない。
「こらこら、仕方ないな」
司は困ったような、それでいて余裕に満ちた良き飼い主の笑みを浮かべて立ち上がった。
「ちょっとこいつの相手をしてくるよ。翔平、勝手に飲んでてくれ」
そう言って、司はテセラを抱き上げ、わざとダイニングから離れた巨大な窓際の方へと歩いていった。
私は司の後ろ姿を見つめながら、内心で冷たく微笑んだ。本当に底意地の悪い人。彼がテセラの相手をするために席を外したのではないことくらい、私には痛いほどわかっている。私という極上の餌を盤面に残し、司令塔である自らが意図的に死角を作ることで、翔平さんの理性を限界まで試そうとしているのだ。
彼の顔は、いやらしい熱を帯びて真っ赤に火照っていた。その目は、浅ましい優越感に染まった。司の目を盗んで、私と二人きりになれた。そんな勘違いの優越感が、彼の表情にありありと浮かんでいる。
ではでは、参りますよ翔平さん。今後あなたという人間が、どこまで使い物になるか試させて頂きます。
「翔平さん、ワイン、空いてますね」
私はふわりと微笑み、彼から目を逸らさずにボトルを手にして身を乗り出した。
ゆっくりと、重力に身を任せるように。緩んだ薄手のニットの首元が前へとたわみ、私の胸の奥深く、その暗く甘美な谷間が彼の視界のど真ん中へと無防備に開かれるように。
翔平さんの肩がビクッと跳ね、呼吸が完全に停止したのがわかった。
彼が息を呑むのも無理はない。彼が今、目の当たりにしているのは、あのバスルームに干してあったような清楚で可愛らしい布切れではないのだから。豊満な胸を下から暴力的に押し上げ、辛うじて繋ぎ止めているのは、毒々しいほどに派手で扇情的な、お気に入りの赤いレースのブラジャーだ。
清楚で控えめな親友の妻が、服の下にこんな淫らな色を隠し持っていた。その圧倒的なギャップが、彼の脳髄を力一杯殴りつけたに違いない。翔平さんの視線は、的を射抜く弓矢のように、私の胸元に完全に釘付けになっていた。瞬きすら忘れ、食い入るように赤いレースと白い肌の境界線を凝視している。
練習の甲斐があったわ。ほんの数秒だけど。
私はその剥き出しの劣情を全身で浴びながら、背筋から下腹部へと、甘く重い熱が駆け巡るのを感じた。私という餌を前にして、理性のタガが外れかけている哀れな獣。男の尊厳が音を立てて崩れていくその滑稽な様を特等席で眺めるこの瞬間こそが、私の奥底を最も熱く疼かせるのだ。
そして私は、そのままの姿勢で視線だけを僅かに動かし、窓際の方を盗み見た。
巨大なガラス窓に反射する東京の夜景。その光の海に溶け込むようにして、こちらをじっと観察している司の顔が鏡のように映り込んでいる。司は私たちを直接見てはいない。けれど、ガラス越しに翔平さんの卑しい視線を完璧に把握し、その口角を微かに、しかし確かな愉悦を込めて釣り上げていた。
ああ、たまらない。夫は妻が他の男の視線で汚されることに興奮し、友人は夫を出し抜いたと錯覚して妻の胸元に欲情している。二人とも、本当に滑稽で愛おしい。私はこの歪んだ円環の中心で、さらに深い絶望の底へと彼らを突き落とすための準備を進めた。
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「お待たせ」
不意に背後から足音が響き、司が席に戻ってきた。
翔平さんは弾かれたように身体を震わせ、慌てて視線を自分のグラスへと落とした。その額には変な汗が浮かび、「いや、いいワインだな。進んじゃうよ」と震える声で誤魔化す姿は、哀れを誘うほどだった。
司はそんな翔平さんの動揺を完璧に無視し、いつもの理知的な笑顔で席に着いた。会話は自然と、私が趣味で開いているというアロマ教室のことになった。
「最近、多幸感に包まれる不思議なブレンドができたんです」
私は、先ほどまで扇情的な赤い下着を見せつけていた女と同一人物とは思えないほどの、清楚で純真な微笑みを浮かべて言った。
「ちょっと、嗅いでみます?」
「合法だよね?」
司がすかさず、見下したような響きを込めて茶化す。自分の支配下にある空間であることを誇示するための、嫌味な合いの手だ。
「もちろんですよ。もぅ」
私は可愛らしく頬を膨らませて笑い合い、翔平さんもそれに合わせて引きつった笑いをこぼした。
そして私は、ゆっくりと両手を首の後ろへと回した。
アロマの小瓶のキャップを開けるだけなら、こんな動作は必要ない。けれどこれは、プロの仕事人が自らの技を披露する前に気合いを入れるような、大切な儀式のようなものなのだ。
私は豊かな黒髪をかき集め、一つに縛り上げた。その無防備な仕草によって、私の白く滑らかなうなじが照明の下に露わになる。翔平さんの視線が、今度は私の首筋へと吸い寄せられ、ゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえた気がした。計算された私の所作一つ一つが、彼の理性を確実に削り取っていく。
そして、このうなじを見せつける行為は、司への強烈なアピールでもある。あなたが与えてくれたこのおもちゃを、私がどれだけ見事に壊してあげるか、特等席で見ていなさい。そんな無言のメッセージに対する司の歪んだ嫉妬心が、場の空気をさらに重く、じっとりとしたものに変えていく。
私は小瓶のキャップを開け、一滴のアロマを自らの手首に落とした。指先で軽く馴染ませてから、テーブル越しに翔平さんの鼻先へと、私の細い手首をすっと突き出した。
「はい、どうぞ」
翔平さんは抗うことなどできず、吸い寄せられるように身を乗り出し、私の肌に顔を近づけた。
ただのアロマの香りではない。私の体温で温められ、生々しい女の体臭と混ざり合った、理性を狂わせるための猛毒のブレンドだ。至近距離でその香りを直接肺の奥まで吸い込んだ翔平さんは、頭の芯を痺れさせたように目を見開き、フリーズした。
「……すごいいい、な。これ」
幼児のような語彙力を発揮し、ただの雄の呻き声のような言葉を漏らす翔平さん。
司の目の前だというのに、私の手首に鼻を押し付けんばかりの距離で香りを貪る彼の姿を見て、私は胸の奥で高らかに笑い声を上げた。
「多幸感のブレンド……翔平さんにも、伝わったみたいで嬉しいです」
私は満足げに微笑み、ゆっくりと腕を引いた。
この部屋を支配しているのは、司でも翔平さんでもない。他でもない、この私だ。男たちの絶望と興奮をかき混ぜながら、私は次なる地獄の釜の蓋を、静かに、そして優雅に開け放った。




