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第38話 アパート 三人称神視点②

(正当防衛だ。あいつは狂ってる。俺と愛莉須さんを殺しに来たんだ!)

 翔平は咄嗟にキッチンへ駆け寄り、シンクに置いてあった文化包丁を手に取った。そして、愛莉須を自分の後ろに庇うように立ち塞がり、鋭い刃先を侵入者である司に突きつけた。


「来るな! それ以上近づいたら刺すぞ!」


 靴でガラスの破片を踏み躙りながら立ち上がった司は、刃物を向けられて一瞬表情を硬くした。だが、すぐに部屋の隅に置かれていた翔平のゴルフバッグに目をつけ、そこから一番長いドライバーを引き抜いた。


「翔平、包丁を下ろせ。正気じゃないぞ」


 司はゴルフクラブを両手で構えながら、じりじりと間合いを詰めた。

(完全に錯乱しているな。まずはあの包丁を叩き落として、無力化しなければ)


「うるせえ! お前こそ正気じゃない! 愛莉須さんを道具扱いしやがって!」

 翔平が雄叫びを上げ、包丁を振りかざして突進してきた。

 司は冷静にその軌道を見極め、包丁だけを弾き飛ばすべく、ゴルフクラブをフルスイングした。


 ブォン、と空気を切り裂く鈍い音が狭い部屋に響く。


 だが、スポーツマンとしての反射神経を持つ翔平は、間一髪で身を沈め、その一撃を避けた。


「……あっ」


 空を切ったゴルフクラブのヘッドは、そのまま勢いを止めることなく、翔平のすぐ後ろに立っていた愛莉須の側頭部へと向かっていった。


 直撃するまさにその直前。


 まるでその空間の物理法則が壊れたかのように、時間がスローモーションになった。


 宙を舞う金属のヘッドが自分に迫る中、愛莉須の顔には恐怖など微塵もなかった。彼女は、自分が死ぬこと、そしてこの愚かな男二人が最終的に相討ちになるであろうこの凄惨な結末を、すべて予見していたかのように――。


(ええ、これこそが最高の絶望と興奮の極致ね。ありがとう、あなたたち)


 愛莉須は、目の前で殺し合おうとしている翔平と司の両方に向けて、人間離れした恍惚の「女神の微笑み」を向けた。


 ゴッ、という生々しく鈍い音が響いき、愛莉須の側頭部へめり込み、首を折った。


 愛莉須の身体が崩れ落ち、淡いラベンダー色のブラウスが鮮血に染まっていく。


 即死。


「あ……愛莉須……?」

 司は手にしていたゴルフクラブを床に落とし、驚愕に見開かれた目で、倒れた愛莉須の元へふらふらと駆け寄った。


(嘘だ。僕の完璧な計算が。僕の愛莉須が……)


 司は膝をつき、血の海に沈む彼女の身体を抱きかかえた。支配者としての余裕は完全に消え失せ、ただの絶望した男の顔になっていた。

 だが、その無防備な背中を、錯乱した翔平の濁った瞳が見逃すはずがなかった。


「邪神め……お前が彼女を殺したんだ! 死ね! 死ねえええっ!」


 翔平は両手で包丁を握りしめ、咆哮と共に、司の背中から心臓に向けて深々と刃を突き立てた。


「ガハッ……!」


 司の口から大量の血が溢れ出し、愛莉須を抱きかかえたまま、その身体が大きく傾いた。


(まさか、僕が……こんな駒ごときに……)


 絶命した司の身体が横に倒れ込む際、もつれた足が近くにあった棚の上の電気ポットのコードに激しく絡まった。


 バシャン!


 棚から落下した電気ポットの蓋が外れ、沸騰していた熱湯が、司の返り血を浴びて立ち尽くしていた翔平の全身に降り注いだ。


「ぎゃあああああああっ!」


 翔平が絶叫を上げて床にのたうち回る。

 落下した衝撃で、ポット本体とコードの接続部分のプラグが外れた。

 熱湯と、その周りに飛び散っていた大量の血液が混ざり合い、アパートの床を水浸しにしていく。

 そして、コンセントに繋がったままの黒いコードの先端が、その血と熱湯の入り混じった水溜りへと、音を立てて水没した。


 バチバチッ!


 青白い火花が散り、強烈な電流が水と血を伝って翔平の濡れた身体へと一気に流れ込んだ。


(俺は……彼女を……救い出すはず、だったのに……)


 翔平の身体が異常な角度で硬直したかと思うと、白目を剥き、そのまま力なく崩れ落ちた。絶え間なく流れる電流が、彼の命を完全に断ち切ったのだ。


 狭いアパートの一室に、三つの死体が重なり合うように捧げられている。


 絶望と興奮の円環は、凄惨な血の海の中で、一つの終焉を迎えた。


 +++


 物理的な肉体が機能停止し、死にゆく三人の意識が深い暗闇へと遠のいていく。

 だが、その暗闇の底が抜けた瞬間。


 彼らの脳内に、「神界」での本来の記憶が、天文学的な光の奔流となって雪崩れ込んできた。


(ああ、そうだった。俺は「嫉妬」と「渇望」を司る下位神、ショヘラ)

(僕の正体は「観照」と「支配」を司る上位神、ツカンサー)

(そして私は……すべての欲望の根源「混沌の女神」、アリンス)


 人間界でのドロドロとした愛憎劇も、血みどろの悲劇も。すべては、神としての強大な力を抑え込み、繊細で究極の「興奮」を味わうために彼ら自身が仕組んだ、壮大な前戯に過ぎなかったのだ。


 肉体の死という殻を破り、本来の姿と記憶を取り戻した三柱の神々は、次なるマウント合戦と反省会を行うため、高次元の異世界の神殿へと歓喜と共に帰還していった。


 永遠に続く、絶望と興奮の円環を回し続けるために――。

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