第37話 アパート 三人称神視点①
タクシーの後部座席で、熱田翔平は荒い息を吐きながら、隣で身を縮こまらせている神谷愛莉須の華奢な肩を強く抱き寄せていた。
(俺が必ずお前を救い出す! あの冷酷な邪神の手から、俺が!)
翔平の胸中は、歪んだ正義感と強烈なヒーロー願望で燃え上がっていた。自分が彼女の唯一の理解者であり、救済者であるという揺るぎない確信。
その腕の中で震えている愛莉須は、怯えた子羊のような顔を作りながらも、内心では全く別の感情に支配されていた。
(ああ、なんて愚かで愛おしい男たち。私による混沌の差配で、ここまで完璧に狂い合ってくれるなんて)
愛莉須の唇の端は、暗闇の中でわずかに、そして妖艶に吊り上がっていた。二人の男が自分を巡って常軌を逸していくこの状況に、彼女は底知れない愉悦を感じていたのだ。
まんざらでもないどころか、彼女はこの破滅的な逃避行を心から楽しんでいた。
タクシーはほどなくして、翔平が住む築古のアパートに到着した。翔平は愛莉須の手を強く引き、一階の薄暗い通路を早足で進むと、自室のドアを開けて彼女を転がり込ませた。すぐさま鍵を閉め、チェーンをかける。
「もう大丈夫だ、愛莉須さん。あいつはここまで追ってこれない」
翔平は、まだ荷解きも終わっていない段ボールが積まれた部屋の真ん中で、愛莉須を万年床の上に座らせた。
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同じ頃、表参道の高級個室ダイニングに取り残された神谷司は、冷たい怒りと共にタクシーに乗車していた。
(誘拐はいくらなんでもやりすぎだ翔平。僕は、彼が妻に劣情を抱き、嫉妬に悶える姿を特等席で見ていたかっただけだというのに)
司は、強く握ったスマートフォンの画面を睨みつけた。そこには、愛莉須のスマートフォンに仕込んだGPSの現在地が、リアルタイムで表示されている。赤いピンが指し示しているのは、都内の外れにある古びたアパート。間違いなく翔平の自宅だと確信した。
(僕の完璧な計算に、ここまで面倒なイレギュラーを起こすとは。……だが、すぐに終わらせてやる)
司は運転手をせかした。圧倒的な支配者である自分の盤面を乱された不快感と、愛莉須を奪われたという事実が、彼の冷徹な理性を少しずつ狂わせていた。
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翔平のアパートの前に、一台のタクシーが滑り込むように停車した。
司は車を降りると、GPSの示す一階のベランダ側へと足音を殺して回り込んだ。薄汚れたすりガラス越しに、煌々と明かりが点いている部屋がある。そこから、翔平の興奮したような声が漏れ聞こえてきた。
(ここか。……本当に滑稽な男だ)
司はベランダの窓枠に手をかけ、強くガラスを叩いた。
「翔平! 開けろ! 僕だ!」
部屋の中から、ビクッと息を呑む気配がした。司は声を張り上げ、努めて切実な響きを作って説得を試みた。
「翔平、僕が悪かった! 謝るから、愛莉須を返してくれ! 頼む、警察沙汰にはしたくないんだ。話し合おう!」
司はあくまで、この事態を自分のコントロール下に引き戻したかった。
(お前の怒りは分かった。だが、これ以上の暴走は僕のシナリオにはない。大人しく出てくれば、今まで通り僕の庇護下で飼ってやる)
だが、部屋の中の翔平は、その言葉を鼻で笑い飛ばした。
(絶対に嘘だ。司の言葉など二度と信じない。お前はただ、俺から愛莉須さんを取り戻して、またあの冷徹な支配の檻に閉じ込めるつもりだろう!)
「帰れ司! 愛莉須さんはもうお前のモノじゃない! 俺が彼女を守るんだ!」
翔平の怒号が響く。愛莉須は翔平の背中にしがみつき、彼のシャツをぎゅっと握りしめた。
「翔平さん、怖い……彼、絶対に私を許してくれないわ……」
小刻みに震える弱い女を演じながら、愛莉須の胸の奥では黒い炎がチロチロと燃え盛っていた。
(もっとよ。もっと争って、私を喜ばせて。二人の男が私のために魂を削り合い、捧げ合う様を見せて!)
彼女の悪戯心は、すでに限界を突破し、エスカレートしていた。
「翔平、開けろと言っているだろう!」
しびれを切らした司が、ベランダのガラスを何度も強く叩いた。その苛立ちのあまり、力の加減を誤った。
ピキッという嫌な音と共にひびが入り、次の瞬間、ガシャンと大きな音を立ててすりガラスが砕け散ったのだ。
「……っ!」
司は割れた窓枠から手を入れ、強引に鍵を開けて部屋の中へと侵入した。




