第36話 居酒屋 翔平視点②
「本当にいい加減にしろ司! お前、自分が何をやってるか分かってるのか? そんな風に力ずくで、彼女をモノみたいに扱って……。愛莉須さんは怯えてるんだぞ! お前のその冷徹な支配に、ずっと悲鳴を上げてるんだ!」
静寂を売りにする高級個室ダイニングに、俺の獣のような咆哮が響き渡った。
「んっ……司さん……翔平さんの前なのに、恥ずかしい……。でも、ごめんなさい……私、あなたに逆らえない……」
テーブルの下で、助けを求めるように俺の足に絡みついてきた彼女の怯えた声と素足の震え。それが全てを物語っていた。司の持っていた盗聴音声も、目の前で見せつけられた淫らなキスも、すべてはあの冷酷な男が彼女を脅して服従させているだけなのだ。
俺は正義の怒りに震えながら、忌まわしい親友を睨みつけた。
だが、司は慌てるどころか、ゆっくりと愛莉須さんの唇から離れると、涼しい顔で俺を流し見た。
「怯えている? 僕にはそうは見えないが。翔平、君は相変わらず『観測』の精度が低いな」
見下すような冷たい声。司は愛莉須さんを抱き寄せたまま、左手首の最新型スマートウォッチを操作し始めた。
「翔平、お前が愛莉須と二人でパフェを食べて興奮しているとき、愛莉須の体温が何度上がったか、心拍がどう乱れたか、僕はすべてリアルタイムで共有している。お前が彼女を想って悶えるたびに、彼女は俺の腕の中で最高の声を出すんだよ」
ったく。またモラハラ発言をしてやがる。どれだけ愛莉須さんを傷付けたら気が済むんだこいつは。
「君がさっきから口にしている『愛情』だの『心』だのという曖昧な概念は、僕にとってはノイズでしかない。僕はね、もっと残酷で、もっと確実なものを信じているんだ。それは――『事実』という名のデータだよ」
司は、光る画面を俺の目の前に突きつけてきた。そこには、赤と青の折れ線グラフがリアルタイムで波打っていた。
「これを見ろ、翔平。これは愛莉須の心拍数と体温の推移だ」
俺の目が、反射的にそのグラフの波を追ってしまう。
「この最初の小さな山……これは、カフェで君が彼女の手首を持ち上げ、『一人の女性として見てる』と甘い台詞を吐いた時の数値だ。心拍数は八十前後。体温の変化も微々たるものだ。つまり、彼女の身体は君の言葉に何一つ反応していなかった。退屈な営業トークを聞かされている時と大差ない数値だよ」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。あんなにも熱く語りかけた俺の言葉が、彼女の身体には届いていなかったというのか。
「そして、この急激な上昇。これは今、僕が彼女を抱き寄せ、君の目の前でチョーカーを引き寄せてキスをした時の数値だ。心拍数は百三十を超え、体温は一度近く上昇している。……わかるか、翔平? 君が必死に捧げた『精神的な救済』よりも、僕が今与えている『絶対的な支配』の方が、彼女の身体を激しく昂らせ、多幸感を与えているんだよ」
目の前が真っ暗になった。
呼吸が止まり、頭の中で何かがガラガラと崩れ落ちていく。俺が唯一の拠り所にしていた「彼女と心を通わせた」という確信が、司が最も得意とする客観的な「数字とデータ」によって、完膚なきまでに粉砕されていく。
「やめて、司さん……!そんなもの見ないで……私、ただ、司さんが怖くて……っ」
やはり怖がっている愛莉須さんが泣きそうな声で司の胸に顔を伏せる。だが、俺の目は、残酷な真実を示すグラフに釘付けになっていた。
「彼女が望んでいるのは、君のような甘いヒーローごっこじゃない。僕という神の盤面で、逃げ場のない支配に縛られ、その背徳に酔いしれることなんだ。お前のヒロイズムなんて、この客観的なデータの前ではひどく滑稽で無価値だ」
俺は膝から崩れ落ちるように、力なく椅子に座り込んだ。
言葉が出なかった。どんなに反論しようとしても、あのグラフが全てを否定してくる。これ以上何を言っても、目の前の悪魔はさらに理路整然と俺を殴りつけてくるだけだ。圧倒的な絶望感に、俺の心は完全にへし折られてしまった。彼女を救い出して抱くという甘い目論見ごと、無機質なデータによって完膚なきまでに叩き潰されたのだ。俺は最初から、ただの滑稽なピエロだった。
打ちのめされ、ただ俯くしかない俺を見下ろし、司は冷徹にお開きの準備を始めた。
「さて、お喋りが過ぎたかな。翔平、君との『親友ごっこ』も、今日で終わりだ」
司は懐から財布を取り出すと、無造作に万札を数枚抜き取り、あろうことか、それを俺の顔に向けて投げつけたのだ。
「お前みたいな底辺が、僕の妻に勝手に発情し、必死に手を伸ばして踊る様は、極上のエンターテインメントだったよ。これは、僕を楽しませてくれた分のチップだ。この金で安い風俗にでも行って、その惨めな劣情を処理してくるといい」
バシッと頬を打った万札が、ハラハラと床に散らばっていく。
「役目は終わった。もう二度と、僕たちの視界に入るな」
明確に「お前はただの玩具だった」とゴミのように捨てられた瞬間。
俺の中で、何かが完全に弾け飛んだ。
これまでのコンプレックスも、惨めさも、理詰めで司を諭そうとしていたちっぽけな良心も、すべてがドス黒い炎に包まれて消し飛んだ。残ったのは、ただ一つ。司のすべてを破壊し、愛莉須さんを力ずくで奪い取るという、純粋で危険な狂気だけだった。
「……こんなもの、いらねえよ」
俺は低く濁った声で呟きながら、床に散らばった万札を拾い集めた。そして、それを司の胸元に思い切り叩き返した。
「絶交だ、司。お前は……お前だけは絶対に許さない。愛莉須さんは、俺が必ず守ってやる……!」
俺の殺意にも似た熱を帯びた言葉を、司は鼻で笑った。
「後悔するなよ、翔平。僕を出し抜けるだけの知恵が付いたら、いつでも遊んでやるよ」
司は俺の狂気など歯牙にもかけず、勝利を確信した余裕の笑みを浮かべて席を立ち、会計のために個室を出てレジへと向かっていった。
個室に残されたのは、荒い息を吐きながら立ち尽くす俺と、うつむいたままの愛莉須さんだけ。
敗北感と狂気が入り混じる中、俺はただ拳を強く握りしめていた。もう終わりだ。強がりを言ったが、俺はあいつに勝てない。彼女を置いて、この惨めな場から去るしかないのか。
その時だった。
レジへと向かう司の背中が完全に見えなくなった、そのわずかな隙。
ギュッ、と。
俺のスーツの裾を、両手で強く、すがるように握りしめる感触があった。
「……愛莉須さん?」
見下ろすと、彼女が瞳にいっぱいの涙を浮かべて、俺を見上げていた。
そして、これ以上ないほど怯えきった、絶望的な声で囁いたのだ。
「翔平さん、助けて……全部あの人の嘘なんです。私、殺されるかもしれない」
――ッ?!
その一言が、俺の脳内にこびりついていたあの絶望的なグラフを、木端微塵に吹き飛ばした。
俺の認知は、急速に組み替わっていく。
そうだ、間違いない。さっきの異常な心拍数の上昇は、愛莉須さんが快感を得ていたからじゃない。冷徹な支配者である司に無理やり抱かれ、恐怖のあまりに鼓動が跳ね上がっていただけなんだ!
あいつは、怯える彼女の生体データを「多幸感」だと言い換えて、俺を騙そうとしたんだ!
『愛莉須さんは、俺が必ず守ってやる……!』
俺の宣言は、間違っていなかった。
司というモラハラの悪魔から彼女を救い出せるのは、この俺だけだ。俺が、連れ出すしかない。
今、この瞬間に!!
「愛莉須さんは、俺が救い出すって言っただろ!」
「たのもしいです。翔平さん。でも、どうやって……」
俺の顔から一切の迷いが消え去り、獣のような決意が張り付いた。
俺は、俺の裾を握りしめていた彼女の細い手首をガシッと掴むと、力強く引き寄せた。
「行くぞ!」
「えっ?」
俺は彼女の手を引いたまま、個室を飛び出し、驚く店員を押しのけてエントランスへと駆け出した。
振り返る気はない。背後から司の「まて、翔平!何を考えている!」という怒声が聞こえたが、今の俺には邪神の叫び声にしか聞こえなかった。
夜の表参道に飛び出し、俺は狂ったように手を挙げて、走ってきたタクシーを強引に急停車させた。
「乗って!」
「あっ、ちょっと……」
愛莉須さんを後部座席に押し込み、俺もその隣に飛び乗る。
「出せ!早く!」
運転手が慌ててアクセルを踏み込む。タイヤがアスファルトを削る音と共に、タクシーはネオンの瞬く夜の街へと猛スピードで滑り出した。
窓の外を流れる景色を見つめながら、俺は荒い呼吸を整え、隣で身を縮こまらせている愛莉須さんの肩を強く抱き寄せた。
勝った。俺はあの悪魔から、ついに女神を奪い取ったんだ。
このまま俺のアパートへ連れ帰り、彼女に本当の安心と、誠意ある熱を教えてやる。
俺は、強烈な使命感と狂気に胸を焦がしながら、勝利の味を噛み締めていた。




