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第35話 居酒屋 愛莉須視点②

「本当にいい加減にしろ司! お前、自分が何をやってるか分かってるのか? そんな風に力ずくで、彼女をモノみたいに扱って……。愛莉須さんは怯えてるんだぞ! お前のその冷徹な支配に、ずっと悲鳴を上げてるんだ!」


 私はビクッと肩を震わせ、司の胸元に顔を埋めた。翔平さんから見れば、夫の横暴さに恐怖し、身を縮こまらせている可哀想な妻。けれど実際は、込み上げてくる笑い声と、下腹部から這い上がってくる強烈な快感を必死に噛み殺していたのだ。


「んっ……司さん……翔平さんの前なのに、恥ずかしい……。でも、ごめんなさい……私、あなたに逆らえない……」


 ああ、翔平さん。あなたは本当に、期待通りの泥臭いヒーローね。私がテーブルの下で絡ませた足のサインと、私が流した嘘の怯えた目線を完全に信じ切り、自分の身の程も忘れて「絶対的な支配者」である司に牙を剥いている。


 私が司の腕の中で打ち震えていると、頭上から、一切の熱を持たない、底冷えするような声が降ってきた。


「怯えている? 僕にはそうは見えないが。翔平、君は相変わらず『観測』の精度が低いな」


 司は私を抱き寄せたまま、涼しい顔で左手首の最新型スマートウォッチを操作した。


「翔平、お前が愛莉須と二人でパフェを食べて興奮しているとき、愛莉須の体温が何度上がったか、心拍がどう乱れたか、僕はすべてリアルタイムで共有している。お前が彼女を想って悶えるたびに、彼女は俺の腕の中で最高の声を出すんだよ」


 その言葉に、私は背筋にゾクゾクと電流が走るのを感じた。

 知っていた。司が私の生体データをすべて監視していることなど、とっくに。けれど、それをこうして他の男の目の前で、残酷な真実として突きつける彼の「加虐心」がたまらなく好き。私という存在のすべてを数字で掌握し、支配し尽くしているという傲慢さ。それが私をこの上なく興奮させるのだ。


「君がさっきから口にしている『愛情』だの『心』だのという曖昧な概念は、僕にとってはノイズでしかない。僕はね、もっと残酷で、もっと確実なものを信じているんだ。それは――『事実』という名のデータだよ」


 司は、スマートウォッチの画面を翔平さんの目の前に突きつけた。

「これを見ろ、翔平。これは愛莉須の心拍数と体温の推移だ」


 翔平さんの目が、画面に表示された青と赤の折れ線グラフを捉える。


「この最初の小さな山……これは、カフェで君が彼女の手首を持ち上げ、『一人の女性として見てる』と甘い台詞を吐いた時の数値だ。心拍数は八十前後。体温の変化も微々たるものだ。つまり、彼女の身体は君の言葉に何一つ反応していなかった。退屈な営業トークを聞かされている時と大差ない数値だよ」


 翔平さんの顔が、屈辱でドス黒く歪む。


「そして、この急激な上昇。これは今、僕が彼女を抱き寄せ、君の目の前でチョーカーを引き寄せてキスをした時の数値だ。心拍数は百三十を超え、体温は一度近く上昇している。……わかるか、翔平? 君が必死に捧げた『精神的な救済』よりも、僕が今与えている『絶対的な支配』の方が、彼女の身体を激しく昂らせ、多幸感を与えているんだよ」


「やめて、司さん……! そんなもの見ないで……私、ただ、司さんが怖くて……っ」

 私はどっちともとれる言葉を発した。司には怖いほどその存在を求めている私。翔平さんには本当に怯えている私。そのどっちも当てはまっているのだけれど、受け取り手によって意味が変わる。

 そして、司が追い打ちをかけた。


「彼女が望んでいるのは、君のような甘いヒーローごっこじゃない。僕という神の盤面で、逃げ場のない支配に縛られ、その背徳に酔いしれることなんだ。お前のヒロイズムなんて、この客観的なデータの前ではひどく滑稽で無価値だ」


 翔平さんの呼吸が、ピタリと止まった。

 彼の「俺だけが彼女の心を理解している」という唯一の拠り所が、司が最も得意とする「数字とデータ」によって完膚なきまでに粉砕された瞬間だった。


 がんばれ翔平さん。言い返すのよ。私への愛はその程度だったの?


 私は、司の腕の隙間から、翔平さんの顔をエールを込めて盗み見た。

 彼の顔は、まるで魂を抜き取られたかのように青ざめ、口をパクパクと動かしているものの、声一つ出ていない。自分がすがりついていた「純愛」や「救済」という美しい物語が、私の無慈悲な生体データの前で、ただの独りよがりな妄想へと貶められた絶望感。

 これ以上何を言っても、目の前の悪魔にはさらにその上のマウントを取られるだけだと悟り、彼の心は完全にへし折られていた。


 打ちのめされ、言葉を失って立ち尽くす翔平さんに対し、司は冷徹にお開きの準備を始めた。

「さて、お喋りが過ぎたかな。翔平、君との『親友ごっこ』も、今日で終わりだ」


 懐から財布を取り出すと、無造作に数枚の万札を抜き取り、なんと翔平さんの顔に向けて直接投げつけたのだ。


「お前みたいな底辺が、僕の妻に勝手に発情し、必死に手を伸ばして踊る様は、極上のエンターテインメントだったよ。これは、僕を楽しませてくれた分のチップだ。この金で安い風俗にでも行って、その惨めな劣情を処理してくるといい」


 万札が、翔平さんの頬をかすめてハラハラと床に散らばっていく。

「役目は終わった。もう二度と、僕たちの視界に入るな」


 明確に「お前はただの玩具だった」と宣告され、ゴミのように捨てられた瞬間。


 その時だった。

 翔平さんの目の中に、今までの絶望とは全く異なる、どろりとした真っ黒な炎が灯るのを私は見た。

 司に理詰めで諭すスタンスは完全に消え失せ、残ったのは「司のすべてを破壊し、私を力ずくで奪い取る」という、純粋で危険な狂気。

 それよ! 翔平! それを待っていたのよ!


「……こんなもの、いらねえよ」


 翔平さんは床の札を拾い上げ、司の胸元に叩き返した。その声は低く濁り、殺意にも似た熱を帯びていた。


「絶交だ、司。お前は……お前だけは絶対に許さない。愛莉須さんは、俺が必ず守ってやる……!」


「後悔するなよ、翔平。僕を出し抜けるだけの知恵が付いたら、いつでも遊んでやるよ」


 司は翔平さんの狂気など歯牙にもかけず、勝利を確信した余裕の笑みを浮かべて席を立ち、会計のためにレジへと向かっていった。


 店の出入り口まで翔平さんと向かう。

 司は、これでゲームを「終わらせた」つもりでいる。自分の圧倒的な支配力を見せつけ、不快な虫を追い払って満足している。


 でも……そんなの、もったいないじゃない?


 せっかく翔平さんが、あんなにも美しく壊れてくれたのに。

 ここで終わらせてしまったら、つまらない。私を、もっと、もっと楽しませてほしい。

 絶対に、この男を逃がしはしない。


 私は、レジへと向かう司の背中が完全に見えなくなったそのわずかな隙を突き、震える手を伸ばした。

 そして、立ち尽くす翔平さんの服の裾を、両手で強く、すがるように握りしめた。


「……愛莉須さん?」


 焦点の合っていなかった翔平さんの瞳が、私を見下ろす。


 私は彼を見上げ、瞳にいっぱいの涙を浮かべた。そして、これ以上ないほど怯えきった、絶望的な声で囁いたのだ。


「翔平さん、助けて……全部あの人の嘘なんです。私、殺されるかもしれない」


 それは、翔平さんの中でくすぶっていた狂気の火薬庫に、直接松明を投げ込むような、自分自身を褒めたくなるほどの最大の一撃だった。


 私の涙を見た瞬間、翔平さんの顔から一切の迷いが消え去り、獣王のような決意がその顔に張り付くのを、私ははっきりと感じ取っていた。

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