第33話 居酒屋 翔平視点①
表参道の喧騒から離れた、隠れ家のような高級個室ダイニング居酒屋。
通された個室は薄暗い間接照明に照らされ、磨き上げられた無垢材のテーブルが上品な影を落としていた。
いつもなら、司が用意したこの場違いな高級感に気圧され、劣等感に苛まれていたはずだ。だが、今日の俺は違った。
この密室という盤面を本当に支配しているのは、冷酷なモラハラ夫の司ではなく、彼女の真の理解者であるこの俺なのだから。
向かいの席に座る愛莉須さんは、ハッとするほど美しかった。
シルクのように滑らかな、淡いラベンダー色のブラウス。横に広く開いたボートネックの首元からは、華奢な鎖骨と白いうなじが惜しげもなく露わになっている。動くたびに艶かしく身体のラインを拾うその生地越しに、彼女の温もりと甘い匂いまで伝わってくるようだった。
そして、彼女の細い首に光る華奢なゴールドのチョーカー。
昨夜のメッセージで『翔平さんに会うから』と、新しい服を選んでいたと言っていた。
この気合の入った装いは、彼女を数字としか見ない夫のためではなく、俺のためなのだ。そう思うと、胸の奥底で強烈な優越感と使命感が爆発しそうになった。
「この前は途中で抜けて悪かったな。仕事のトラブルで、どうしても外せなくてね」
司が、いつものように涼しい顔でグラスを手にする。
「まあいいよ。とりあえず、乾杯しよう」
俺は、寛大な勝者としての余裕を声に乗せて答えた。司は何も分かっていない。お前が席を外したあの時間で、俺が彼女の「本当の心」にどれほど深く触れたのかを。お前が管理しきれなかった彼女の熱は、もう完全に俺の手の中にある。
カチン、と澄んだガラスの音が個室に響いた。
しばらくは当たり障りのない仕事の愚痴や、昔話が続いた。俺は、目の前で偉そうに仕事の成果を語る司を、哀れみすら持って眺めていた。自分の妻の心一つ繋ぎ止められない、可哀想な男。数字とデータで世界をコントロールしているつもりでも、一番大切なものはお前の手からこぼれ落ちているんだぞ。
やがて、俺はグラスをテーブルにコトリと置き、真っ直ぐに司の目を見た。今日、俺は彼女をあの冷徹な檻から救い出すヒーローになるのだ。そしてもし、司が改心することが無ければ、俺は彼女の全てをいただきにかかる。
「司。もっと愛莉須さんのこと、ちゃんと見てやった方がいい。彼女は数字やデータじゃないんだ」
俺の言葉に、愛莉須さんがハッとしたように息を呑み、俯いた。無理もない。ずっと司の冷酷な支配に耐えてきた彼女にとって、俺の言葉はどれほど心強かったことだろう。
ところが、司は反省するどころか、薄く笑みを浮かべたのだ。
「数字やデータじゃない、か」
司は静かに呟くと、ポケットから自分のスマートフォンを取り出し、テーブルの中央に置いた。
「お前は、自分が彼女の心を誰よりも理解しているという気になっているようだが……」
司の指が画面をタップする。次の瞬間、静寂に包まれた個室に、あり得ない音声が流れ始めた。
『昨日お伝えした通り……司さん、私のこと『数字』や『データ』みたいに扱うことがあって……。私が本当に何を望んでいるのか、あの方は一度も聞いてくださらない……』
『司の野郎……あいつ、愛莉須さんのことを何も分かってねえんだな。愛莉須さんは数字なんかじゃない。俺はちゃんと、目の前にいる一人の女性として見てる』
全身の血が逆流するのを感じた。
カフェでの、俺と愛莉須さんだけの密会の音声だ。なぜ、司がこれを持っている?
俺は限界まで目を見開き、スマートフォンと司を交互に見た。頭の中が真っ白になり、思考が追いつかない。
「な、なんだこれは! 盗聴していたのか?!」
「これは愛莉須の嘘だ。僕からの寵愛を求めるあまり、お前の安いヒーロー願望を煽ったに過ぎない」
司の冷酷な言葉が、俺の脳を激しく揺さぶる。
「……っ。そ、そんなことは、彼女が嘘をつくはずはない! 俺には分かる、あれは本心からのSOSだった!」
俺はテーブルに身を乗り出し、激昂して叫んだ。愛莉須さんが俺に嘘をつくわけがない。あの涙、あの震える声、俺にだけ送ってくれた秘密のメッセージ。
すべてが真実だったはずだ。
「おかしいなぁ。カフェの日の後も、愛莉須はベッドで何度も僕の体を求めてきたから嫌われているわけないんだけどなぁ」
司はこともなげに卑劣な暴露をすると、隣に座る愛莉須さんの腰を力強く抱き寄せた。そして、彼女の首元にあるゴールドのチョーカーに指を掛け、自分の方へと乱暴に引き寄せた。
ボートネックのブラウスがはだけ、俺のためを思って着てくれたはずの服から、あの白い肌がさらに露わになる。
司は俺の目の前で見せつけるように、愛莉須さんの唇を深く塞いだ。
「んっ……」
うわっ! 司。モラルのかけらも無くしちまったのかよ。
愛莉須さんは一瞬、司の胸を押し返すように抵抗する素振りを見せた。そして、彼女の潤んだ瞳が、助けを求めるように真っ直ぐに俺を射抜いた。
しかし次の瞬間、彼女はとろんと目を潤ませ、うっとりとした表情を浮かべて自ら司を受け入れ、淫らなキスを交わし始めたのだ。
目の前で繰り広げられる、圧倒的な「所有物」としての見せつけ。
頭がおかしくなりそうだった。俺が救い出すはずの女神が、俺の目の前で、あの冷酷な悪魔に犯されている。
だが、その時だった。
テーブルの下で、何かが俺の足に触れた。
愛莉須さんがヒールを脱ぎ捨てた素足が、俺のズボンの裾を擦り、ふくらはぎから膝にかけて、這わせるように、ねっとりと絡みついてきたのだ。
ビクン、と俺の身体が大きく跳ねた。
視界の上の世界では、夫に逆らえず、甘い声を出してキスを受け入れている愛莉須さん。
しかし、テーブルの下の隠された世界では、俺の足にすがりつき、震えながら助けと誘惑のサインを送り続けている。
その瞬間、俺の中でショートしていた思考のパズルが、完璧な形となって組み合わさった。
(……そうか、そういうことか!)
司が持っていたあの盗聴音声。目の前で受け入れているこの淫らなキス。
これはすべて、司が冷徹な支配によって彼女を脅し、無理やり従わせている証拠に他ならない。あの音声だって、彼女が俺に助けを求めたことを知った司が、愛莉須さんを脅迫して「嘘だった」と言わせようとしているだけだ。
彼女は今も、あの冷酷なモラハラ夫に怯え、ずっと悲鳴を上げている。テーブルの下のこの足の震えこそが、俺だけに向けられた彼女の真実なのだ!
俺の胸の内で、正義感と屈辱、そして激しい独占欲が業火となって燃え上がった。
これ以上、あいつの好きにはさせない。俺が必ず、この悪魔の檻から彼女を連れ去ってやる。
俺は奥歯を噛み砕かんばかりの音を立て、椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がった。テーブルに両手をつき、忌まわしいキスを続ける司に向かって、獣のような咆哮を上げた。
「いい加減にしろ司!」




