第32話 居酒屋 愛莉須視点①
薄暗い間接照明が、磨き上げられた無垢材のテーブルに上品な影を落としている。外界から完全に隔離された、高級個室ダイニング居酒屋。
私は、今日の舞台のために司が選んだ衣装を纏っていた。
シルクのように滑らかなとろみ素材で作られた、淡いラベンダー色のブラウス。首元が横に広く開いたボートネックは、私の鎖骨からうなじにかけてのラインを惜しげもなく晒している。
動くたびに艶かしく身体のラインを拾うこの生地は、向かいに座る熱田翔平さんの理性を確実に削り取るためのものだ。
そして首元には、華奢なゴールドのチョーカー。
翔平さんの目には「彼のために気合を入れて選んだアクセサリー」と映るだろう。けれど司にとって、これは私が彼の完全な所有物であることを示す「首輪」の暗喩だ。
二人の男の異なる欲望を満たす、完璧な装い。
テーブルに向かい合って座る三人。
「この前は途中で抜けて悪かったな。仕事のトラブルで、どうしても外せなくてね」
司が柔和な笑顔でグラスを手にする。
「まあいいよ。とりあえず、乾杯しよう」
翔平さんは、どこか勝者のような余裕めいた響きで応じた。
カチン、と澄んだガラスの音が個室に響き渡る。
私は控えめにグラスに口をつけながら、テーブルの下でそっと自分の足先を動かした。事前に翔平さんに送った『机の下で、私の気持ちは翔平さんの方を向いてます』というメッセージ。
彼は今、私と「秘密の共犯関係」にあると信じ切り、強烈な使命感と優越感に酔いしれている。
一方で司は、翔平さんが私の嘘の相談に騙され、略奪した気になっている様を「滑稽な喜劇」として見下し、冷徹な支配欲を満たしている。
お互いに自分が相手を出し抜いたと信じて疑わない二人の男。
でも、本当にこの空間を支配しているのは誰?
私を巡って、見えない火花を散らす愚かで愛おしい男たちの熱気が、私の下腹部を甘く疼かせていく。
しばらく当たり障りのない会話が続いた後、翔平さんがグラスを置き、真っ直ぐに司を見据えた。
「司。もっと愛莉須さんのこと、ちゃんと見てやった方がいい。彼女は数字やデータじゃないんだ」
私は小さく息を呑むふりをして、俯いた。
来たわ。翔平さんの、薄っぺらくて滑稽な正義のヒーローごっこ。
「数字やデータじゃない、か」
司は薄く笑い、自分のスマートフォンをテーブルの中央に置いた。
「お前は、自分が彼女の心を誰よりも理解しているという気になっているようだが……」
画面を操作すると、静寂に包まれた個室に、聞き覚えのある音声が流れ始めた。
『昨日お伝えした通り……司さん、私のこと数字やデータみたいに扱うことがあって……。私が本当に何を望んでいるのか、あの方は一度も聞いてくださらない……』
『司の野郎……あいつ、愛莉須さんのことを何も分かってねえんだな。愛莉須さんは数字なんかじゃない。俺はちゃんと、目の前にいる一人の女性として見てる』
表参道のカフェでの、翔平さんと私の密会の音声。
翔平さんの顔から血の気が引き、目を限界まで見開いている。
「な、なんだこれは! 盗聴していたのか?!」
私は震える演技をしながら、内心で歓喜の悲鳴を上げていた。
ああ、司ったら。私のバッグに盗聴器を仕掛けていたんだったわ。私の裏切りをすべて知りながら、あんなにも激しく私を抱き、今こうして一番残酷な形で翔平さんを絶望の底に突き落とそうとしている。なんて恐ろしくて、最高に愛おしい夫。
「これは愛莉須の嘘だ。僕からの寵愛を求めるあまり、お前の安いヒーロー願望を煽ったに過ぎない」
司の冷酷な宣告に、翔平さんはテーブルに身を乗り出して激昂した。
「……っ。そ、そんなことは、彼女が嘘をつくはずはない!俺には分かる、あれは本心からのSOSだった!」
「おかしいなぁ。カフェの日の後も、愛莉須はベッドで何度も僕の体を求めてきたから嫌われているわけないんだけどなぁ」
司はそう暴露すると同時に、私の腰を力強く抱き寄せた。
私の首元にあるゴールドのチョーカーに指を掛け、自分の方へとぐいと引き寄せる。ボートネックのブラウスが少しはだけ、白い肌がさらに露わになった。
そして、翔平さんの目の前で見せつけるように、深く、執拗なキスをしてきた。
「んっ……」
私は最初の数秒だけ、わざと司の胸を押し返すように抵抗する素振りを見せた。
そして、顔を逸らすふりをして、一瞬だけ、助けを求めるように翔平さんと目を合わせた。
(助けて、翔平さん。私、無理やり……)
そんな悲痛なメッセージを瞳に込めて。
しかし次の瞬間、私はとろんと目を潤ませ、うっとりとした表情を浮かべて、自ら司の舌を迎え入れ、淫らなキスに溺れていった。
翔平さんの目の前で、私は「司さんの完全な所有物」としての顔をこれでもかと見せつけたのだ。
翔平さんの顔が、怒り、屈辱、そして絶望でぐちゃぐちゃに歪んでいく。
ここで私は、彼を本当の狂気へと突き落とすための秘策を思いついた。
私は司と激しく唇を交わしながら、テーブルの下で、そっと右足のヒールを脱ぎ捨てた。
ストッキング越しの素足を伸ばし、向かいに座る翔平さんのズボンの裾に触れる。そして、彼のふくらはぎから膝にかけて、這わせるように、ねっとりと絡ませた。
翔平さんの身体が、ビクンと大きく跳ねるのがわかった。
視界の上の世界では、夫に逆らえず、甘い声を出して犯されている妻。
しかし、テーブルの下の世界では、狂おしく彼に助けと誘惑のサインを送り続けている一人の女。
(翔平さん、わかるでしょう?このキスは脅されているからなの。テーブルの下のこの足の震えこそが、あなただけに向けている私の真実なのよ……!)
私のこの残酷な二面性に、翔平さんの認知は完全に歪み切った。
彼の中で、私の裏切りを示す盗聴音声や、目の前の淫らなキスは「司の冷徹な支配による脅迫の証拠」へと完全に変換されたはずだ。そして、テーブルの下で自分に絡みつく私の足だけが、彼にとっての絶対的な真実となったのだ。
私を支配していると信じて疑わない司の腕の中で。
私を救い出すと狂信的な決意を固めた翔平さんの足に絡みつきながら。
私は、この密室で二人の男の精神を同時に破壊し、作り変えるという、神すらも恐れるような至高の愉悦に全身を震わせていた。
翔平さんが、ギリッと奥歯を噛み砕かんばかりの音を立て、椅子を蹴り飛ばすようにして立ち上がった。
「いい加減にしろ司!」
防音の行き届いた個室に、獣のような咆哮が響き渡る。
絶望と興奮の円環が、いよいよ最も美しく、破滅的な未知なる流れへと向かおうとしていた。




