第31話 居酒屋 司視点①
薄暗い間接照明が、磨き上げられた無垢材のテーブルに上品な影を落としている。表参道の喧騒から離れた、知る人ぞ知る高級個室ダイニング居酒屋。僕は、自分たちを外界から完全に隔離するこの密室を、今宵の最終的な「実験場」として選んだ。
向かいの席に座る熱田翔平は、僕がセッティングしたこの場違いな高級感に気圧されることもなく、どこか余裕めいた。
だがしかし、彼の脳内では今、僕という「冷酷なモラハラ夫」から愛莉須の心を救い出し、自分こそが彼女の真の理解者なのだという、強烈な優越感が支配しているのだから。
僕の目を盗んで愛莉須と連絡を取り合い、彼女を「略奪」したつもりでいる彼のその態度は、僕からすれば滑稽を通り越して愛おしいほどの「作品」だった。
そして僕の隣に座る愛莉須の今日の装いもまた、僕が意図して許可を与えたものだ。シルクのように滑らかなとろみ素材で作られた、淡いラベンダー色のブラウス。首元が横に広く開いたボートネックは、彼女の華奢な鎖骨とうなじを惜しげもなく晒している。動くたびに艶かしく身体のラインを拾うその生地は、翔平の理性を確実に削り取るだろう。
だが、最も重要なのは彼女の首元に輝く華奢なゴールドのチョーカーだ。翔平には「自分のために気合を入れて新しい服を着てきてくれた」と見えるかもしれないが、僕にとってあれは、彼女が僕の完全な所有物であることを示す「首輪」の暗喩に他ならない。
「この前は途中で抜けて悪かったな。仕事のトラブルで、どうしても外せなくてね」
僕は柔和な笑顔を貼り付け、グラスを手に取った。
「まあいいよ。とりあえず、乾杯しよう」
翔平は少し顎を上げ、勝者のような響きでそう答えた。自分がこの場を支配していると勘違いしている男の、寛大さを演じた哀れな声。三人で静かにグラスを合わせる。澄んだガラスの音が個室に響いた。
しばらく、当たり障りのない仕事の愚痴や昔話が続いた。翔平の言葉の端々には、僕への哀れみすら混じっている。
自分の妻の心一つ繋ぎ止められない無能な男。そう僕を見下しているのが手に取るようにわかる。
やがてしばらくの沈黙の後、翔平はグラスをテーブルにコトリと置き、真っ直ぐに僕の目を見た。その顔には、正義の味方を気取る安っぽい決意が浮かんでいた。
「司。もっと愛莉須さんのこと、ちゃんと見てやった方がいい。彼女は数字やデータじゃないんだ」
……ああっ、素晴らしい。
僕は湧き上がる爆笑を喉の奥でなんとか噛み殺し、薄く笑い返した。僕がカフェで意図的に退場し、愛莉須に演じさせた「モラハラに怯える悲劇の妻」の台本。それを彼は一言一句違わず信じ込み、あまつさえ僕に向かって説教を垂れている。
すべてが僕の計算したデータ通りに動いているこの圧倒的な快感。
「数字やデータじゃない、か」
僕は静かに呟き、ポケットから自分のスマートフォンを取り出してテーブルの中央に置いた。
「お前は、自分が彼女の心を誰よりも理解しているという気になっているようだが……」
僕は画面を数回タップし、あらかじめ編集しておいた音声ファイルの再生ボタンを押した。
『昨日お伝えした通り……司さん、私のこと数字やデータみたいに扱うことがあって……。私が本当に何を望んでいるのか、あの方は一度も聞いてくださらない……』
『司の野郎……あいつ、愛莉須さんのことを何も分かってねえんだな。愛莉須さんは数字なんかじゃない。俺はちゃんと、目の前にいる一人の女性として見てる』
愛莉須のバッグに忍ばせたルージュ型の盗聴器が拾った、カフェでの密会の音声。それが、静寂に包まれた個室に生々しく響き渡る。
翔平の顔から、さっきまでの傲慢な余裕がサーッと引いていく。血の気が失せ、目を限界まで見開いてスマートフォンと僕を交互に見た。
「な、なんだこれは! 盗聴していたのか?!」
「これは愛莉須の嘘だ。僕からの寵愛を求めるあまり、お前の安いヒーロー願望を煽ったに過ぎない」
「……っ。そ、そんなことは、彼女が嘘をつくはずはない! 俺には分かる、あれは本心からのSOSだった!」
翔平はテーブルに身を乗り出し、激昂したように叫んだ。自分がすがっていた唯一の希望が崩れ去ることを、彼の脳が全力で拒絶している。
「おかしいなぁ。カフェの日の後も、愛莉須はベッドで何度も僕の体を求めてきたから嫌われているわけないんだけどなぁ」
僕は冷酷な事実を告げると同時に、隣に座る愛莉須の腰を力強く抱き寄せた。
彼女の首元にあるゴールドのチョーカーに指を掛け、自分の方へとぐいと引き寄せる。ボートネックのブラウスがはだけ、彼女の白い肌がさらに露わになる。
僕は翔平の目の前で見せつけるように、愛莉須の唇を深く塞いだ。
「んっ……」
はじめの数秒、愛莉須は少しだけ抵抗する素振りを見せた。彼女は僕の腕の中でもがき、一瞬だけ、助けを求めるように翔平と目を合わせた。
だが、それはあくまで翔平をさらに絶望させるための残酷な演技だ。次の瞬間、彼女の瞳はとろんと潤み、うっとりとした表情を浮かべて自ら僕を受け入れ、深く、淫らなキスを交わし始めた。
翔平の目の前で、彼女は完全な「僕の所有物」としての顔をこれでもかと見せつけたのだ。
「……っ!」
翔平の顔が、怒りから一転、奇妙なものへと変化していく。それは嫉妬でも殺意でもなく、どういうわけか、泥沼に沈んでいく僕たちを見るような哀れみの表情だった。
彼はギリッと奥歯を噛み締め、僕たちのキスの間に割って入るように声を張り上げた。
「いい加減にしろ司!」
翔平の叫びが、防音の行き届いた個室の空気に、ひび割れた亀裂を入れる。寝取り返された彼は椅子を蹴るようにして立ち上がり、テーブルに両手をついて、僕と、僕の腕の中にいる愛莉須を凝視していた。
その目は充血し、正義感と屈辱、そして隠しきれない独占欲が混ざり合った、実に醜く、そして美しい色に染まっていた。




