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第30話 カフェ後 翔平視点

 築古の狭いワンKアパート。換気扇から微かに隣人の生活臭が漂う薄暗い部屋で、俺、熱田あつた翔平しょうへいは、万年床の上に仰向けに転がっていた。


 昼間のカフェでの光景が、瞼の裏に焼き付いて離れない。薄手の白いカッターシャツの脇の隙間から覗いた、生々しい白い肌。そして、その奥で自己主張していた漆黒のブラジャーの線。

 俺たちはつかさの目を盗んで、パフェの銀色のスプーンを介して間接的にキスを交わしたのだ。


 彼女の甘い匂いと、艶やかな唇の動きを思い出しながら、俺は荒い息を吐いて下半身を露出させて自らを慰めていた。


「っ……愛莉須ありす……」


 天井の安っぽい照明を見つめながら果てた瞬間、急激に虚無感が押し寄せてきた。こんな薄汚い部屋で、一人で妄想にふけっている自分の惨めさ。

 どうしてあんな神々しい女神が、人間の心を「数字」としてしか見ない、冷徹な機械のような男の所有物でいなければならないのか。自己嫌悪は、やがて司に対する激しい苛立ちへと形を変えていった。


 俺は放り出していたスマートフォンを手に取り、画面をタップした。


『今日はありがとう。さっき司があんなこと言ってたけど、愛莉須さんは「数字」なんかじゃない。俺はちゃんと、一人の女性として見てるから。無理すんなよ』


 送信ボタンを押す。すぐに「既読」の文字がついた。


 しかし、待てど暮らせど返信の吹き出しは現れない。


 数分が経過し、俺は苛立ちながら何度もスマートフォンの画面を点灯させては消した。司に見つかったのではないか。それとも、俺の言葉が重すぎたのだろうか。

 十数分後、ようやく画面が震えた。


『ありがとうございます、翔平さん。あんな風に私の心に触れてくれる言葉、初めて言われました……。司さんには絶対に秘密ですよ?二人だけの内緒が増えていくの、少し怖いけど、でも嬉しいです』


「……返信おっせえよ」


 俺は暗い部屋の中で一人ツッコミを入れながらも、口元が緩むのを抑えきれなかった。嬉しいのか? そうだろう、そうだろう。司のような冷血漢には、彼女の本当の寂しさなど永遠に理解できない。俺だけが、彼女の「心」に触れることができる唯一の男なのだ。その傲慢な選民意識が、俺の胸を満たしていった。


 +++


 翌日の昼休み。職場の休憩スペースで弁当をかき込んでいると、司からメッセージが届いた。


『昨日はお疲れ。お前、顔が疲れ気味だったから帰りの電車で寝過ごさなかったか?(笑)近いうちに、今度は近所の美味い居酒屋行こうぜ。愛莉須もまたお前と話したがってる』


 画面を見つめる俺の顔が険しくなる。「寝過ごさなかったか?(笑)」だと? 地方から出てきたばかりの田舎者扱い。どこまでも俺を下に見て、安全な高みから薄ら笑いを浮かべているのが目に見えるようだ。


『別に寝過ごしてねーよ。居酒屋は了解。予定わかったら送れ』


 俺は短く冷淡な返信を送り、スマートフォンを乱暴にテーブルに置いた。

 何が分析だ、何がデータの一元管理だ。お前は、自分の妻が俺に向けている熱も、夫に嫌気をさしている本心も、何も分かっていないくせに。


 +++


 それから数日後の深夜、零時十五分。

 まどろみかけていた俺の枕元で、スマートフォンが短く震動した。愛莉須さんからだった。

 開いた画面に、一枚の写真が添付されている。


 暗いリビングの中で、一箇所だけ淡い光を放つアロマキャンドル。その奥に、緩いガウンを羽織った愛莉須さんの姿が写っていた。はだけた胸元から、白く滑らかなデコルテと深い谷間が無防備に覗いている。


 さらに俺の目を釘付けにしたのは、彼女の背景にあるソファーに、司のものと思われる仕立ての良いジャケットが、わざとらしく脱ぎ捨てられて写り込んでいることだった。


『司さんはさっき寝ちゃいました。……今、一人でアロマを焚いてます。翔平さんに嗅いでもらった時のこと思い出してました。なんだか、あの時の翔平さんの熱い視線が、今も肌に残っているみたいで……眠れません』


 ドクン、と心臓が跳ね上がり、下半身に一気に血が巡った。

 夫がすぐそばの寝室で眠っているというのに、こんな淫らな写真を他の男に送ってくる。その圧倒的な背徳感が、俺の理性を焼き尽くしていく。


『俺も、あの時の匂いと愛莉須さんの顔が離れない。司が寝てるなら、もっと話したい。……司は、愛莉須さんのこういう綺麗な瞬間を、ちゃんと見てるのか?』


 震える指でそう返信すると、すぐに答えが返ってきた。


『見てくれません。あの人は、私が望むことじゃなくて、自分が管理しやすい私でいることしか興味がないんです。……翔平さんの前だけでいいから、本当の私をさらけ出したい』


 俺は息を呑んだ。「翔平さんの前だけでいいから」。その言葉が、俺の中の正義感と保護欲を限界まで引き出した。司は、彼女を自分の人生のアクセサリーとしか思っていないモラハラ野郎だ。あんな悪魔の檻から彼女を救い出せるのは、この世界で俺しかいない。


 +++


 居酒屋の約束の前日。

 司から、いけしゃあしゃあとメッセージが届いた。


『明日の居酒屋、19時に予約したぞ!お前の昇進祝いのさらなる延長戦だ、パーッと飲もう。愛莉須も「翔平さんに会うから」って、新しい服を選んでたぞ。楽しみだな』


 俺の眉間にシワが寄る。

「愛莉須」と呼び捨てにするな。お前の所有物のような顔をするな。お前に彼女の心の何が分かるというんだ。


『了解。19時な』


 画面を見つめながら、俺は冷たく笑った。

 明日、お前がどれだけ無能な夫であるか、俺が暴露して思い知らせてやるよ。


 +++


 そして当日、夕方。

 仕事を終えてオフィスを出た直後、愛莉須さんからメッセージが届いた。


『今日、司さんの前では、いつもの「仲の良い親友の奥さん」として振る舞いますね。でも、机の下で、私の気持ちは翔平さんの方を向いてます。……私を、あの人の支配から助けてくれますか?』


 俺は立ち止まり、夕暮れの空を見上げた。


 彼女の『内緒』と『あなただけ』という言葉が、俺の胸に火をつけた。冷徹な司には決して届かない彼女の心の叫びを、受け止められるのは俺しかいない。あいつの檻から彼女を救い出せるのは、この世界で俺ただ一人なんだという、熱い使命感が全身を突き抜けた。


『わかってる。俺が必ず何とかする。今日は司の思い通りにはさせない。愛莉須さんは、俺だけを見てればいいから』


 力強く文字を打ち込み、送信する。

 待っていろ、愛莉須さん。俺が必ず、あの支配者の手から君を助け出してやる。俺は確固たる決意を胸に秘め、ネオンが灯り始めた夜の街へと力強く足を踏み出した。

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