第29話 カフェ後 愛莉須視点
夜の帳が下りたタワーマンションの静寂なリビング。
間接照明の薄明かりの中、パジャマ姿で寝室から出てきた私を、司が冷ややかな声で呼び止めた。彼の手元には、一枚のレシートが置かれていた。
「愛莉須。これはなんだ?」
限界まで低く、冷気を孕んだ響き。大理石のテーブルの上に置かれたのは、今日の午後、表参道のカフェで司さんが席を外した後、追加注文した時のレシートだった。そこには無機質な文字で印字がされている。
私はほんの少し肩を揺らし、怯えたような表情を作った。
「そ、それは……翔平さんが、もう少しだけ話したいって……」
「僕が仕事のトラブルで先に帰って、心底困っている時に? 君は男と二人きりで、優雅にパフェをつついていたというのか?」
司が立ち上がり、私を壁際へとじりじりと追い詰める。
完璧な「嫉妬に狂う夫」だ。私には痛いほどわかっている。彼が本気で怒っているわけではないことくらい。彼は今、あの昼下がりの時間、翔平さんの頭の中で私がどのように汚されていたかを想像して、自分自身の興奮を限界まで高めているのだ。
「違うの、司さん。ただ少し、昔の話をして……」
「黙れ」
司が強い口調で私の言葉を遮り、ドンと壁に手をついて逃げ場を塞ぐ。私はビクッと体を震わせ、彼の胸元に顔を伏せた。
「……僕という夫がいながら、他の男と楽しげに笑い合うなんて、許せるわけがないだろう」
威圧的な沈黙で私を縛り付けた後、彼はふっと力を抜き、今度は私の細い肩を壊れ物を扱うように優しく抱きしめた。
「……すまない、愛莉須。君があまりにも綺麗だから、つい嫉妬してしまったんだ。僕には君しかいないのに。……怖がらせてごめん」
見事なまでの、DV男の飴と鞭。でも、これが司の「支配」の形であり、私への極上の愛情表現。私は彼の腕の中で、「司さん……私こそごめんなさい」と従順な妻の声を漏らしながら、内心で甘い痺れを感じていた。
司が私をひょいと抱き上げ、そのまま寝室のベッドへと荒々しく押し倒す。
薄手のパジャマが乱暴に剥ぎ取られ、昼間、翔平さんの視線を釘付けにしたものとは違うが、同じ黒のナイトブラがあらわになる。
司はそれを引きちぎるような勢いで外し、私の柔らかな肌に爪を立てた。翔平さんが脳内でどれだけ私を犯そうと、現実にこの肌に触れ、奥底まで支配できるのは自分だけだという特権階級の誇示。
シルクのシーツが乱れ、私は甘い嬌声を上げる。
うつ伏せにされ、背後から深く、執拗に杭を打ち付けられる。
激しい律動の中、司が私の耳元に唇を寄せ、意図的に声を潜めて囁いた。
「ふんっ……ふんっ、愛莉須ぅ」
「ああっ、つ、司さん……なに……?」
「メロンとっ、イチゴっ、どっちがっ、旨かったんだ?」
その瞬間、私の身体は雷に打たれたようにビクンと跳ねた。
息が止まり、全身の血が逆流するような衝撃。
リビングに置かれていたあのレシートには、『パフェ』としか印字されていなかったはずだ。彼がカフェに居残っていなければ、あるいは、私の行動を盗聴か監視でもしていなければ、私たちが交換し合ったパフェのフレーバーなんて絶対に知るはずがない。
(ああ……司さん。あなたって人は……)
恐怖?絶望?違う。
私は、彼が私のすべてを完璧に監視し、掌握しているという事実に、人間離れした歓喜で全身が痙攣するのを感じた。
私が翔平さんに「モラハラだ」と嘘の相談をしていたことも、彼とパフェを交換して擬似的なキスを楽しんでいたことも、すべて司は知っていたのだ。知っていて、なおかつその私の「裏切り」の演技をデータとして処理し、歪んだ嫉妬と狂気に変換して、こんなにも激しい熱を私に注ぎ込んでいる。
なんて深く、なんて恐ろしい支配欲。
私の奥底に眠る雌の本能に、完全に火がついた。
「……あっ、ああああっ!」
私は自分から腰を高く突き出し、狂ったように司の身体を求め始めた。
「両方よっ、司さん……! もっと……もっと私を見て……! 全部、あなたのもので満たして……!」
私の裏切りすら計算済みだったという司の圧倒的な支配。手のひらの上で転がされているという事実に打ち震えながらも、私は歓喜していた。だって、先が読めないこの混沌とした舞台を創り上げた私の方が、結局は彼らより上なのだから。
私を支配しようとする司も、私を救い出そうと足掻く翔平さんも、滑稽で愛おしくてたまらない。
この極上のカオスを生み出した優越感に浸りながら、私たちは互いの狂気を貪り合うように、夜の闇の中で何度も交わり続けた。
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事後。
静寂を取り戻した寝室で、司さんは隣で心地よい寝息を立てていた。すべてを満たされ、完璧な支配を成し遂げたと信じて疑わない、無防備な寝顔。
私は火照った身体を持て余しながら、ベッドの片隅でスマートフォンを手に取った。
画面が明るくなり、通知を知らせる。
翔平さんからのメッセージだった。
『今日はありがとう。さっき司があんなこと言ってたけど、愛莉須さんは「数字」なんかじゃない。俺はちゃんと、一人の女性として見てるから。無理すんなよ』
私は暗闇の中で、クスリと笑みをこぼした。
翔平さん、本当に単純で可愛い人。昼間のカフェで私が仕掛けた罠に完全に落ち、私がモラハラに怯える悲劇の妻だと信じ込んでいる。自分だけが私を理解し、救い出せるのだという浅ましいヒーロー願望。
今日の立ち回りは完璧だったわ。あなたが私を求めて狂ってくれるおかげで、司さんの支配欲はこんなにも燃え上がり、私に最高の快感を与えてくれるのだから。
でも……。
私は文字を打ち込もうとした指を止めた。
翔平さんからのメッセージなど、今はひどく面倒だった。
私は文字を打ち込もうとした指を止め、スマートフォンをシーツの奥へと無造作に放り投げた。
私の身体には、まだ司さんが残した激しい熱と痛みが、火傷のように刻み込まれている。耳の奥では「メロンとイチゴ、どっちが旨かったんだ?」という彼の狂気に満ちた囁きがリフレインし、下腹部の疼きが全く収まる気配を見せないのだ。
私は隣で静かな寝息を立てる司さんの無防備な背中を見つめながら、シーツの中でゆっくりと、自らの秘部へと指を這わせた。
熱く濡れそぼったそこに触れた瞬間、私の脳内に、今この瞬間も私を求めて狂いそうになっているであろう翔平さんの、血走った瞳がフラッシュバックした。
『愛莉須さんは、俺がちゃんと一人の女性として見てるから』
翔平さんのあの泥臭く、真っ直ぐで不器用な情熱。
私を力ずくで檻から救い出そうとする、野蛮なまでの略奪欲。
そして同時に、私を自分だけの所有物として縛り付け、数字とデータで徹底的に嬲り、恐怖と快楽で支配しようとする司さんの冷徹なサディズム。
私は目を閉じ、指をゆっくりと動かしながら、その対極にある二つの巨大な欲望を、自分の身体の上に同時に呼び降ろした。
妄想の中で、私は二人の男の間に挟まれている。
背後からは、司さんが私の首筋を冷たく噛み千切りながら、私が逃げられないように手首をきつく拘束し、容赦のない律動で奥の奥までを徹底的に蹂躙してくる。
そして正面からは、翔平さんが「俺だけを見ろ!」と泣きそうな顔で咆哮しながら、司さんから私を奪い取ろうと、壊れるほど強く私を抱きしめ、貪るように唇や胸を塞いでくる。
「ああっ……んっ……」
現実の暗い寝室で、私は甘く濁った吐息を漏らした。
一人は私を完全に支配していると信じて私を犯し、もう一人は私を救い出したと信じて私を犯している。
冷たい氷のような狂気と、焼け焦げるような嫉妬の炎。その全く違う二つの熱が、私という器の中で激しく衝突し、ドロドロに溶け合い、底なしの混沌となって私の子宮をかき混ぜていく。
(もっとよ……二人とも、私を巡ってもっと狂ってちょうだい……!)
二人の男が、互いの存在を憎悪し、殺意をぶつけ合いながら、その実、私という底なし沼に向かって一緒に堕ちていく。
私の身体も心も、二人に同時に引き裂かれ、凌辱されている。なのに、その凄惨な状況を創り出し、彼らの魂を最も高い場所から支配し、弄んでいるのは他でもないこの私なのだ。
翔平さんの滑稽なヒロイズム。司さんの歪んだ支配欲。
その両方を一度に飲み込み、彼らの情動をエサにして肥大化していく私の中のバケモノのような欲望。この絶対的な優位性がもたらすカオスな多幸感は、どんな強いお酒よりも私の脳を真っ白に痺れさせていく。
「司さん……っ、翔平、さん……ああっ!」
私は、私を求めて殺し合う二人の幻影に同時に貫かれる錯覚に溺れながら、声を殺してシーツを強く口に咥えた。
頭の髄が溶け出すような強烈な快感が背筋を駆け抜け、私は弓なりに身体を反らせて、長く、そして深い絶頂の波へと沈んでいった。




