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第3話 ホームパーティー 愛莉須視点①

「ああ、退屈だわ」


 誰もいないリビングで、私は小さく息を吐いた。

 壁一面の巨大なガラス窓の向こうには、まだ明るさを残しつつも、徐々に煌びやかな光を灯し始めた東京の街並みが広がっている。都内の一等地にあるこの高級タワーマンションの高層階は、誰もが羨む「成功」の象徴だ。

 夫である神谷かみやつかさと結婚してからというもの、私、愛莉須ありすの生活は、何一つ不自由のない完璧なものになった。


 綺麗に整頓された部屋、高級な家具、趣味で開いている少人数のアロマ・お香教室。専業主婦として、ただ「美しく完璧な妻」でいればいい日々。


 思えば、幼い頃からそうだった。裕福な実家、周囲が羨む美貌、そして誰もが憧れるハイスペックな夫。他人が血眼になって欲しがるものは、いつも望む前に私の手の中にあった。何かを泥臭く追い求めた経験など、私には一度もないのだ。


 恵まれすぎた「特権」は、私から生きる熱を奪っていった。すべてが満たされているということは、同時にひどく退屈なことでもある。喉の渇きを知らなければ、水が甘いとは感じないように。目標や刺激がないと、生きるバイタリティーというものが湧いてこないのだ。


 子供についても、司と話し合って「三十を過ぎてからでいい」と決めている。つまり、あと数年はこの平坦で無菌室のような日常が続くということだ。


 そんな凪のような私の水面に、今日、小さな石が投げ込まれようとしている。


 司の高校時代からの友人だという、熱田あつた翔平しょうへいさん。地方の支社から中堅専門商社の本社へ栄転になり、上京してきたばかりだという。

 彼が私たちの結婚式に来ていたことはうっすらと覚えているけれど、その時は「司の友人」という背景の一部でしかなかった。


 けれど今日は違う。


 彼がどんな人間で、どれほどのポテンシャルを秘めているのか。私を楽しませてくれるだけの『遊び相手』になり得るのか、じっくりとチェックしてあげるつもりだ。

 司に嫉妬させるための都合のいい駒として使うか、それとも、ことと場合によっては私の火遊びの相手になるか。想像するだけで、胸の奥で甘い疼きが広がるのを感じた。


 ピンポーン。


 控えめなインターホンの音が、静かな部屋に響いた。

「お、来たな」

 書斎から出てきた司が、いつもの理知的で柔和な笑顔を作って玄関へ向かう。私はその背中を見送りながら、ゆったりとした薄手のニットの上にエプロンをふわりと身に着け、完璧な「控えめで可愛らしい妻」の仮面を被った。


「おー、来たな!」


 重厚な扉を開けた司の声に、外から少し上ずった声が返ってきた。


「おー、久しぶり!栄転おめでとうな」

「お邪魔します…すげえな、このタワマン」


 エントランスの豪華さに既に気圧されているのが、声の震えから手にとるようにわかる。

 私は司の背後から、三歩下がった位置に静かに歩み出た。


「いらっしゃいませ、おひさしぶりです翔平さん。結婚式以来ですね」

「あ、ああ、ご無沙汰してます。今日は突然お邪魔してすみません」

「とんでもない。さあ、どうぞ中へ」


 少しだけ首を傾げ、清楚な微笑みを浮かべて頭を下げる。その瞬間、翔平さんの目が私を捉え、微かに息を呑む気配がした。

 日に焼けた肌にがっしりとしたスポーツマン体型の彼は、洗練された司とは対極の、少し野暮ったい、泥臭い雄の匂いがした。


 いいわ。その飢えたような視線、嫌いじゃない。


「そうだこれ、上京する前にわざわざ本店まで足を運んで買ってきたんだ。司には世話になってるからな」

「わざわざ本店まで? 翔平、ありがとう。君のそういう律儀なところ、本当に尊敬するよ」

「まあ、翔平さん。そんなにお気遣いいただかなくても……ふふ、ありがとうございます」


 私は控えめに微笑みながら、司の指先がわずかに強張るのを見逃さなかった。司は羊羹が大嫌い。それを知りながら「わざわざ」と言い募る翔平さんの無神経な熱量が、たまらなく滑稽で愛おしい。無理をして感謝を述べる夫と、恩を売ったつもりで鼻を高くする友人。男たちの小さすぎるプライドが、密室の温度をじりじりと上げていくのがわかった。


 +++


 司に促され、翔平さんがリビングへと足を踏み入れる。ガラス張りの夜景を前に完全に言葉を失っている彼の背中を見つめながら、私は密かに唇の端を吊り上げた。


 ダイニングの四人掛けのテーブルに案内し、私は司の隣にちょこんと座った。翔平さんは私の正面だ。

 足元を、昨日買ったばかりのハイブランドのロゴが刻まれた首輪をつけた小型犬のテセラが、ちょこまかと走り抜けていく。


「こらテセラ、お客様の邪魔しちゃダメだろ」


 司が慣れた手つきでテセラを抱き上げる。自由奔放な子犬すら完全にコントロールしていると誇示するようなその振る舞い。翔平さんの顔に、チリチリとした劣等感の色が浮かぶのを私は見逃さなかった。


 本当に、滑稽な男たち。


 司は犬なんてちっとも好きじゃない。この子犬は、今日この場で翔平さんに「裕福で余裕のある家庭」を見せつけるためだけに、昨日ペットショップで買い漁ってきた「小道具」の一つに過ぎないのだから。

 昨日まで動画サイトの『犬の正しい抱き方講座』を血眼になって見ていたくせに、よくもまああんな涼しい顔ができるものだ。

 私は、必死にマウントを取る夫と、それにまんまと気圧される友人を前に、静かに微笑みを保ち続けた。


 話題は自然と、彼らの仕事の話に移っていった。


「いやあ、地方での営業はマジで地面を這いずり回っていたようだったよ。毎日靴底減らして、頭下げて、とにかく結果だけ求めて走ってきた。それでやっと、本社行きの切符を勝ち取ったんだ」


 身振り手振りを交え、自分を奮い立たせるように熱く語る翔平さん。泥臭く、直情的に欲望を追い求めるその姿は、ある意味で滑稽でもあり、可愛らしくもあった。


「僕のコンサル仕事はデータが全てだからな。結局、人間も数字の束だよ」


 高級なグラスを傾けながら、司が一切の熱を持たない声で冷酷に返す。

 ああ、まただ。私は心の中でくすくすと笑った。

 司のこういうところ、本当に性格が悪い。翔平さんの必死の努力を、安全な高みから「ただのデータ」として切り捨て、格差を見せつけている。翔平さんの心の中で、コンプレックスという名の黒い泥が膨張していくのが、私にもはっきりと伝わってきた。


 シャンパンで乾杯を交わした後、私はタイミングを見計らって料理を取り分けた。


「これ、本当に愛莉須さんが?……信じられないくらい旨いです」


 翔平さんが目を丸くして感嘆の声を上げる。


「司さんから、今日はとても大切なご友人がいらっしゃると聞いて……。粗相のないよう、私なりに精一杯頑張って作ってみたんです。お口に合って良かったです」


 私は頬をほんのりと染め、嬉しそうに司の顔を見つめながらそう答えた。


 もちろん、嘘だ。


 テーブルに並べた色鮮やかな料理のほとんどは、午後になってからデパ地下で適当に見繕ってきた高級惣菜を、綺麗なお皿に盛り直しただけ。私が手作りしたのは、司がギリギリに帰宅してから手伝わせて作った野菜スティックのディップソースくらいのものだ。


 でも、そんなこと彼にわかるはずがない。一流の店で舌を肥やしているわけでもない、地方から出てきたばかりの彼にとっては、この空間で出されるものはすべてが「完璧な手作り」に変換されるのだ。司もまた、その嘘を暴くことはない。私たち夫婦は、この哀れな迷い子を前にして、奇妙な共犯関係にあるのだから。

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