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第27話 カフェランチ 愛莉須視点②

 張り詰めた空気の中、不意につかさのポケットの中でスマートフォンが短く震えた。

 彼は画面をひとべつすると、わざとらしく深く溜息をつき、顔を作って私たちを見た。


「……悪い。クライアントから緊急の連絡だ。戦略案の数字に不整合が見つかったらしくてね。ちょっと先に家に帰ってリモートで打合せしなきゃいけないみたいだ」


 急な仕事。本当かしら?


 私という極上の餌を盤面に残し、意図的に死角を作ることで、翔平しょうへいさんの理性を限界まで試そうとしているのかもしれない。しかしそれはどうでもいい。むしろ翔平さんとの時間を多くとれるこの状況を感謝しなくてはいけない。


「あ、ああ。仕事なら仕方ないだろ。気にするな」


「悪いな、翔平。……愛莉須、君も一緒に帰るか?」

「私は……もう少し翔平さんとお話ししていこうかしら。せっかくですし」


 翔平さんが平静を装って答えているが、そのたるんだ口角からは、内心で喜んでいるに違いない。


「そうか。君が残ってくれた方が翔平に失礼にならないから、僕としても助かるよ。翔平、また今度ゆっくり。愛莉須の相手を頼む」

「私の事は気にしないで。……翔平さん、夫がすみません」


 私は申し訳なさそうに微笑み、司を見送った。彼がテラスの外へと歩き出し、その背中が完全に見えなくなった瞬間、テーブルの上の空気が一変した。

 司という重圧が消え去り、そこには私と翔平さんだけの、濃密で危うい静寂が降りてきたのだ。


 私は司が消えた方向を一度だけ不安そうに見つめてから、ゆっくりと翔平さんの方へと向き直った。そして、ソファーの上でスッと身体を滑らせ、彼との距離を限界まで詰める。

 私の細い肩が、彼の腕に『触れそうで触れない』絶妙な距離。

 袖の無い白いカッターシャツから伸びる私の肌の熱と、首筋から立ち上る「多幸感のアロマ」が、彼の鼻腔をダイレクトに支配させる。


「ソースのレシピ、ありがとう。最高に旨かったよ」

 私は秘密の共有に喜ぶように頬を染めてみせた。

「それはよかったです。で、……翔平さん」


 私は周囲を気にするように声を潜め、すがるような上目遣いで彼を真っ直ぐに見つめた。翔平さんの息がピタリと止まる。


「昨日お伝えした通り……司さん、時々、私のことを人間だと思っていないんじゃないかって、怖くなることがあるんです。私の体調も、感情も、すべて『数字』や『データ』としてしか扱ってくれなくて。私が本当に何を望んでいるのか、あの方は一度も聞いてくださらない……」


 少しだけ声を震わせ、潤んだ瞳で訴えかける。

 私の言葉を聞いた翔平さんの顔に、見る見るうちに義憤ぎふんの色が広がっていった。


「司の野郎……あいつ、愛莉須さんのことを何も分かってねえんだな」


 司という冷徹な悪魔に虐げられ、心を摩耗させている可哀想な女神。それを救い出せるのは、あんな風に数字で世界を見ない、人間味のある情熱を持った勇者の自分だけだ。

 翔平さんの目の中で、そんな傲慢なヒーロー願望が爆発的に膨れ上がっていくのがはっきりと見えた。


「司の野郎……愛莉須さんを何だと思ってるんだ」


 翔平さんは、テーブルの下で強く拳を握りしめ、低く力強い声で言った。


「愛莉須さんは『数字』なんかじゃない。俺はちゃんと、目の前にいる一人の女性として見てる。あいつが気付けないような、君の心の傷まで全部、俺には見えるんだ。……無理すんなよ。本当に困ったときは、いつでも俺に電話してきてくれ」


 親身になって私を案じる、熱を帯びた言葉。

 ああ、本当に愛おしい。


「ありがとうございます、翔平さん。……そんな風に言っていただいたの、初めて。あの日からずっと、翔平さんのあの熱い視線が、なんだか忘れられなくて……」


 司は私を置いて席を外すことで、翔平さんをもてあそんでいるつもりだろう。でも、今この瞬間、私が翔平さんに弱みを見せ、彼が私を「救い出す」と心に誓ったことで、司の妻である私の心は、概念的に完全に翔平さんに奪い取られた形になる。


 これは肉体の交わりよりも深い、魂の譲渡――概念的な寝取られの様を模倣した。


 私は彼にだけ見せる特別な微笑みを浮かべ、少しだけ恥じらうように俯いた。

 翔平さんの目の中で、司への優越感と私への渇望が、ドロドロに溶け合って一つの狂気へと昇華していく。その圧倒的な熱量を肌で感じながら、私の内側は狂おしいほどの快感で打ち震えていた。


 +++


 重苦しい相談を終えた後、まるで憑き物が落ちたように、私たちは追加のコーヒーとパフェを注文した。

 私の前には真っ赤な宝石のようなイチゴパフェが、翔平さんの前には鮮やかなグリーンのメロンパフェが置かれた。ガラスの器に盛られたそれは、まるで私たち二人の熟れた欲望を形にしたように美しく、そしてみだらだった。


「わあ、美味しそう……。翔平さん、そのメロン、一口いただいてもいいですか?」

「もちろん。こっちも、そのイチゴ、もらっていいか?」


 私は彼がすくったメロンを、自分のスプーンを使わずに、彼の手から直接パクリとくわえ込んだ。冷たい果肉と一緒に、翔平さんの視線の熱を飲み込む。

 そして私も、自分のスプーンで掬ったイチゴを、そっと彼の口元へと運んであげた。


 銀色のスプーンを介した、濃厚な間接キス。

 それはただの食事ではなく、互いの唾液を交換し合う、擬似的な交わりの儀式だった。私たちが楽しく笑い合うたび、翔平さんの喉仏が大きく上下し、透けて見える私の黒い下着の線を飢えた獣のように凝視している。


「……旨いな」

「ふふ、翔平さんと食べると、何でも特別に感じちゃいますね」


 私のその言葉に、翔平さんは完全に自分が勝者なのだと錯覚し、至上の優越感に顔をほころばせた。

 周囲から見れば、私たちはただの楽しげな恋人同士にしか見えないだろう。司がいないこの空間で、翔平さんはこの世界の王であり、私の唯一の救世主だと思い込んでいる。


 私は、メロンの甘い果汁を舌先で転がしながら、概念的な寝取られの模倣を完成させたこの甘美な余韻にどっぷりと浸っていた。


 もし今、あの底意地の悪い夫がこの光景を見ていたなら、どう思うかしら。私が翔平さんに「モラハラに怯える妻」を完璧に演じてみせ、あまつさえこんな恋人のような甘い時間を過ごしていると知ったら。


 司さんは、自分が用意した盤面の上で、私と翔平さんを完璧にコントロールしていると信じて疑っていない。でも、本当のところ、このゲームを一番楽しんで、一番支配しているのは誰?

 翔平さんは司を出し抜いたと有頂天になり、司は翔平さんを弄んでいると優越感に浸っている。でも、彼らは二人とも、私という罠に自ら進んで飛び込んできた、ただの哀れで愛おしい獲物に過ぎないのだ。


 私は翔平さんのメロンパフェをもう一口ねだりながら、彼にだけ見える妖艶な視線を送る。

 夫の知らないところで、他の男の情熱を一身に浴び、その心を完全に手玉に取る。この絶対的な優位性がもたらす多幸感は、どんな強いお酒よりも私の脳を痺れさせていく。

 絶望と興奮の円環は、もはや二人の男の意思を離れ、私だけの指揮と混沌の下で狂おしく回り始めている。私はこの熱狂の中心で、神すらも欺く女神になったかのような、抗いがたい喜びに酔いしれていた。

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