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第26話 カフェランチ 司視点②

 僕は頃合いを見計らい、わざとらしくポケットのスマートフォンを震わせた。実際にはクライアントからの連絡など一件も入っていない。すべては、この「盤面」から一時的に僕が退場し、翔平しょうへいに偽りの解放感を与えるためのセットアップだ。


「……悪い。クライアントから緊急の連絡だ。戦略案の数字に不整合が見つかったらしくてね。ちょっと先に家に帰ってリモートで打合せしなきゃいけないみたいだ」


 僕は溜息をつき、完璧な仕事人間の顔を作った。翔平が内心で喜び叫んでいるのが、その弛んだ口角から手に取るようにわかる。


「あ、ああ。仕事なら仕方ないだろ。気にするな」


「悪いな、翔平。……愛莉須、君も一緒に帰るか?」

「私は……もう少し翔平さんとお話ししていこうかしら。せっかくですし」


「そうか。君が残ってくれた方が翔平に失礼にならないから、僕としても助かるよ。翔平、また今度ゆっくり。愛莉須の相手を頼む」

「私の事は気にしないで。……翔平さん、夫がすみません」


 愛莉須が申し訳なさそうに微笑む。僕は彼女の肩を優しく叩き、支払いだけを済ませてテラスを出た。


 +++


 店を出た僕は、足早に近くのコインパーキングに停めておいた愛車へと乗り込んだ。車内は僕だけの観測室だ。僕はすぐさまワイヤレスイヤホンを装着し、専用のアプリを起動した。

 イヤホンから流れてくるのは、愛莉須のバッグの奥底に忍ばせた「ルージュ型の盗聴器」が拾う、生々しいまでのカフェの喧騒と二人の声だ。


 愛莉須に残るか聞いた時、彼女の反応の予測は正直半々だった。しかしよく残ってくれたよ。ただ、君も僕と一緒に帰ると言った場合は別の手を使ってでも残していたけどね。


『ソースのレシピ、ありがとう。最高に旨かったよ』

『それはよかったです。で、……翔平さん』


 僕はハンドルを握る手に力を込めた。素晴らしい。彼女は、すでに翔平と連絡先を交換していたのか。

 一体いつ? そうかわかった、ホームパーティーの時に僕が翔平のコートを取りに行った時だな。僕に秘密にしたまま今まで連絡を取り合っていた。


 いいじゃないか。


 愛莉須の、湿り気を帯びた吐息のような声が耳朶みみたぶを打つ。僕が隣にいる時とは明らかに違う、庇護欲を誘うような弱々しいトーンだ。


『昨日お伝えした通り……司さん、時々、私のことを人間だと思っていないんじゃないかって、怖くなることがあるんです。私の体調も、感情も、すべて『数字』や『データ』としてしか扱ってくれなくて。私が本当に何を望んでいるのか、あの方は一度も聞いてくださらない……』


 それに僕が最も誇りにしている「俯瞰的な分析力」を、そのまま「冷酷なモラル・ハラスメント」という名の刃に変換して、翔平の胸に突き刺している。

 

『司の野郎……あいつ、愛莉須さんのことを何も分かってねえんだな』


 翔平の、義憤ぎふんに駆られた低く力強い声。僕は思わず口角を吊り上げた。お前は今、自分が悲劇のヒロインを救い出す正義の味方になったとでも思っているのか。

 翔平は必死になって愛莉須に同情し、あまつさえ『本当に困ったときはすぐに俺に電話をしてきて』とまで宣言した。僕の所有物であるはずの愛莉須の心が、概念的に奪われそうになっていく。

 

 この「概念的な寝取られ」という感覚。


 自分の支配下にあると信じていた妻が、別の男の前で自分を貶め、その男の情動を煽り立てている。その屈辱感こそが、僕の神経をじっとりと熱く、歪んだ興奮で満たしていく。

 翔平が僕への優越感を抱けば抱くほど、僕の中の「奪われている」という快楽は深度を増していくのだ。


 +++


 二人は追加のコーヒーとパフェを注文した。


『わあ、美味しそう……。翔平さん、そのメロン、一口いただいてもいいですか?』


 愛莉須の弾んだ声。二人が楽しげにパフェを交換し合い、食べ比べる音がノイズ混じりに聞こえてくる。イチゴパフェを食べる愛莉須と、メロンパフェを食べる翔平。まるでお互いの唾液を交換し合うかのような、擬似的な交わりの時間。

 

 だが、その音声を聞きながら、僕の心臓に微かな、しかし無視できない棘が刺さった。


(……愛莉須?)


 彼女の声には、僕に対する「忠誠」を前提とした演技を超えた、何か別の「熱」が混ざっているように聞こえた。少なくとも、僕は彼女がモラハラに怯えている様子など、結婚してから一度も見たことがない。

 彼女のあの言葉は、僕の制御を超えて彼女自身が暴走し始めているのか。


 翔平が彼女に溺れていく様は僕のシナリオ通りだ。だが、愛莉須までもが本気で翔平に傾いているのだとしたら……。


 支配しているつもりの盤面で、駒が自分の意志で動き始めた時に感じる、底知れない不安。僕は自らの支配欲が、微かな「嫉妬」という名の濁流に飲み込まれそうになるのを感じた。


 僕はイヤホンを乱暴に外し、エンジンをかけた。

 やりすぎたかもしれない。しかし、その焦燥感すらも、今の僕にとっては最高に贅沢な刺激だった。

 

 僕は自宅へと車を走らせた。

 翔平が手に入らない果実に狂い、愛莉須が僕の知らない秘密を抱え始めている。この歪んだ三角形の中心で、僕はさらに激しい絶望と興奮を、今夜の愛莉須にぶつけることを決意した。


(お前の本当の味を、誰が一番知っているか。……今夜、たっぷりと教え込むために)

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