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第25話 カフェランチ 翔平視点②

 つかさが放った「子供を多く授かりたい」という、あまりにも無神経で独占的な言葉が、カフェの空気に冷たい膜を張ったように感じた。

 愛莉須ありすさんのあの困ったような、助けを求めるような横顔が、俺の胸をキリキリと締め付ける。

 司はそれを「幸せな家庭の風景」として処理しているようだが、俺にはそれが、彼女という一人の女性を自分の所有物として、あるいは優れた遺伝子を残すための「器」としてしか見ていない傲慢さの表れにしか見えなかった。


 その時、司のポケットの中でスマートフォンが短く震えた。彼は眉を寄せ、画面を確認すると、わざとらしく溜息をついて俺たちを見た。


「……悪い。クライアントから緊急の連絡だ。戦略案の数字に不整合が見つかったらしくてね。ちょっと先に家に帰ってリモートで打合せしなきゃいけないみたいだ」


「あ、ああ。仕事なら仕方ないだろ。気にするな」


「悪いな、翔平。……愛莉須、君も一緒に帰るか?」

「私は……もう少し翔平さんとお話ししていこうかしら。せっかくですし」


「そうか。君が残ってくれた方が翔平に失礼にならないから、僕としても助かるよ。翔平、また今度ゆっくり。愛莉須の相手を頼む」

「私の事は気にしないで。……翔平さん、夫がすみません」


 俺は平静を装って答えたが、愛莉須さんが僕を選んでくれて内心では快哉かいさいを叫んでいた。

 司が席を立ち、テラスの外へと歩いていく。彼が背中を向け、完全に意識の外へ消えた瞬間、テーブルの上の空気が一変した。重苦しい「支配者」の重圧が消え、そこには俺と愛莉須さんだけの、濃密で危うい静寂が降りてきた。


 愛莉須さんは、司がいなくなった方向を一度だけ不安そうに見つめ、それからゆっくりと俺の方へ向き直った。その時、彼女はソファーの上でスッと身体を滑らせ、俺との距離を詰めてきた。

 ふわりと、あの「多幸感のアロマ」と彼女自身の体温が混ざり合った甘い香りが、俺の鼻腔をダイレクトに支配する。


 至近距離。

 彼女の細い肩が、俺の腕に触れるか触れないかの距離で止まる。袖の無いシャツから伸びる白い二の腕が、照明を反射して眩いほどに輝いていた。


 俺は司の目を盗んでいる優越感から、少し顔を近づけて耳打ちした。

「ソースのレシピ、ありがとう。最高に旨かったよ」


「それはよかったです。で、……翔平さん」


 愛莉須さんが小声で、吐息のように俺の名前を呼んだ。彼女は周囲を気にするように視線を落とし、それから縋るような上目遣いで俺を真っ直ぐに見つめた。


「昨日お伝えした通り……司さん、時々、私のことを人間だと思っていないんじゃないかって、怖くなることがあるんです。私の体調も、感情も、すべて『数字』や『データ』としてしか扱ってくれなくて。私が本当に何を望んでいるのか、あの方は一度も聞いてくださらない……」


 彼女の瞳に、微かな涙の膜が張る。その清楚な美しさが、悲しみに歪む様を見て、俺の中のヒーロー願望が爆発的に膨れ上がった。

 司という冷徹な支配者に虐げられ、心を摩耗させている女神。それを救い出せるのは、あいつのように数字で世界を見ない、他人思いで情熱を持った俺だけだ。


 俺は、彼女を包み込む漆黒の下着が、彼女の内に秘めた「叫び」のように思えてならなかった。清楚な外見で夫に従順な妻を演じながら、その奥底では、誰かにこの情動を引きずり出してほしいと願っているのではないか。


「司の野郎……あいつ、愛莉須さんのことを何も分かってねえんだな」


 俺は、自分でも驚くほど低く力強い声で言った。


「愛莉須さんは『数字』なんかじゃない。俺はちゃんと、目の前にいる一人の女性として見てる。あいつが気付けないような、君の心の傷まで全部、俺には見えるんだ。……無理すんなよ。本当に困ったときは、いつでも俺に電話してきてくれ」


 俺の言葉に、愛莉須さんはハッとしたように目を見開き、それから愛おしそうに目を細めて微笑んだ。彼女の細い指先が、テーブルの下で俺の膝に一瞬だけ触れ、すぐに離れた。その熱い感触が、俺の全身を電流のように駆け抜ける。


「ありがとうございます、翔平さん。……そんな風に言っていただいたの、初めて。あの日からずっと、翔平さんのあの熱い視線が、なんだか忘れられなくて……」


 彼女の頬が朱に染まる。俺は、司を出し抜いて彼女の「本当の心」を奪ったという、猛烈な優越感に酔いしれた。あいつが書斎で数字を弄っている間も、今この瞬間も、彼女の心は確実に俺のものになっている。これは、肉体の裏切りを超えた、魂の略奪だ。


 +++


 話が尽きない俺たちは、追加の飲み物と一緒に、二種類のパフェを注文した。愛莉須さんは真っ赤な宝石のようなイチゴパフェ、俺は鮮やかなグリーンのメロンパフェだ。

 テーブルに並んだ二つのパフェは、まるでお互いの欲望を形にしたように美しく、そして淫らだった。


「わあ、美味しそう……。翔平さん、そのメロン、一口いただいてもいいですか?」

「もちろん。こっちも、そのイチゴ、もらっていいか?」


 俺たちは自然な動作で、スプーンですくい取った果実を交換し合った。彼女が俺のスプーンを咥え、唇をすぼめてメロンを飲み込む。その艶やかな唇の動きに、俺は自分の身体が再び熱くなるのを感じた。


 俺もまた、彼女が差し出したスプーンからイチゴを受け取る。口の中に広がる甘酸っぱい果汁は、彼女と間接的にキスをして、背徳的で甘美な味がした。


 周囲から見れば、俺たちはただの楽しげな恋人同士にしか見えないだろう。司がいないこの短い時間、俺はこの世界の王であり、彼女の唯一の守護者だった。

 愛莉須さんは、イチゴを頬張りながら、幸せそうに目を細めて笑った。その屈託のない笑顔の裏に、司に見せることのない「女」の悦びが透けて見える。俺は彼女のイチゴパフェのクリームを指で掬い、自分の口へと運んだ。


「……旨いな」

「ふふ、翔平さんと食べると、何でも特別に感じちゃいますね」


 愛莉須さんのその言葉が、俺の心に決定的な勝利の旗を立てた。

 司、お前の負けだ。

 お前がどれだけ高価な時計を買い、タワーマンションから下界を見下ろそうと、お前の隣にいるこの女性の「核心」に触れているのは、今、この俺だ。お前が管理しきれなかった彼女の熱は、すべて俺のこの手が受け止めてやる。


 俺は、彼女の漆黒のブラ線が透ける白い肩を見つめながら、脳内で彼女を何度も抱きしめた。

 次に司と会った時、俺はこれまで以上に傲慢で、余裕に満ちた笑顔で迎えてやれるだろう。なぜなら、俺はもう「持たざる者」ではないからだ。俺は、支配者であるあいつから、最も価値ある「愛」という名の宝石を、情熱的に、しかし鮮やかに奪い取ったのだから。


 愛莉須さんは、パフェの底に残ったソースをゆっくりと掬い上げながら、俺にだけ見える妖艶な視線を送ってきた。


 絶望と興奮の円環が、さらにその速度を上げていく。

 俺はもう、この地獄のような快楽から逃げ出すつもりなんて、さらさらなかった。

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