表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/40

第20話 メッセージアプリ 司視点

 平日の昼下がり。遮光カーテンを閉め切った寝室には、シルクのシーツが擦れる微かな音と、乱れた呼吸だけが響いていた。


 時間を自由にコントロールできる僕は、下界の人間たちがせかせかと働いているこの時間に、こうして妻とベッドでまどろむ優越感を味わっている。

 僕は愛莉須の白く滑らかな肩に顔を埋め、大きく息を吐き出した。僕の腕の中で、彼女は熱を帯びた身体をゆっくりと沈め、甘い吐息を漏らしながら微睡まどろみの海へと漂い始めている。


 ホームパーティーの夜、熱田あつた翔平しょうへいという泥臭い獣がこの部屋に持ち込んだ「嫉妬」と「劣情」。

 それは、僕たちの夫婦生活において、この上なく極上なスパイスとして機能した。


 僕が意図的に作った死角で、彼が愛莉須の胸元に血走った視線を注ぎ、その匂いをむさぼり、頭の中で彼女を無残に凌辱していたという事実。

 僕の不可侵の領域である妻が、親友の薄汚い妄想によって汚されているという倒錯した快感は、あの夜の僕をこれまでにないほどの高みへと連れて行ってくれた。

 彼の劣等感を養分にして、僕の支配欲は爆発的に満たされたのだ。


 しかし、それから数日が経過し、僕の心の中にじわりと「退屈」が戻りつつあった。

 目の前で微睡む愛莉須の美しさは完璧だ。従順で、純真で、僕が触れれば的確に、そして愛らしく応えてくれる。だが、完璧であるが故に、そこに「予測不能な熱」がない。

 翔平という劇薬がもたらした、あのヒリヒリとするような背徳感の余韻が薄れ、また以前のような「平凡で上質なセックス」へと回帰してしまっている。


 僕はもっと強い刺激が欲しかった。

 僕の盤面で、無力な駒が必死に足掻あがき、手に入らない果実に絶望しながら狂っていく様を、この特等席で眺めていたい。僕の所有物である愛莉須が、他人の理性を完膚なきまでに破壊する光景を、もう一度、いや、何度でも味わいたい。


 僕は愛莉須の艶やかな黒髪を優しく撫でながら、ベッドサイドのテーブルからスマートフォンを手に取った。時計はちょうど、一般的な会社員の昼休みを回ったところだ。

 画面をタップし、メッセージアプリを開く。宛先は、言うまでもなく絶賛お気に入り駒の翔平だ。


『お疲れ。仕事はどうだ? そろそろ東京の水にも慣れた頃か?』

『近いうちに、今度は近所の美味いカフェ行こうぜ。お前の昇進祝いの続きだ。』


 文字を打ち込み、送信ボタンを押す。

 文字面だけを見れば、地方から出てきた親友を気遣う、余裕のある東京の成功者の言葉だ。しかし、僕と彼の間に横たわる絶対的な格差を考えれば、これがどれほど残酷なマウンティングであるかは明白だった。

 『近所の美味いカフェ』。タワーマンションに住む僕の「近所」が、どういう価格帯と客層の店か。彼に、僕の日常である洗練された空間を歩かせ、またしても圧倒的な力の差を見せつけてやるための招待状だ。


 送信して数秒後、画面の横に「既読」の文字がついた。

 しかし、待てど暮らせど返信の吹き出しは現れない。


 僕は暗い寝室で、口角を微かに吊り上げた。

 迷っているな、翔平。


 お前の薄暗く狭いアパートの様子が、行ったことも無いのにまるで手に取るようにわかる。スマートフォンを握りしめ、顔をしかめて苛立っているのだろう。

 僕の誘いに乗れば、またあのホームパーティーの夜のように、僕のペースに巻き込まれ、惨めな思いをすることになる。

 僕による「上からの施し」を受けるのは、お前の無駄に高い泥臭いプライドが許さないはずだ。

 かといって、断れば「逃げた」と解釈される恐怖がある。僕の顔を直視できる精神状態ではないのだろう。


 プライド、恐怖、背徳感。それらが複雑に絡み合い、お前の単細胞な思考回路をショートさせている。

 僕が送ったたった二行の文字列が、お前の脳内でどれほどのバグを引き起こしているか。それを想像するだけでも、僕の心は心地よい優越感で満たされていく。この分析こそが、コンサルタントとしての僕の真骨頂だ。他人の感情をデータとして処理し、意のままに操る快感。


「……つかささん?」


 不意に、隣でシーツが擦れる音がして、愛莉須がとろんとした目で僕を見上げた。まだ行為の熱を微かに残した、甘く潤んだ瞳。その圧倒的な「雌」の気配が、僕の思考を盤面から現実へと引き戻す。


「ごめん、起こしたかい?」

「ううん……お仕事ですか?」

「いや、翔平にメッセージを送っていたんだ」


 僕はスマートフォンの画面を伏せ、愛莉須の頬にそっと手を添えた。


「今度の週末、翔平を誘って二人でお茶でもしようかと思ってね。彼、上京したばかりでまだ寂しいだろうし、僕たちの家の近所の美味いカフェでも案内してやろうかと。愛莉須も一緒にどうだい?」


「もちろんいいですわ」


 愛莉須は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの完璧な妻の微笑みを浮かべた。


「翔平さん、お仕事が忙しそうで少し心配だったんです。私でよければ、喜んでご一緒します」


 僕の提案を、何一つ疑うことなく受け入れる純真な妻。彼女は、僕がこの食事会で翔平をどのようにもてあそび、絶望の底に突き落とそうとしているかなど、微塵も気づいていない。ただ夫の交友関係を大切にしようとする、健気な姿。


 それでいい。君は何も知らずに、ただその圧倒的な魅力で、僕の用意した舞台の上で微笑んでいればいいんだ。


「ありがとう、愛莉須。翔平もきっと喜ぶよ」


 僕は彼女の額に軽くキスを落とし、再びスマートフォンを手に取った。

 いまだに返信してこない翔平のトークルームを開き、追撃の一手を打ち込む。


『愛莉須もまたお前と話したがってるから、三人でどうだ?』


 送信。

 画面を見つめる僕の心臓が、期待と嗜虐心しぎゃくしんで早鐘を打つ。

 さあ、どうする? 僕と会うのは嫌だろうが、君の頭の中を四六時中支配しているであろうあの「愛莉須」が来るんだぞ。

 あの夜、君の理性を焼き尽くしたに違いない甘い匂いと、赤い下着の記憶。それが目の前にぶら下げられた時、君のその薄っぺらい理性は、果たして欲望に勝てるかな?


 ピコン。

 画面が光り、たった数秒で返信の吹き出しが浮かび上がった。


『了解。予定わかったら送れ』


「……っ、くくっ、あはははは!」


 僕はたまらず、声を殺して笑い出した。肩が震え、腹の底から黒い愉悦が込み上げてくる。

 なんという単純な男だ。あんなにも長い時間、安いプライドと葛藤して返信を渋っていたというのに、「愛莉須」という名前を出された瞬間に、すべての理性を放り投げて食いついてきた。まるで、飢えた野良犬に極上の肉の切れ端を投げてやったかのようだ。


「司さん? どうしたの?」

「いや、なんでもないよ。翔平が、すごく楽しみにしてるみたいだ」


 怪訝そうな顔をする愛莉須の頭を撫でながら、僕は寝室の天井を見上げた。

 週末のカフェ。そこは、僕が君のために用意した次なる処刑場だ。

 君が愛莉須に抱くその汚らわしい劣情を、僕が完璧な盤面の上でどれほど惨めにへし折ってやるか。

 もっと僕を楽しませろ、翔平。君の絶望と引き換えに、僕はこの退屈な日常から抜け出し、再び至高の快楽を手に入れるのだから。


 僕はスマートフォンの画面を消し、冷徹な支配の喜びに打ち震えながら、ゆっくりと目を閉じてその時を待ちわび、ほくそ笑んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ