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第19話 メッセージアプリ 翔平視点

 ホームパーティーから数日が過ぎた。

 時計の針は二十二時を回っている。


 地方から上京してきたばかりの俺の城、築古の狭い一Kアパート。換気扇から微かに漂う隣人の油っこい生活臭を嗅ぎながら、俺は座卓代わりにしている段ボール箱の上に、コンビニのプラスチック容器を広げていた。


 本社での営業の仕事は、地方で靴底を減らすような泥臭い飛び込み営業とは勝手が違った。慣れない社内政治や無駄な書類仕事ばかりで、ひどく神経をすり減らされる毎日だ。

 クタクタになって帰宅し、冷めた唐揚げ弁当を口に運ぶ。パサパサとした肉の食感が、今の俺の惨めな現実を象徴しているようで味気なかった。


 あの煌びやかな高層タワーマンションでの夜が、まるで幻だったかのように思える。だが、俺の脳裏には愛莉須ありすさんの姿が、鮮烈な色彩を持ってこびりついて離れなかった。

 ふとした瞬間に、あの甘い匂いや、薄手のニットから覗く赤い下着の記憶が蘇り、俺のなけなしの理性を激しく揺さぶるのだ。


 ふと、無造作に放り出していたスマートフォンの画面が明るくなり、短い振動音が鳴った。

 画面に表示された名前に、俺は箸を止めた。


『神谷愛莉須』


 心臓がドクンと跳ねる。つかさの目を盗んで交換した、俺と彼女だけの秘密の関係。あの日、レシピが送られてきて以来の通知だった。


『翔平さん、夜分遅くにごめんなさい。お仕事お疲れ様です。

 この前お渡ししたソースのレシピ、もう試してみましたか?一人暮らしだとお野菜不足になりがちなので、少し心配になってしまって……』


 丁寧で控えめなメッセージ。だが、ただの気遣いという大義名分を隠れ蓑にしたような文字の羅列からすら、彼女の甘い体温が伝わってくるような気がした。俺は慌てて口の中の唐揚げを飲み込み、脂のついた指をティッシュで乱暴に拭いながら、震える手でスマートフォンを操作した。


『気にかけてくれてありがとう。今日も残業終わって、今コンビニ飯食ってるところ…。休みの日に絶対作ってみる!』


 少しくだけた、しかし弱音を吐くような文章を送る。既読はすぐについた。


『お疲れ様です。コンビニ弁当ばかりじゃダメですよ?私は今、例のアロマを焚きながらリラックスしてました (´ω`)』


 その直後、一枚の写真が送られてきた。

 俺は息を呑んだ。


 暗い部屋の中で、炎を揺らしているお洒落なアロマキャンドルが主役の構図。だが、俺の目はキャンドルなどには向かわなかった。その後ろの背景に、お風呂上がりなのだろうか、薄手のルームウェアを着た愛莉須さんの姿が絶妙に見切れていたのだ。


 少し火照ったような白い肌。生々しい鎖骨のラインと、華奢な首筋。あの赤い下着を隠していた清楚なニットとは違う、家の中だけで見せる無防備な姿だった。


 意図して写り込ませたのか、それとも偶然なのか。


 どちらにせよ、その一枚の写真は、俺の狭く薄暗いアパートの空間を一瞬にして彼女の匂いで満たしていくような錯覚を引き起こした。


 脳内が沸騰する。

 パーティーの夜、屈み込んだ彼女の胸元からこぼれ落ちそうだった双丘。俺の鼻先に突き出された、あの細い手首。むせ返るような体温と混ざり合った、理性を狂わせる多幸感の香り。


 俺は画面に映る彼女の白い肌を、まるで直接触れるかのように親指でなぞった。


 既読をつけてから、数分が経過してしまった。返信の文面が思い浮かばない。いや、頭の中が下劣な妄想で埋め尽くされて、まともな思考ができなかったのだ。


『お、お疲れ。そのアロマって、あの時嗅がせてくれたやつ?』


 なんとか平静を装った短い文章を絞り出し、送信ボタンを押す。


『はい、多幸感のブレンドです。あの時、翔平さんのお顔がすごく近くて…少しドキッとしちゃいました(灬ºωº灬)』


 心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく鳴った。

 『ドキッとしちゃいました』。彼女も俺を意識していたのか? あの時、俺の剥き出しの欲望を感じ取りながら、それでも俺を拒絶しなかったということか。


『夫の前だったのに、ごめんなさい』


 トドメの一撃だった。

 『夫の前だったのに』。その言葉が持つ圧倒的な背徳感が、俺の中の司に対する劣等感と、彼女への渇望に一気に火をつけた。

 司がどれだけ高みから俺を見下ろそうと、彼女は俺の情熱に当てられ、司の目を盗んで心と身体を揺らしていたのだ。俺は司を出し抜いている。あいつが計算ずくで支配しているつもりの盤面で、俺は確実に彼女の「女」の部分を引きずり出している。


『いや、俺の方こそ…。すごくいい匂いだった』


 俺は荒くなった呼吸を必死に抑えながら、それだけを返すのが精一杯だった。ズボンの下は、すでに痛いほどの熱と硬さを帯びていた。

 この安っぽいアパートの天井を見上げながら、俺は彼女の火照った鎖骨を思い出し、司の腕の中にいるはずの彼女を、俺の再加熱された情熱で犯し、奪い去る妄想にどっぷりと浸かった。愛莉須という女の存在が、俺の日常を根底から侵食し、狂わせていくのを感じながら。


 +++


 それから数日後のことだった。

 昼休みにスマートフォンを確認すると、今度は司からのメッセージが届いていた。


『お疲れ。仕事はどうだ? そろそろ東京の水にも慣れた頃か?』


 いつもの、余裕たっぷりで上から目線の文章だ。俺は舌打ちをして画面をスクロールした。


『近いうちに、今度は近所の美味いカフェ行こうぜ。お前の昇進祝いの続きだ。』


 文字面だけを見れば、親友を気遣う優しい言葉だ。だが、俺にはその裏に隠された司の冷徹な見下ろしが手に取るようにわかった。


 『美味いカフェ』


 田舎者の俺に、僕が都会の洗練された店を教えてあげる、だとでも言いたいのだろう。俺のコンプレックスを的確に抉りながら、自分の寛大さを誇示する。俺を自分の盤面上の哀れな駒として扱い、楽しんでいるのが見え透いていた。


 あいつはまだ気づいていない。俺が愛莉須さんと秘密を共有し、彼女の心を揺さぶっているということに。

 今、司に会えば、俺はあのパーティーの時のように、またしてもあいつのペースに巻き込まれ、劣等感の泥沼に引きずり込まれるかもしれない。あいつのあの、目の奥が笑っていない理知的な顔を見るだけで、虫酸が走る。


 だが、断れば俺が逃げたと思われるのではないか。


 俺はスマートフォンの画面を睨みつけながら、苛立ちと迷いの狭間で揺れ動いていた。

 行くべきか、断るべきか。

 司のマウントの餌食になるのはごめんだが、あの時あれほど俺を意識していた愛莉須さんの顔が浮かぶ。俺は、愛莉須さんとの背徳的な秘密を抱えたまま、司との歪んだ友情の形にどう立ち向かうべきか、答えを出せないままスマートフォンの画面を伏せた。

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