第18話 ホームパーティー 愛莉須視点⑥
大理石の廊下を抜け、私たちは玄関へと向かった。
「そういえば、翔平のコート、奥の部屋にかけてあるから取ってくるわ。ちょっと待っててくれ」
司がそう言うと、踵を返して長い廊下の奥へと消えていった。
玄関に取り残されたのは、私と翔平さんの二人だけ。
これは司が計算して用意した「隙」などではない。完璧主義者の彼にしては珍しい、無防備な偶然がもたらした空白。
私の中の「何か」が告げている。
これは神――あるいはこの三人が演じる愛憎劇を、より残酷で甘美な高みへと押し上げるために、天が与えた特別な時間なのだと。たった一晩のホームパーティーで、この哀れな迷い子を壊し尽くして手放してしまうには、あまりに惜しすぎる。
(司さん、ごめんなさい。でも、ここからは私一人の楽しみよ)
このまま彼を私の情熱で溶かし、恋に落ちてしまうのか。それとも、司さんの歪んだ支配欲をさらに燃え上がらせるための、上質な燃料として彼を使い潰すのか。それはこれからゆっくりと考えればいい。
どちらに転んでも、私にとっては至上の娯楽。今はただ、この哀れな「駒」と繋がっておくだけ。
「あの、翔平さん……」
私はふいに、指先で、彼のスーツの袖をトントンと軽く引いた。
振り返った彼に向け、私は司が消えた廊下の方をチラリと確認してから、スッと自分のスマートフォンを彼の目の前に差し出した。画面に表示させたのは、連絡先交換のQRコード。
「今日のディップソースのレシピ、後で送りますね」
私は吐息のような小声で囁き、彼を上目遣いで真っ直ぐに見つめた。
「夫には、内緒ですよ?」
翔平さんの息が止まったのがわかった。彼の瞳孔が開き、心臓の激しい鼓動が空気を伝ってこちらまで響いてきそうだ。彼は慌てて自分のスマホを取り出し、震える手でカメラを起動して私のQRコードを読み込んだ。
司が「絶対に教えない」と嘲笑ったものを、私が彼にだけこっそりと与える。司の絶対的な支配領域であるこの玄関で、司の目を盗んで私と「二人だけの秘密」を共有したのだ。
翔平さんの目の中に、司を出し抜いたという強烈な背徳感と、あざとい優越感が爆発的に膨れ上がっていくのがはっきりと見えた。彼はこれで、完全に私の虜になった。私という底なし沼に、自ら首まで浸かったのだ。
「待たせたな。外は冷えるから、気をつけて帰れよ」
「お、おう。今日はごちそうさん。またな」
コートを持って戻ってきた司に見送られ、翔平さんがエレベーターに乗り込む。彼は司と目を合わせることすらできず、ぎこちない動きで扉の方を向いた。
「お疲れ様です、翔平さん。また遊びにいらしてくださいね」
私は司の背後から、控えめに声をかけた。
そして、ゆっくりと閉まりゆく金属の扉の隙間から、最後に彼とだけ視線を合わせた。
私は彼にだけ見えるように、蠱惑的で、それでいて彼の浅ましい欲望の全てを見透かしているかのような妖艶な微笑みを投げかけた。
扉が完全に閉まる瞬間、翔平さんの顔が限界まで紅潮し、狂気のような熱が宿るのを見届けた。
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ガシャン、と重厚な金属音が響き、玄関に静寂が戻った。
「……終わったね、司さん」
私はいつもの「完璧な妻」の声を捨て、甘く、それでいて挑戦的な声音で囁いた。
その瞬間、司が獣のような勢いで振り返り、私の身体を玄関の壁へと激しく押し付けた。
「うっ……」
私の口から、短い吐息が漏れる。背中を打つ大理石の冷たさと、司の身体から発せられる異常なまでの熱量が、私の全身をゾクゾクと震わせた。
「最高の良妻だったよ、愛莉須」
司の声は低く掠れ、理知的な仮面の下に隠されていた剥き出しの支配欲と加虐心が、暗い炎のように燃え盛っていた。
「ど、どうしたの急に? でも、なんだか今日の司さん、いつもより積極的ね」
私は戸惑ったように目を丸くし、彼の胸元で小首を傾げてみせた。司の異常な熱量に驚きながらも、夫を愛する妻として優しく受け入れようとする無防備な態度。私がこうして純真に振る舞えば振る舞うほど、彼の歪んだ興奮は高まっていく。
司は私が何一つ気づいていないと信じている。自分が意図的に死角を作ったあの数分間、翔平さんの脳内で私がどれほど汚らわしく犯されていたかを想像し、その「寝取られている」という倒錯した感覚に、司自身が狂わされているのだ。
「ふふ、愛莉須があんまり綺麗だったから」
「もう……変な司さん。翔平さんも帰ったばかりなのに……」
恥じらうように頬を染め、司の肩に顔を埋める。その瞬間、司の大きな手が私の薄手のニットにかかり、乱暴に上へと引き上げられた。
露わになる、狙って装着した毒々しいほどに扇情的な赤いブラジャー。
翔平さんが至近距離で覗き込み、理性を失ったこの「赤」。司はそれを食い入るように見つめ、その上に自分の手を荒々しく這わせた。
「愛莉須……今日は、いつもよりずっと綺麗だよ」
「んっ……司さん……」
司が私の首筋に深く唇を落とし、強い力で赤いブラジャーのホックを外した。
翔平さんがどれほど願っても決して届かない私の体を、無造作に暴き出し、蹂躙する。私の柔らかな肌に自分の痕跡を刻み込むことで、司は親友に対する圧倒的な優越感を得ようとしている。この、いつもよりも増した熱量を待っていた。
「ああっ……司さん、今日、ほんとに……激しい……」
私は甘い声を上げ、司の背中にしがみついた。大理石の冷たい床の上で、司はいつもより強く、執拗に私を求めた。翔平さんの汚らわしい視線がこびりついているであろうこの肌を、自分という存在で完全に上書きするかのように。
私はその激しい動きに翻弄されながらも、内心では冷ややかに、そして狂おしいほどの快感に打ち震えていた。
自分の所有物である妻が他の男の劣情に晒されることに欲情する夫。私を獲物として差し出し、友人を支配しているつもりの司。
でも、本当に支配しているのは誰?
私を求めて必死に腰を振る司の背中を抱きしめながら、私は心の中で囁いた。
(もっとよ、司さん。もっと激しく私を求めないと、あの泥臭い男に連れ去られちゃうわよ……?)
翔平さんの剥き出しの渇望と、司の歪んだ嫉妬と支配欲。その二つの巨大なエネルギーが、私という器に注ぎ込まれ、激しくかき混ぜられていく。私はこの絶望と興奮の円環の中心で、自分でも恐ろしいほどの濡れた疼きを下腹部に感じながら、最高に狂った多幸感に身を浸していた。
「司さん……愛してるわ……」
絶頂の最中、私が耳元で囁いたその言葉に、司はすべてを満たされたような低く獣じみた咆哮を上げ、私の奥深くへと自らの熱を放った。
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事後。
静寂を取り戻した寝室のベッドの中。
隣では、めずらしく二回戦を終え、すべてを満たされ、心地よい疲労感の中で司が深い眠りについていた。自分の完璧な妻が、彼に愛された喜びに浸って微睡んでいると信じ切っている、無防備な寝顔。
私はゆっくりと身体を起こし、手元のスマートフォンを手に取った。
画面には、先ほど玄関で連絡先を交換したばかりの、翔平さんのアイコンが表示されている。私は暗闇の中で唇の端を吊り上げ、彼へのメッセージを打ち込み始めた。
『翔平さん、今日はありがとうございました(^-^)お約束していたディップソースのレシピです!』
私は、ついさっき作った手書きのレシピカードの写真を添付した。翔平さんは今頃、自分の惨めな部屋でこのメッセージを受け取り、この赤い下着と私の匂いを思い出して、狂ったように私を慰み者にしているはずだ。
『夫には内緒って約束、お願いしますね(^^;)』
送信ボタンを押す。
数秒後、すぐに既読がつき、返信が飛び込んできた。
『ありがとう!もちろん覚えてる。司には絶対言わないよ。今週末にでも作ってみるわ!』
私はその短い文面から、翔平さんが「司の知らない秘密を俺は持っている」という優越感と背徳感にどっぷりと酔いしれているのを手に取るように感じた。私はさらに彼を絡め取るため、指先を滑らせる。
『ふふ、嬉しいです。翔平さん、お仕事忙しそうでしたけど、無理しないでくださいね。また昔のお話、聞かせてください』
あえて「昔のお話を聞かせて」と彼を持ち上げることで、司に対する激しいコンプレックスを優しく撫でてあげる。
「……ふふっ」
私はスマートフォンの画面を消し、再び暗闇に沈んだ部屋の中で、誰に聞かれることもない冷酷な笑みをこぼした。
(秩序立った絶望なんて退屈よ。さあ、次はどんな混沌を創り出して、私のこの疼きを満たしてもらおうかしら……)
司の寝顔を横目で見下ろしながら、私は次なる地獄の釜の蓋を、優雅に、そして残酷に開け放つ準備を始めていた。




