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第16話 ホームパーティー 翔平視点⑥

「そういえば、翔平のコート、奥の部屋にかけてあるから取ってくるわ。ちょっと待っててくれ」


 そうだ、忘れるところだった。司はそう言うと、踵を返して長い廊下の奥へと消えていった。


 玄関に取り残されたのは、俺と愛莉須さんの二人だけ。先ほどまでの、司の冷酷な見下ろしによってズタズタにされたプライドがまだくすぶっている中、彼女の甘い香りが再び俺の鼻腔をくすぐった。


「あの、翔平さん……」


 ふいに、トントン、と。

 愛莉須さんの白魚のような指先が、俺のスーツの袖を軽く引いた。

 振り返ると、彼女は司が消えた廊下の方をチラリと確認してから、スッと自分のスマートフォンを俺の目の前に差し出してきた。画面には、連絡先交換のQRコードが表示されている。


「今日のディップソースのレシピ、後で送りますね」


 彼女は吐息のような小声で囁き、上目遣いで俺を見つめた。


「夫には、内緒ですよ?」


 ドクン、と。心臓が痛いほど跳ね上がった。

 俺は慌てて自分のスマホを取り出し、震える手でカメラを起動して彼女のQRコードを読み込んだ。

 司の絶対的な支配領域であるこの家で。あいつが俺のコートを取りに行っている、ほんの数秒の隙を突いて。俺は、あいつの妻と「二人だけの秘密」を共有したのだ。


 『お前には教えない』と司が笑い捨てたものを、愛莉須さんは俺にだけこっそりと与えてくれる。この瞬間、俺の中で司を出し抜いたという強烈な背徳感と、あざとい優越感が爆発的に膨れ上がった。


「待たせたな。外は冷えるから、気をつけて帰れよ」

「お、おう。今日はごちそうさん。またな」


 コートを持って戻ってきた司に見送られ、俺はエレベーターに乗り込んだ。


「お疲れ様です、翔平さん。また遊びにいらしてくださいね」


 愛莉須さんからやさしく見送りの言葉をかけてもらい、軽い会釈で返した。

 ゆっくりと閉まりゆく金属の扉の隙間から、最後に見た光景。

 司の背後に立つ愛莉須さんが、俺にだけ見えるように、蠱惑的こわくてきで、それでいて全てを見透かしているかのような妖艶な微笑みを投げかけていた。


 タワーマンションを出て、俺は終電に向けて夜の街を走り出した。

 冷たい空気を肺に吸い込んでも、身体の奥底で燃え盛る熱は一向に冷めない。あの赤いブラジャーの谷間、手首の匂い、そして別れ際の秘密の共有。俺は完全に、愛莉須という女の虜になっていた。あいつの城から彼女を奪い出せるのは、この世で俺だけだ。そんな狂気にも似た傲慢な確信が、俺の足を力強く前へと進ませていた。


 +++


 終電の湿った空気と、駅からの道すがら嗅いだ排気ガスの臭いが、鼻腔に残っていた愛莉須ありすさんの甘い香りを無慈悲に塗りつぶしていく。

 辿り着いたのは、上京したばかりの俺の城――と言えば聞こえはいいが、実際は一階にある築古の狭いワンKアパートだ。


 玄関を開けると、まだ荷解きも終わっていない段ボール箱が、暗がりに不格好な影を落として積み上がっていた。さっきまでいた、あの地上数十階の楽園とはあまりにもかけ離れた現実。大理石の床ではなく、安っぽいクッションフロアが足裏に冷たく、換気扇からは隣の部屋の油臭い夕飯の残り香が逆流してきている。

 コートを脱ぎ捨て、万年床のような布団の上に倒れ込むと、天井のシミがやけに鮮明に目に付いた。

「……クソが」

 思わず毒づいた声が、狭い部屋に虚しく響く。


 司の奴、あの成功を、あの女を、さも当然のように手に入れてやがる。俺が必死に泥水をすすって本社への切符を掴んだというのに、あいつは涼しい顔をして、俺の年収を鼻で笑うような場所で、完璧な妻にかしずかれているのだ。


 目を閉じれば、すぐにあの光景が蘇る。

 身を乗り出した愛莉須さんの、薄手の白いニットの奥に潜んでいた、あの毒々しいまでの赤いブラジャー。清楚な妻を演じながら、服の下にはあんなにも淫らな欲望を隠し持っている。そのギャップが、俺の脳髄を熱く焼き焦がしていく。


 俺は荒い呼吸のまま、ズボンのベルトを乱暴に外した。

 手のひらの中に、溜まりに溜まった鬱屈とした熱が溜まっていく。

 あの時、俺の鼻先数センチにあった彼女の手首の体温。屈み込んだ瞬間にこぼれ落ちそうだった双丘の重量感。

 今、司はあの身体を独占し、俺が決して触れられない領域を蹂躙している。その事実に対する猛烈な嫉妬と、彼女と「秘密」を共有しているという歪んだ優越感が混ざり合い、俺の理性を完全に粉砕した。


「愛莉須さん……、愛莉須……っ」


 名前を呼ぶたび、頭の中の彼女が、司に見せることのない剥き出しの顔で俺を求めてくる。

 司の知らない画角の「赤」を俺は知っている。司が教えないと言ったソースのレシピを、彼女は俺にだけ教えてくれる。

 あいつを出し抜いて、あいつの宝物を汚している。そんな背徳的な快楽が、狭いアパートの一室で、俺を獣のような渇望へと突き動かしていた。


 最高潮に達する直前、スマホが短く震えた。

 放り出された画面に、彼女からの通知が灯る。


『翔平さん、今日はありがとうございました(^-^)お約束していたディップソースのレシピです!(手書きのレシピカードの写真)』


『夫には内緒って約束、お願いしますね(^^;) 』


 その一文が、俺の絶頂に最後の火をつけた。

 真っ白になる視界の隅で、俺は確信していた。この薄暗い一階の部屋から、いつか必ずあの高みの城を奪い取ってやる。司を絶望の底に叩き落とし、あの女神を俺の燃える情熱でめちゃくちゃに染め上げてやるんだ。

 震える指先でスマホと汚れたティッシュを握りしめながら、俺は暗闇の中で、止まらない昂ぶりを噛み締めていた。

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