第15話 ホームパーティー 愛莉須視点⑤
翔平さんの震える腕の中に自らの身体を預け、彼の中で最後の一線が音を立てて溶け落ちるのを肌で感じ取ろうとした、まさにその時だった。
「お待たせ。いやあ、ちょっと手こずっちゃってね」
書斎の重厚なドアが開き、司がリビングへと戻ってきた。
その声を聞いた瞬間、翔平さんの身体が弾かれたようにビクッと跳ね、慌てて私から距離を取り、背筋を伸ばして姿勢を正したのがわかった。彼の額には嫌な汗がじっとりと浮かび、視線は宙を泳いでいる。私の身体に触れ、司の目を盗んで私と秘密を共有したという歪んだ優越感と、それが露見するのではないかという焦燥感が、彼の顔に滑稽なほどありありと浮かんでいた。
私はゆっくりと身体を起こし、司へ向けて清楚で無垢な微笑みを返した。カメラ越しに私たちの全てを監視していたはずの司は、いつもの理知的な笑顔を完璧に貼り付け、ソファーの向かい側に腰を下ろす。二人の男が、お互いに相手を出し抜いたと信じて疑わないこの歪な空間。その中心に鎮座している私だけが、この狂おしいほどの熱と絶望を誰よりも深く味わい尽くしていた。
しばらくの間、三人での他愛のない談笑が続いた。翔平さんは必死に平常心を装いながら、テーブルの上に残っていた野菜スティックを手に取り、小鉢のソースをたっぷりとつけて齧り付いた。
「そういや、このディップソース、めちゃくちゃ旨いな。何が入ってんだ?」
翔平さんが無邪気を装って素直に褒める。司はワイングラスを優雅に傾けながら、得意げに微笑んでみせた。
「ああ、それね。愛莉須と一緒に考えたんだ。我が家の秘伝のソースだよ」
もちろん嘘だ。私が適当に買ってきた惣菜の横で、司が冷蔵庫の余り物を適当に混ぜ合わせただけのもの。けれど、司がわざわざ「一緒に考えた」「我が家の秘伝」と強調した意図を、私は痛いほど理解していた。これは翔平さんに対する明確な「領域の誇示」だ。お前がどれだけ欲しても、夫婦の間にあるものは絶対に与えないという残酷な線引き。
「マジか。俺にも作り方教えてくれよ。家で一人で飲む時のつまみに最高だわ」
「駄目だね。絶対に教えない」
「なんだよ、減るもんじゃねえだろ!親友のよしみで頼むって」
必死に食い下がる翔平さんを、司は鼻で笑いながら頑なに拒絶する。司の余裕たっぷりの態度に、先ほどまで翔平さんが抱いていたであろうちっぽけな優越感が、少しずつ削り取られていくのがわかった。
「……ふーん、そうかよ。なら俺にも考えがあるぞ。愛莉須さんに、お前の学生時代の秘密、バラしてやろうか?」
翔平さんがニヤリと笑い、私の方へ視線を向けた。追い詰められた子供が、必死に捻り出した精一杯の反撃。
「えっ、なんですか?」
私は興味津々なふりをして、可愛らしく首を傾げてみせた。
「教えてくれたら黙っといてやるよ。どうだ?」
「絶対に教えない」
それでも司は、涼しい顔を微塵も崩さなかった。
「言ったな? 愛莉須さん、聞いて驚くなよ。こいつ、こんなすました顔してるけど、実はお化けが超絶苦手なんだぜ。修学旅行の肝試しで、俺の後ろに隠れて半ベソかいて泣いてたんだからな!」
翔平さんの口から飛び出した、あまりにもどうでもいい小さな暴露。私は目を丸くした後、口元を手で覆って「ふふっ」とわざとらしく吹き出した。
「どうでもいいわ、そんな昔の話。……言わなくてよかったよ」
司が呆れたように肩をすくめ、その場は三人で笑い合う温かい空気に包まれた。けれど、私の目には、翔平さんの胸の奥にどうしようもない惨めさがこびりついていくのがはっきりと見えていた。彼が渾身の力で放った矢は、司が築き上げた完璧な城の壁には傷一つつけられなかったのだ。男たちの小さすぎるプライドの削り合いが、私には最高のエンターテインメントだった。
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ワインの杯が進み、ソファーでの歓談は、やがて司の独壇場へと変わっていった。
彼が語り始めたのは、私との馴れ初めや、自分がこれまで手に入れてきた「成功」の数々だ。外資系コンサルでの大きなプロジェクトの成功、投資での確かな利益、そしてこのタワーマンションを手に入れた経緯。
「……でね、愛莉須みたいな、控えめで家庭的だけど、どこか凛とした芯のある女性が僕の理想だったんだ。たまたま出会えたのは幸運だったよ」
「それから、去年のあのプロジェクト。競合が泥臭く足で稼いだデータを、僕らが俯瞰的なロジックでひっくり返したんだ。あの規模の契約がたまたま上手くいったおかげで、今のポジションがある」
私は隣で静かに微笑みながら、司の言葉の裏に隠された猛毒をたっぷりと味わっていた。司が語る理想の女性像や、競合から奪い取ったという仕事の成功例。それは明らかに、翔平さんへの絶対的なマウンティングの披露だった。
最初は適当に相槌を打っていた翔平さんの顔から、徐々に血の気が引き、代わりに恋泥のようなコンプレックスが浮かび上がってくる。彼の目に映る司の柔和な笑顔が、急に得体の知れない悪魔のように見え始めたはずだ。自分の人生のすべてが、目の前の男の踏み台に過ぎないのではないか。そんな絶望感が、翔平さんの身体をソファーの端へと追いやる。
本当に、底意地の悪い夫。
でも、だからこそ私はこの人が好きなのだ。他人の心を徹底的に分析し、一番痛いところを笑顔で抉る。その冷徹な支配欲の横で、私はただ美しく飾られた「戦利品」として鎮座していればいい。
敵に回らず、手の上で転がしてあげるわ司。それも、自分が転がっているとも気づかないように。
ふと、翔平さんが逃げるように壁の時計に目をやった。時刻は十一時半を回ろうとしていた。
「……やべえ、もうこんな時間か」
耐えきれなくなったように立ち上がる翔平さんを見て、私は内心で舌打ちをした。まだ逃がさないわ。あなたが抱えたその絶望を、もっと深い地獄へと引きずり下ろしてあげる。
「もうこんな時間か。翔平、今日は泊まっていけよ。無理ならもっと飲んで、後でタクシーで帰ればいいだろ? 交通費くらい出すぞ」
司がグラスを置いて引き留める。親友を思いやるふりをした、残酷な経済力の誇示。翔平さんの顔が、屈辱に引きつるのがわかった。上京したばかりの彼に、深夜の長距離タクシー代を払う余裕などないでしょう。かといって、ここで司から金を恵んでもらうのは、彼のプライドが絶対に許さないのだ。
「もう少し、お話ししたいです」
私は彼を見上げ、上目遣いでそう呟いた。声のトーンを落とし、彼にしか聞こえないような甘い響きを込めて、袖を引くように視線を送る。
翔平さんの喉仏が大きく上下した。私の誘惑に下半身は熱を帯びているのに、この城に滞在し続けるための精神力も金もない。二つの巨大な感情に板挟みにされ、彼の理性がギリギリと悲鳴を上げている。
「いや、明日も朝から荷解きがあるし、今日は電車で帰るわ。気持ちだけ受け取っとく」
結局、彼は必死に懐事情と恥ずかしさを誤魔化しながら、そそくさと帰りの準備を始めた。私は少し残念そうな顔を作りながら、内心では高らかに笑い声を上げていた。
帰る場所を見失った迷子の子猫みたい。その惨めな姿、なんだか可哀想になってきちゃうわね。……でも、もちろん手を差し伸べたりなんてしてあげない。あなたはただ、司さんの私に対する嫉妬と支配欲を限界まで高めるための、都合のいい駒でしかないんだから。せいぜいこの煌びやかな城の足元で、『屈辱』という名の汚泥のような餌を、無理やり喉の奥まで詰め込まれていなさい。




