第14話 ホームパーティー 司視点⑤
「お待たせ。いやあ、ちょっと手こずっちゃってね」
書斎のドアを開け、僕はいつもの理知的な笑顔を貼り付けてリビングへと戻った。
ソファーの向かい側に腰を下ろす瞬間、翔平が弾かれたように姿勢を正したのがわかった。彼の額には嫌な汗が浮かび、目は泳いでいる。僕の目を盗んで愛莉須に触れ、何か特別な絆を結んだとでも錯覚しているのだろう。その顔には、隠しきれない歪んだ優越感と、それが露見するのではないかという焦燥感が滑稽なほど混ざり合っていた。
(ああ、本当に愛おしいほど単純な男だ)
僕は内心で冷笑しながらも、気付かないふりをして他愛のない談笑を再開した。彼が今抱いているその陳腐な優越感は、これまで僕が用意した絶望の落差を際立たせるための、最高のスパイスになる。
テーブルの上に残っていた野菜スティックを手に取り、翔平が添えられていた小鉢のソースをたっぷりとつけて齧り付いた。
「そういや、このディップソース、めちゃくちゃ旨いな。何が入ってんだ?」
素直な称賛。僕はワイングラスを優雅に傾けながら、得意げに微笑んでみせた。
「ああ、それね。愛莉須と一緒に考えたんだ。我が家の秘伝のソースだよ」
「マジか。俺にも作り方教えてくれよ。家で一人で飲む時のつまみに最高だわ」
身を乗り出してねだる翔平に対し、僕は鼻で笑いながらゆっくりと首を横に振った。
「駄目だね。絶対に教えない」
「なんだよ、減るもんじゃねえだろ!親友のよしみで頼むって」
食い下がる彼に、僕は笑みを崩さず頑なに拒否し続けた。ただのソースのレシピなど、本当はどうでもいい。僕が教えないのは、彼が「僕の領域」に踏み込むことを視覚的、概念的に拒絶するためだ。僕と愛莉須が作り上げたもの。それはお前がどれだけ強く乞うても、決して与えられることはない。その絶対的な不可侵性を、言葉の端々でわからせてやる。
「……ふーん、そうかよ。なら俺にも考えがあるぞ。愛莉須さんに、お前の学生時代の秘密、バラしてやろうか?」
痛いところを突かれた子供のように、翔平はニヤリと笑って愛莉須の方へ視線を向けた。愛莉須は「えっ、なんですか?」と無垢な顔で首を傾げている。
「教えてくれたら黙っといてやるよ。どうだ?」
「絶対に教えない」
勝ち誇ったような彼の顔に、僕は呆れを通り越して憐憫すら覚えた。
「言ったな? 愛莉須さん、聞いて驚くなよ。こいつ、こんなすました顔してるけど、実はお化けが超絶苦手なんだぜ。修学旅行の肝試しで、俺の後ろに隠れて半ベソかいて泣いてたんだからな!」
その程度のことで、僕の牙城が崩せると本気で思っているのか。愛莉須が口元を手で覆って「ふふっ」と吹き出すのを見て、僕はやれやれと肩をすくめた。
「どうでもいいわ、そんな昔の話。……言わなくてよかったよ」
僕がそう言って笑うと、場は三人で笑い合う温かい空気に包まれた。だが、翔平の目の奥には濃い泥のような惨めさが沈んでいくのがはっきりと見えた。彼の精一杯の反撃は、僕にとっては痛くも痒くもない。僕が築き上げた完璧な城の壁には、傷一つつけられなかったのだから。
(さて、そろそろメインディッシュと行こうか)
僕はワインを注ぎ足し、話題を静かに切り替えた。愛莉須との出会いや、僕がこれまで手に入れてきた「成功」の数々について語り始めたのだ。外資系コンサルティングファームでの大規模なプロジェクト、投資での確かなリターン、そしてこの眼下に東京の夜景を見下ろすタワーマンションを手に入れた経緯。
もちろん、ただの自慢話ではない。僕は事前に、彼の情報を徹底的に分析していた。
「……でね、愛莉須みたいな、控えめで家庭的だけど、どこか凛とした芯のある女性が僕の理想だったんだ。たまたま出会えたのは幸運だったよ」
それは、翔平が過去に本気で惚れ込み、あっさりと振られた女性のタイプと完全に一致する条件だ。
「それから、去年のあのプロジェクト。競合が泥臭く足で稼いだデータを、僕らが俯瞰的なロジックでひっくり返したんだ。あの規模の契約がたまたま上手くいったおかげで、今のポジションがある」
それは、彼が地方で靴底を減らして走り回り、結局ライバル会社に奪われた大きな案件の構図そのものだ。
そして、彼が大都会に焦がれ、いつか絶対に手に入れてやると夢見ていた憧れの生活そのものを、僕はすでに当たり前のように享受している。
僕は柔和な笑みを浮かべたまま、彼の人生の「失敗」と「挫折」を、僕の「成功」という形で残酷なまでにトレースして語り続けた。
翔平の顔から、さっきまでの浅ましい優越感がサーッと引いていくのが手にとるようにわかった。胃の腑に鉛を飲まされたような、苦悶に満ちた表情。自分の人生が、まるで僕の踏み台に過ぎないのではないかという疑念。
(そうだ、翔平。お前の考えている通りだ。僕はお前のコンプレックスを全て知った上で、わざとこの部屋に呼び、その傷口を丁寧に、そして執拗に塩を塗り込んで楽しんでいるんだよ)
僕は彼が「僕という人間の底意地の悪さ」に気づき始め、急激に気まずさを感じてソファーの上で身を縮こまらせる様子を、極上のつまみとして脳内で食した。
ふと、翔平が逃げるように壁の時計に目をやった。時刻は十一時半を回ろうとしていた。
「……やべえ、もうこんな時間か」
たまらず立ち上がる彼を見て、僕はここぞとばかりに最後の一撃を放った。
「もうこんな時間か。翔平、今日は泊まっていけよ。無理ならもっと飲んで、後でタクシーで帰ればいいだろ? 交通費くらい出すぞ」
親友を思いやる、寛大で余裕のある提案。だが、その実態は彼の男としてのちっぽけな自尊心を容赦なく抉るための刃だ。上京したばかりで引越しの出費がかなりあるはずだ。深夜の長距離タクシー代をポンと払える余裕などないだろう。かといって、僕から金を恵んでもらうのは、自分の経済力の無さを露呈するようで、彼の泥臭いプライドが絶対に許さない。
「もう少し、お話ししたいです」
完璧なタイミングで、愛莉須が上目遣いで彼に追撃をかけた。彼女の言葉に、翔平は下半身に熱を帯びさせながらも、この煌びやかな城に滞在し続けるための精神力がないと完全に追い詰められ、白旗を上げているのがよくわかる。
「いや、明日も朝から荷解きがあるし、今日は電車で帰るわ。気持ちだけ受け取っとく」
必死に懐事情と恥ずかしさを誤魔化し、作り笑いを貼り付けて帰りの準備を始める翔平。
僕は静かに微笑みながら、心の中で歓喜の声を上げた。
哀れな敗残兵よ。お前は今日、僕から何一つ奪うことはできなかった。僕の完璧な城を前にして、己の無力さと底辺の現実を噛み締めながら、夜の闇へと逃げ帰るがいい。
だが、これで終わりにはしない。彼が持ち帰るその絶望と、愛莉須への狂おしいまでの渇望こそが、僕たちのこの歪んだゲームを今後さらに高次元へと引き上げるのだから。




