第13話 ホームパーティー 翔平視点⑤
俺の理性が、隣に座る愛莉須さんの体温と匂いによって完全に溶かされそうになっていた時だった。
「お待たせ。いやあ、ちょっと手こずっちゃってね」
書斎から司が戻ってきた。彼がソファーの向かい側に腰を下ろした瞬間、俺は跳ね起きるように姿勢を正した。心臓が嫌な汗を掻きながら早鐘を打っている。司の目を盗んで、この女性を自分のものにしたという歪んだ優越感と、それがバレるのではないかという焦燥感。だが、司はいつもの理知的な笑顔を浮かべたまま、俺たちの間に流れていた異様な空気に気づく様子は見せなかった。
しばらくの間、三人での他愛のない談笑が続いた。テーブルの上に残っていた野菜スティックを手に取り、添えられていた小鉢のソースをたっぷりとつけて齧り付く。
「そういや、このディップソース、めちゃくちゃ旨いな。何が入ってんだ?」
俺が素直に褒めると、司はワイングラスを傾けながら得意げに微笑んだ。
「ああ、それね。愛莉須と一緒に考えたんだ。我が家の秘伝のソースだよ」
「マジか。俺にも作り方教えてくれよ。家で一人で飲む時のつまみに最高だわ」
俺が身を乗り出して尋ねると、司は鼻で笑いながら首を横に振った。
「駄目だね。絶対に教えない」
「なんだよ、減るもんじゃねえだろ!親友のよしみで頼むって」
何度食い下がっても、司は「秘伝だから」と笑いながら頑なに拒否する。友人同士のじゃれ合いであっても、その余裕たっぷりの態度が、さっきまで俺が感じていた優越感を少しずつ削り取っていくようで腹立たしかった。
「……ふーん、そうかよ。なら俺にも考えがあるぞ。愛莉須さんに、お前の学生時代の秘密、バラしてやろうか?」
俺はニヤリと笑い、愛莉須さんの方へ視線を向けた。彼女は「えっ、なんですか?」と興味津々な顔をして首を傾げる。
「教えてくれたら黙っといてやるよ。どうだ?」
それでも司は「絶対に教えない」と涼しい顔を崩さなかった。
「言ったな? 愛莉須さん、聞いて驚くなよ。こいつ、こんなすました顔してるけど、実はお化けが超絶苦手なんだぜ。修学旅行の肝試しで、俺の後ろに隠れて半ベソかいて泣いてたんだからな!」
俺のどうでもいい小さな暴露に、愛莉須さんは目を丸くした後、口元を手で覆って「ふふっ」と吹き出した。
「どうでもいいわ、そんな昔の話。……言わなくてよかったよ」
司が呆れたように肩をすくめ、その場は三人で笑い合う温かい空気に包まれた。だが、俺の胸の奥には、どうしようもない惨めさがこびりついていた。あいつにとっては痛くも痒くもない過去の暴露。俺がどれだけ吠えても、司の築き上げた完璧な城の壁には傷一つつけられないのだ。
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ソファーでの歓談は続き、やがて司は愛莉須さんとの馴れ初めや、自分がこれまで手に入れてきた「成功」の数々について語り始めた。外資系コンサルでの大きなプロジェクト、投資での成功、そしてこのタワーマンションを手に入れた経緯。
最初は適当に相槌を打っていた俺だが、話が進むにつれて、胃の腑に鉛のような重い塊が落ちていくのを感じた。
司が自慢げに語る成功のピースは、俺が過去に死に物狂いで欲し、そして手に入れられなかったものと、残酷なほどに似通っていたのだ。
あいつが「こんな女性が理想だった」と語る愛莉須さんの条件は、かつて俺が本気で惚れ込み、あっさりと振られた女のタイプそのものだった。
あいつが「たまたま上手くいった」と笑う仕事の契約の規模は、俺が地方で泥水をすする思いで走り回り、結局ライバル会社に奪われたあの大きな案件と瓜二つだった。
そして、この眼下に夜景を見下ろす生活。俺が大都会に焦がれ、いつか絶対に手に入れてやると夢見ていた憧れの生活そのものを、こいつはすでに当たり前のように享受している。
偶然か?いや、違う。
こいつは昔からそうだ。グラウンド全体を俯瞰し、俺がどれだけ泥臭く走り回っても届かないゴールに、涼しい顔をしてパスを通す。俺の人生のすべてが、こいつの踏み台に過ぎないのではないか。
俺の目に映る司の柔和な笑顔が、急にひどく薄気味悪く、底意地の悪い嫌な人間に見えてきた。こいつは俺のコンプレックスを全て知った上で、わざと俺をこの部屋に呼び、俺の傷口に塩を塗り込んで楽しんでいるんじゃないのか?
急激に気まずくなり、ソファーの革の感触すら針のむしろのように感じ始めた。
ふと壁の時計に目をやると、時刻はもうすぐ夜の十一時半を回ろうとしていた。
「……やべえ、もうこんな時間か」
俺は逃げるように立ち上がった。これ以上この空間にいたら、俺の惨めなプライドが完全にへし折られてしまう。帰ろうとする俺を見て、司がグラスを置いて引き留めた。
「もうこんな時間か。翔平、今日は泊まっていけよ。無理ならもっと飲んで、後でタクシーで帰ればいいだろ? 交通費くらい出すぞ」
その言葉が、俺の男としてのちっぽけな自尊心を容赦なく抉った。
内心、俺は激しく焦っていた。キャバクラ通いで貯金は少なく、上京したばかりで引越しの出費がかさみ、俺の口座には深夜の長距離タクシー代をポンと払えるような金銭的余裕はない。かといって、ここで司に金を恵んでもらうのは、自分の経済力の無さを大々的に露呈するようで、俺のプライドが絶対に許さなかった。
「もう少し、お話ししたいです」
愛莉須さんが上目遣いでそう呟き、俺の袖を引くような視線を送ってくる。その後ろ髪を引かれるような誘惑に、俺の下半身は再び熱を帯びたが、今の俺にはこの煌びやかな城に滞在し続けるための「精神力」がほぼないのだ。
「いや、明日も朝から荷解きがあるし、今日は電車で帰るわ。気持ちだけ受け取っとく」
俺は必死に懐事情と恥ずかしさを誤魔化しながら、そそくさと帰りの準備を始めた。大理石の廊下を歩きながら、俺は自分の無力さに歯噛みした。愛莉須さんがあんなに「もう少し話したい」と言ってくれたのに。司の目を盗んで、あんなにいい雰囲気になっていたのに。俺に金と余裕さえあれば、司の提案通りにタクシー代など気にせず朝まで飲み明かし、あわよくばあの赤いブラジャーの下の素肌を暴くチャンスがあったかもしれないのにだ。
結局、俺はどこまでいっても「持たざる者」。靴を履きながら、俺はふと振り返ってリビングの方を見た。そこには、圧倒的な勝者としての余裕を纏った司と、その隣で控えめに微笑む愛莉須さんの姿があった。
絶対に、このままでは終わらせない。俺がこの大都会で這い上がり、いつか必ず司のあの涼しい顔を歪ませてやる。そして、あの極上の女を、俺のこの手で颯爽と奪い取ってやるんだ。
俺は煮え滾るような嫉妬と渇望を胸の奥に押し殺し、作り笑いを顔に貼り付けて、扉が開くのを待った。




