Run away
Ⅴ Run away
「ぐおあッぁ……!」
蹴り上げられる鳩尾。もはや戻すものも残っておらず、こみあげてくる胃酸だけが喉を焦がす。
今の俺は両手を屈強な男二人にロックされており、膝立ちの状態で吊るされている。目の前の巨漢の握る拳はもう真っ赤に染まっていて、今の自分の顔面がどうなっているのか、想像もしたくなかった。
「……おい、そんくらいにしとけや。今死なれたら困る」
薮下が心底めんどうくさそうにそう告げた。
「はい…」
巨漢が不満そうに身を引く。……クソが。愚鈍そうな奴だ。こうして殴ることくらいしか能がないのだろう。
代わりに薮下が俺の前に現れた。ひとまず終わりの見えない殴打から解放されたとはいえ、状況は確実にまずくなっているようだ。
薮下――短く刈り込んだ金髪に、どちらかと言えば細身の身体。身長もそれほど高くはない。だが、暗闇の中でもわかるその三白眼のぎらつきが、他の組員と明らかに違っていた。
幹部会の一員でありながら、下っ端のやるような汚れ仕事をよく好むことで有名な男、薮下。年は俺とそう変わらず、つまるところ異例のスピード出世ということになる。しかし本人は派閥争いにそれほど熱心でもないようで、殺しが関わる案件ばかりに首を突っ込んでいるとのことだ。その実力はとびぬけており、既に数々の逸話を携えている。組内でも恐れられる男の一人だった。
俺は総会の席でしか姿を見たことはなかったが、一目でただならぬ危険な雰囲気を感じたのを覚えている。かろうじて首輪でつなぎ留められた猟犬。そんな印象を与える男だった。
ポケットに手を突っ込んだまま、薮下は首を斜めに傾けながら上から俺に顔を近づけてきた。その表情は相変わらず何も映してはいない。
「……お前さあ、ほんと間抜けだな」
そう言って僅かに笑った。しかし、その目は全く笑っていない。青色に反射するサングラスの向こうに見える三白眼は、精密に組み上げられた機械を思わせる無機質さを備えている。その絶対的な冷たさに、俺はゾッとする。
「組長に目ぇかけられてたってのに、こんなことでフイにするとはよ……しかも、自分の兄貴にも迷惑かけやがる」
「長谷川さんよ、あんたの躾がなってないんじゃあねえの?」
そう言って、出口の方で一人沈黙を貫いていた兄貴に呼びかける。兄貴は目を閉じたまま、少しの間を置いて「すいやせん」と低い声を出した。
「まあ…どうでもいいけどよ」と言う薮下の声は、本当にどうでもよさそうだった。
―――違う。兄貴は悪くねえ。薮下の言うとおり、俺が間抜けだったんだ……そして、真犯人は――別にいる。
「薮下さん……待ってください、話を…」と、回らない口で言葉を紡ごうとした、その瞬間、
左から飛んできた豪速の拳に、頬をふき飛ばされた。
「がッは……ッ!」
「あ?……誰が喋って良いっつった?」
意識が攪乱される。顔の左半分の感覚が完全に消し飛んでいた。視界がぼやけ、もう左目はよく見えない。
ぼろぼろになりながらも、それでも俺の目はその一瞬の微かな変化を捉えていた。……薮下の後方、腕を後ろに組んで並ぶ大津と霧島がいる。ここに来てから少しも表情を変えることがなかった二人だ。だが、俺が殴られた瞬間、二人の口角がわずかではあるがたしかに吊り上がったのだ。
そのとき俺は確信した。……全身の温かい何かが頭に昇っていく。眼球の血管からそれがあふれだすような錯覚を覚えた。何か、固形物でも液体でもないものが上の方まで上がってきて、喉を詰まらせる。息が出来なかった。
……そうだ。これは間違いなく、憎しみというやつだった。
目を見開き、奥歯が砕けるくらい歯を噛み合わせながら、俺は二人の畜生をにらみつけていた。それを自らに対する反抗の意思と取ったのか、薮下は下等な何かを見るかのような目線を向けた。
交錯する視線。時が止まったように、沈黙だけが流れる。
「…これからどうなるか、知りたいか?」
薮下は口角を上げ、少し笑うようにして言った。どこか楽しそうだった。しかし、そんな様子などどうでもいい。……話が本題に入ったということは、いよいよその刻が近づいてきているということだ。
「……ざっと数億円」
八の字に歩き回りながら、薮下は告げる。
「お前が台無しにした額だ。まあ、こったらの大金、一人で全部返せるわけがねえ。そこはうちらも目ぇつぶったるよ……だが、払えるものはしっかり払ってもらわんとな」
不意に、先ほどのような仕草で俺に顔を急接近させる。そして、こう言った。
「とりあえずよ、腹ん中のもの順番に全部売ってもらうから。それから目、歯、手足だ。そこそこ高値で買い取ってくれるとこ、知ってっからよ」
「まあそれが全部終わったら……保険金かけて死んでもらうかな。ああ、もう手続きはやってもらってっから。……うちも優しいからよぉ、まああと数か月は生きられるんじゃねえの?……っくククッ、よかったなぁ、おい?」
薮下の薄笑いが耳朶を打った。俺には、それが狡猾な悪魔の鳴き声のように感じられた。徐々に歪められていくその奇声は夜の空にこだまし、やがて重苦しい鐘の音と一緒になって頭の中で反響する。
頭のてっぺんからつま先まで、身体の中を冷たい水が浸透していくような感覚が襲った。さっきまでの熱は消え、視界は暗くなり、身体からすべての力が抜けていった。
そして、理解が遅れてやってくる。俺の想像力はあらゆる方向に突き抜け、来たるべき最期のイメージを鮮明にする。脳裏に、身体を切り刻まれ、臓物を抜き取られて皮だけのダルマとなったあわれな芋虫の姿。詰め込まれた冷たい鉄の箱に、夜の東京湾。そして―――
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
――絶叫。
それは、奇妙な叫びだった。獣の咆哮のようでありながら、どこかかすれて、間延びしたような奇妙な響きとなっているその音は、たしかに自分の喉から発せられている。だが、どうも自分の声だとは思えなかった。こんな声を、こんな情けない声を、俺は今まで出したことがあっただろうか?
……不思議だった。俺はもっと、堂々としたやつだと思っていた。今までだって、幾度もヤバイ現場を乗り越えてきた。銃口と視線が互いに交錯する瞬間。判断や知覚さえも超越した、感覚だけの世界。……そんな場面をいくつも経験して、少しは太くなったのだろうと思っていた。
そもそも、こんな職業だ。死にたいわけではないが、いつ、どこで死ぬことになるかわからないというのはわかっていた。わかってて、覚悟ができていなければこんな仕事などやっていられない。……そう、俺はわかっていたはずなのだ。失敗は、死という最大のリスクを意味することを。
だが……この醜態はどうだ?平然を装って威勢を張っておきながら、いざそのときのイメージが現実味を帯びてきた途端、こうだ。――情けねえ。ヤクザもんなんて、所詮はこんなものなのか。
そう思ったのもほんの一瞬のこと。次の瞬間には、身体は衝動のままに動いていた。
気づけば、俺は左手を掴む男の腕を強引に振りほどいていた。そのまま右手を掴む男もろとも壁に激突し、もみくちゃになりながら地面を転がっていく。
俺よりも力が強く、体格もよかった男は、地面をのたうちまわっている間もけっして右腕を離さなかった。だが、転がった勢いそのままに無意識に放たれた頭突きが―—もはや頭突きではなく、頭蓋骨の高速相互衝突、という感じだったが――右手を握る力を一瞬だけ緩めた。
拘束を逃れた俺は、額から血を噴水のように噴き出しつつ、よろけながら立ち上がる。この間、おおよそ三秒。
振り返ると、そこには懐に手を伸ばす大津、霧島の姿。遠くで姿勢を低く構えている薮下は、既に拳銃を外に出していた。堂島の兄貴は驚愕の表情でこちらを見つめ、大柄な男は少し遠いところからまっすぐにこっちに向かってきている。その全てがまるでスローモーションのように目に映った。
そのまま背を向けて路地を飛び出すのではなく、包囲網の中を突っ切る決断をしたのは結果的には正解だった。背を向けて逃げるには出口までの距離は長すぎて、それまでに蜂の巣になっていただろうから。とはいえ、とっさのことで、そこまで考えていたわけじゃない。
俺はかすれた雄たけびを挙げながら地面すれすれまで姿勢を低くし、大津のいる方に突っ込んでいった。取り出された拳銃の銃口がその影を追い、狙いの定まったと見えたその瞬間――俺はほとんど倒れこむようにして、大津の懐深くに盛大なタックルをかました。
自分の胸にしまい込んであった脇差に手を伸ばし、柄を思い切り鳩尾にめりこませる。「ぐぶぅッ」と、空気が吐き出される音がして、大津の身体から力が抜けた。
霧島は拳銃を取り出していたが、焦っているのか、上手く握ることが出来ずに落としそうになったりと、手をこまねていた。俺は倒れそうになる大津の体を抱え上げ、そのまま盾にするようにして右の霧島を巻き込もうとする。
しかし、うまくその体重を支えることができず、二歩ほど歩いたところで止まってしまう。そうしているうちに、薮下の銃口は遠くからこの俺に狙いを定めていた。
―――やられる、と刹那。
しかし、大津と俺の体が重なっているからなのか、すぐに引き金を引こうとしない。電灯の明かりが、わずかに歪んだその表情を照らしていた。
その一瞬の躊躇の合間にも、体は素早く動いた。俺は大津の体の下から抜け出し、抜いたドスを抱えて霧島に向かって吶喊する。
「……霧島ああああああああああああああああ!!」
その行動が、純粋にその場を脱するためのものだったのか。それとも、何か別の衝動に駆られてのものだったのか……それはわからない。
が、そのときだった。視界の左端から飛び出してきた影が、両手を広げて霧島の前に立ちはだかったのは。
俺は目を見開いた。そして、その顔を見て驚愕する。にわかに、光景はスローモーションへと変わった。
銀色の刀身の、その切っ先が、吸い寄せられるようにその男の身体に近づいていく。俺は全力で、その場で踏みとどまろうとふんばった。……だが、勢いに乗った190cm77キロの体が急に止まるはずはない。――そのまま俺は兄貴の体に飛び込み、後ろの霧島もろとも地面に押し倒した。
ドッ、という鈍い音と、刃が肉に食い込む嫌な感覚。
「兄貴ッ…!」
俺の目の前には、凄絶な光景が広がっていた。
ドスは右の肩口あたりに深々と突き刺さったようで、迸った鮮血がグレーのスーツを染めていた。兄貴は苦しそうに呻きながら肩を必死に抑えている。
俺は血で染まったドスを持ちながら、その手を震わせていた。
(俺は、何てことを……!)
うずくまる兄貴を中心にして、しばし茫然とする二人。霧島も突然の出来事に衝撃を受けているようで、拳銃を地面に落としてしまっていた。
「長谷川の兄貴ぃ!」「……てめえ!」「こ、この野郎、ドスなんか持ってやがって!」
一呼吸おき、怒号が溢れかえる。俺はハッとなり、次の瞬間にはもう駆け出していた。
チッ、と舌打ちし、再び薮下が銃口を俺に向ける。それだけを見て、俺は転進。転がった拳銃を拾い上げようと伸ばされた大津の手を踏みつけ、まっすぐに出口へ走る。
二度の銃声。どこに当たったかは分からないが、少なくとも俺の体が前のめりに倒れることはなかった。出口手前、さっきのデカい男だ。俺を殴っていたその巨漢の大ぶりな拳が空を切り、その脇を通り抜けるようにして、俺は出口の直前まで来た。もう前を阻むものはいない。
スーツの内ポケットの中から自分の拳銃を取り出し、威嚇で撃とうと、スピードはそのままに振り返る。
――その瞬間、右耳の5センチ横にあったパイプに銃弾が着弾した。
噴き出す水飛沫、爆音。閃光弾を食らったかのように、顔の右半分が真っ白な衝撃に襲われる。
よろめきながら、しかし俺も一発撃ち込んだ。弾丸は路地の闇の中に消えていき、赤い火花が一瞬光る。それを最後まで見ることはなく、左に曲がって路地を抜け、歩道に飛び出す。スライドしていく路地裏の景色の中に、地面に倒れる兄貴の姿を見た。
そのまま中華街沿いの歩道を全力で疾走する。といっても、既に身体の限界が来ていた。もはや走ることもできず、前傾姿勢で足を引きずりながら、かろうじて前に進むことしかできない。むしろ、さっきはどうしてあんなに素早く動けたのか、わからなかった。
後ろから聞こえる怒号。通行人の叫ぶ声。視界の端に躍り出た、黒塗りの車。もう何も聞こえていなかったし見えていなかった。ただ、走り続けろという指令だけが体を動かしていた。
だから、赤信号など最初から眼中になかったし、左から直進してくる大型トラックの存在にも気づかなかった。
……かろうじて、左の眼玉だけがその姿を追いかけていた。埼玉ナンバー、宅急便のロゴマーク。運転席では、初老の男がその目を見開いている。
スローモーションで近づいてくるその鉄の塊は、少し現実味に欠けていた。――ここにきて、あの黒塗りの高級車ではなく、ただの運輸業者のトラックとは。……おいおい、こりゃあ、あまりに無粋な結末じゃないか?
出来の悪い劇を見ているような感覚だった。まるで、俺がどうあがいたところで死ぬことは決まっていたかのようだ。誰かが俺を殺す話を書いていて、俺は必死にその筋書きから逃れようとするけれど、最後には決まって殺されてしまう。そんなイメージが頭に浮かんでいた。……だが、もしそんなことをしている奴が本当にいるとすれば、そいつはヤブだ。物書きの才能がないと言っていい。こんな無理矢理で馬鹿馬鹿しい結末、今時中学生だって書きやしない。
走馬燈などは見なかった。ただ、実家に残してきた母と父のことだけがなぜだか思い出された。久しく会っていないが、今どうしているのだろう。相変わらず、送った仕送りには頑として手をつけていないのだろうか。あのボロい店を改装する資金に、と思ったのだが……。
実家に帰り、手伝いをするのもいいと思ったが、もうそれもかなわない。最後に俺は瞳を閉じ、そして……それが俺の最期となった。
しかしそのとき、不思議なことが起こる。
車体と体がぶつかるその瞬間。左手に抱えていた脇差の刀身から眩しい青緑色の光があふれ出し、刹那の閃光となった。帯状に広がった光は、やがて中心に折り込まれるようにして銀次の体を包み、そして消える。
一瞬のことだった。それがかろうじてわかったのは、周りの通行人数名しかいなかった。
やがてけたたましいブレーキ音が夜の交差点に響いた。
数分後。
「おい…こらあ、どういうことだよ。」
ざわめく事故現場に数名の黒服の姿があった。
「わかりません…ですが、運転してたやつは、たしかに血まみれの黒服を轢いたって言ってます」
「…じゃあ、どうして死体がねえんだよ」
「……わかりません」
アスファルトには、引きずられたタイヤの跡がジグザグに残っていた。横転したトラックから飛び散ったと見える細かい金属片が、路上に散乱している。しかし、そこには一番あるべきものの姿がない。
薮下は、傍らにいた黒服の一人に無言で近づく。男が何かしらんと薮下を見る中、突然、薮下は男の腹をブーツのつま先で蹴り上げた。
「ぐっふぉおッ……!」
上げた右足の膝横をそのまま、前かがみになって苦しむ男の側頭部に思い切りぶち当てる。そのとき、薮下のサングラスが顔からずれ、路上に落ちた。倒れた男に追い打ちをかけるように、顔などを集中的に蹴り続ける。その激しさの一方で、当の本人はほとんど無表情だった。
「まだ生きてるってことに決まってんだろうがよ…じゃあどうすればいいかわかんだろ…?何つっ立ってんだよ……」
「す、すいません!…すぐ、すぐ見つけますんで……!その、……ッ」
やがて興味をなくしたようにあっさりと暴行は止まる。あたりが尋常じゃない緊張感に包まれる中、薮下は
「…本部に連絡しておけ」
と、割れたサングラスを拾い上げ、レンズに走った亀裂を眺めながら、もう一人の男にそう告げた。
この小説、男しか出てこねえし、ガタイのいいおっさんが絡み合ってる描写とか誰が得するんだろう




