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ピタゴラス〇ッチ

Ⅲ ピ〇ゴラスイッチ


 組の収入源は様々だ。そのうち、クラブや賭博場のような店舗経営に関しては、相当に規模の大きい場所に限り、経営者交代に際して一種の儀礼的行為が行われるのが大枝組の慣習だった。そのうちの一つを俺はこれから行わなければならない。

 といってもたいしたものではない。組長所有のベンツに今月分の売り上げを全て積み、自ら運転して組の倉庫までもっていく。ただそれだけのことだ。

 これには、これから組の財産を使って大金を動かすことになるという責任を自覚させるという意味があるらしい。だが、今ではやはり形式化され、ほとんど形だけのものとなっている。 

 とにかく、これを完遂することで経営の引継ぎは完了する。気張りすぎもよくないが、ある程度の緊張感は必要だ。なにせ、運転するのは組長の車である。事故にだけは気をつけなければならなかった。


 運転席に乗り込んだ俺に、兄貴が外から顔を近づけてきた。

「いよいよだな」

「はい」

「まあ、気張るこたあねえよ。事故にだけ気を付けてればいい。酒、もう飲んでたりしないよな?」そう言って笑う。

「もちろんです。長谷川さんの顔に、泥塗るようなことだけはしません」

「信頼してるぜ。じゃ、俺はこれから薮下さんと会わないといけねえからよ。気いつけてけよ」

「はい。長谷川さんも」

 そう言って、俺は車を発進させた。


 サイドミラー越しに見えた兄貴の横顔は、いつも通りの飄々とした笑み。だが、今日はそこに何か特別な感情が浮き出ているような気がした。その表情は、どこかうれしそうでもあり、反面、どこか寂しそうでもあった。


……思えば、この組に入ってから、兄貴にはずっと世話になってきた。これからは、兄貴は俺にとって少し遠い存在となるだろう。幹部会となれば、組の方針決定に対して無視できない影響力を持つ立ち位置だ。他方で、内部での派閥争いは相当なものであると聞く。聞こえてくるのはきな臭い噂ばかりだ。幹部に上がったからといって安泰なわけではなく、権力を巡る壮絶な政治バトルは激しさを増していく。それは組織としての宿命でもあった。


 盃を交わした間柄が一転、一日にして殺し合いと化す。犬猿の仲とされていた両者が一変、肩を組む。そんなことはこの業界では日常茶飯事だ。だが、そんな仁義なき現代の暴力団にあって、ほとんど唯一俺が心の底から慕い、信頼しているのが長谷川の兄貴だった。

 兄貴にこれ以上世話を焼かせるわけにはいかない。それはずっと思っていたことだ。俺が過去にいくらか危ない橋を渡ってきたのも、それが理由の一つにある。――今回、このような形で俺の功績が認められることで、いくらかでも恩返しをすることができただろうか――俺はぼんやりと、そんなことを考えていた。


 車は高速に乗り、沈みつつある夕陽に向かってどこまでも進んでいく。そして高速を降りる頃には、もう陽はとっくりと沈んでしまっていた。



 倉庫まではさらに五十分ほどの距離があった。しかし、三十五分ほど走らせたあたりで、俺は喉の渇きに気づいた。

 そういえば、午前は挨拶の準備に念を入れていたせいでほとんど飲み物を飲んでいなかった。思えば、襟の部分も少し湿っている。

 俺自身、あまり緊張をする性格ではないのだが、組長の前となるとさすがに少し気を張ったらしい。無意識に汗をかいていたようだ。こうして車内で一人になり、ようやく水分の不足に気づいたのだ。


 あともう少しだから、と我慢しようとしたが、思ったより脱水は激しかったようで、そのうち耐えがたくなってきた。車を離れるのは躊躇われるが、集中力を切らして事故を起こす方が今は怖かった。俺は一時車を止めて、コンビニの中に入ることにした。


 天然水のペットボトル二本をレジに置く。応対する店員は若葉マークの入った名札を首から下げた男だった。

 俺はクレジットカードをカードリーダーのところに置き、決済を待つ。しかしその後に聞こえてきたのは、聴きなれた読み取り音ではなくエラー音だった。

「あれ、おっかしいな…すいません」

 店員はたどたどしい手つきでレジスターをいじっている。まあこんなことはよくあることだ。俺はレジの後ろにあるたばこの銘柄などを眺めながら待っていた。


 しかし、


「ピー――ッ」


 ……再びのエラー音。俺はため息をつく。面倒なことになったな、と思いながら、再びタバコの銘柄読みに戻る。しかし、その後も数回そのエラー音は鳴り響いた。


 最終的に、他の店員二名も集まってくる事態となった。しかしその二人が来てもカードの読み取りは上手くいかない。結局、どうやらレジスターの故障が原因らしいということがわかった。クレジットしか持ってきていなかったことを大いに後悔しつつ、結局は隣のレジで会計をしてもらった。

 

 買い物を終え、出ていこうとする俺に対し、店員は何度も何度も過剰なくらいに頭を下げてきた。……正直、そんなことで腹を立てるほど俺も短気ではない。無口だったのが逆に怒っているように見えたのだろうか。何故だか知らないが、こういうことはよくある。めんどくさいと思いつつ、俺は店員を適当にあしらい、ため息と共に自動ドアをくぐった。……結局、ここでも無駄に時間を喰ってしまった。



 歩きながら袋からペットボトルを取り出し、飲もうとキャップを開ける。

が、そのときだった。戻るべき駐車場の定位置に、「それ」を見たのは。


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