7話 告白と勘違いの答え
夜が明けた。
蓮は窓の外に広がる朝焼けを見つめながら、何度目かわからない深呼吸を繰り返していた。
(今日だ)
昨日の帰り道。
陽向の笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが決定的に変わった。
もう、誤魔化せそうになかった。
時計の針は午前八時を指している。
いつもより三十分早く出社した蓮は、無意識に陽向の席へ視線を向けた。
まだ来ていない。
(……遅い)
いや、まだ始業前だ。
遅いわけではない。
そんなことは分かっている。
それでも落ち着かなかった。
蓮は小さく舌打ちし、デスクへ座る。
(落ち着け)
ただ伝えるだけだ。
断られたところで、仕事は続く。
関係が少し気まずくなるだけだ。
そう自分に言い聞かせても、指先の震えは止まらなかった。
午前九時過ぎ。
「おはようございます! 黒崎さん!」
明るい声が事務所に響いた。
蓮は反射的に顔を上げる。
陽向は今日もいつも通りだった。
少し寝癖のついた髪。
無防備な笑顔。
朝日みたいに明るい声。
それだけで、胸の奥が騒ぐ。
「……おはよう」
なんとか平静を装って返す。
普段なら服装の乱れを注意するところだが、今日はそんな余裕がなかった。
(今日中に言う)
昼休みも。
午後の会議中も。
蓮の頭の中は、そのことでいっぱいだった。
どう切り出す。
どこで話す。
どんな顔をすればいい。
考えれば考えるほど、喉が乾く。
そして午後六時。
仕事が一段落した頃、蓮は立ち上がった。
「佐藤」
「はい?」
陽向がぱっと顔を上げる。
その瞳を見た瞬間、一瞬だけ言葉が詰まった。
「……屋上へ来い。話がある」
「屋上ですか? わかりました!」
陽向は疑いもせず頷いた。
その無防備さが、今は少し怖い。
エレベーターの中。
沈黙が落ちる。
蓮は正面を見たまま、何度も呼吸を整えた。
鼓動がうるさい。
掌が汗ばんでいる。
(大丈夫だ)
ただ言うだけだ。
それだけなのに。
屋上の扉を開けると、夕暮れの風が二人を包んだ。
オレンジ色に染まった空が、ビル群を柔らかく照らしている。
「わあ……綺麗ですね」
陽向は嬉しそうに笑い、手すりへ近づいた。
その横顔を見ながら、蓮はゆっくり息を吸う。
(今だ)
「佐藤、俺は——」
「あ、黒崎さん!」
陽向が先に振り返った。
その表情は、どこか真剣だった。
「僕も、ちょうど言いたいことあったんです!」
蓮の心臓が大きく跳ねる。
「いいですか?」
まっすぐな目だった。
期待に満ちた、純粋な瞳。
その瞬間。
蓮の胸の奥で、小さな期待が膨らんでしまった。
「黒崎さんのことが——」
「ああ」
無意識に頷いていた。
呼吸が浅くなる。
胸が熱い。
「大好きです!」
その言葉に、蓮は息を止めた。
世界が、一瞬だけ色を変えた気がした。
やっと届いた。
そう思った。
「俺も——」
言いかけた、その瞬間。
「先輩として、本当に大好きです!」
「……え?」
時間が止まった。
陽向は照れくさそうに笑っている。
だが、その顔には恋愛の色など欠片もない。
「黒崎さんって、すごく頼りになるじゃないですか。厳しいけど、本気で仕事に向き合ってて……僕、ずっと憧れてたんです」
無邪気だった。
あまりにも。
蓮はゆっくり瞬きをする。
さっきまで熱かった胸が、少しずつ冷えていくのが分かった。
(……何を期待していたんだ、俺は)
勝手に勘違いして。
勝手に舞い上がって。
そんな自分が、どうしようもなく情けなかった。
「黒崎さん?」
陽向が不安そうに顔を覗き込む。
「顔色、悪くないですか?」
「……いや」
蓮は無理やり口角を上げた。
うまく笑えている気はしなかった。
「そうか。先輩として、か」
「はい!」
陽向は嬉しそうに頷いた。
「黒崎さんが先輩で、本当によかったです!」
その笑顔が、今は妙に眩しい。
蓮は視線を夕焼けへ逃がした。
さっきまで綺麗だった景色が、急に遠く感じる。
(馬鹿だな)
最初から分かっていたはずだ。
陽向は誰にでも優しい。
自分だけ特別だなんて、そんな都合のいい話があるわけない。
「……佐藤」
「はい?」
「今日のことは忘れろ」
「え?」
陽向はきょとんと目を丸くした。
「俺がお前を呼び出した理由だ」
蓮は小さく息を吐く。
「……まだ、言えない」
陽向はしばらく不思議そうな顔をしていたが、やがてふっと笑った。
「わかりました!」
その返事が、やけに優しい。
「黒崎さんが話したくなったら、その時聞きます」
「ああ」
蓮は短く頷いた。
胸の奥はまだ痛かった。
期待して。
浮かれて。
勝手に傷ついた。
全部、自分のせいだ。
それでも。
諦める気にはなれなかった。
陽向が自分を慕ってくれていることだけは、本物だから。
「そろそろ戻るか」
「はい!」
陽向はいつもの調子で笑う。
その笑顔を見るたび、胸の奥が揺れる。
本当に厄介だ。
夕焼けの中、二人は並んで屋上を後にした。
エレベーターへ向かう途中。
陽向は楽しそうに今日の仕事の話をしていた。
蓮はそれを聞きながら、小さく目を伏せる。
見ている景色は、まだ違う。
自分だけが、勝手に恋をしている。
それでも——。
隣を歩けるだけで、
少しだけ嬉しいと思ってしまう自分がいた。




