6話 誕生日と贈り物
朝、冷蔵庫の扉を閉じるとき、冷たい空気が顔に当たった。
蓮は、ふと立ち止まった。
ああ、そうだ。
今日、自分の誕生日だった。
(……誰も覚えてないだろう)
会社の会議室にいるメンバーたちは、いつも通りの表情でパソコンの前に座っている。デザイナーの美咲はコーヒーを啜り、新入社員の陽向は資料を整理している。
誰も、こちらを見てくるわけでもなく。
(いい。いつも通りだ)
蓮は椅子に腰を下ろし、今日のスケジュールを確認した。三つの会議、五つの修正依頼、締め切り間近の二つのプロジェクト。
充実した一日だ。
「黒崎さん、こちらの確認をお願いします」
美咲が資料を差し出した。
「ああ。三十分後に返す」
「はーい」
蓮はその資料を受け取り、目を通し始めた。
細かいミスが三つ。指示した修正点が一つ抜けている。
「美咲さん」
「はい?」
「ここ、直してこい。ここも、ここも」
「うわ、ほんとだ。すみません!」
「次は気を付けろ」
「……はい」
美咲は資料を持って自分の席に戻った。周囲の空気が、わずかに重くなった。
(これでいい)
厳格であれば、誰も近づいてこない。誰も期待を抱かない。
それが、蓮のやり方だった。
午前の会議も、無事に終わった。正確には、蓮にとっては無事だが、参加した部下たちは顔を青くしていた。
「黒崎さん、もうちょっと優しく言ってあげても……」
陽向が、小声で言った。
「仕事だ。甘くしてどうする」
「はい……」
陽向は、それでも明るい笑顔で頷いた。
その無邪気さに、蓮は一瞬、視線を逸らした。
(……なぜ、あいつは笑える)
蓮にはわからない。こんな自分の誕生日なんて、誰も気づかない日なんて、陽向はどうして笑っていられるのか。
昼休憩。
蓮はいつものように、コンビニのパンと缶コーヒーで済ませようとした。
「黒崎さん、一緒にどうですか?」
陽向が、そばにやってきた。
「……別にいい。一人で食べる」
「そうですか……」
陽向は、少しだけ残念そうな顔をした。
(なんだ、その顔は)
蓮は、気にしないふりをして、コンビニの袋を取り出した。
「あ、黒崎さん」
「……なんだ」
「お誕生日、おめでとうございます」
蓮の手が、止まった。
「……はぁ?」
「今日、黒崎さんのお誕生日ですよね? 人事データで見たんです」
陽向は、満面の笑みを浮かべていた。
それは、あまりにも自然な、あまりにも当たり前の笑顔だった。
「お祝い、しますか? お弁当作ってきたんです」
「……作ってきた?」
「はい! 黒崎さんの好きなもの、いっぱい入れました」
蓮は、動けなかった。
(何で……どうして)
心臓が、妙に大きな音を立てている気がした。
「誰にでも、こうしているのか」
蓮は、自分の口から出た言葉に、後悔した。
陽向は、きょとんとした顔で首を傾げた。
「黒崎さんだけです」
「……は?」
「他の人の誕生日、そんなに把握してないですし」
陽向は、少し照れくさそうに笑った。
「でも、黒崎さんのことは……覚えておきたくて」
蓮の喉が、乾いた。
(……馬鹿な)
胸の奥が、熱くなる。
「……食うか」
「はい! じゃあ、屋上行きましょう」
陽向は、楽しそうに弁当箱を持った。
蓮は、周囲を見回した。誰も、こちらを見ていない。誰も、気づいていない。
(いいんだ、別に)
それでも、蓮は陽向の後ろをついていった。
屋上は、春の風が吹いていた。
陽向は、ベンチに腰を下ろし、弁当箱を開いた。
「はい、どうぞ」
蓮は、中身を見た。
白身魚のフライ。蓮の好きな煮物。ごはんの上には、卵焼きと梅干しが乗っている。
「……なんで、これらを」
「え? あ、以前黒崎さんがお弁当食べてる時、白身魚のフライ、おいしそうに食べてたじゃないですか」
「そんなこと……」
「あと、食堂で煮物が出た時、お箸が止まらなかったの見てました」
蓮は、言葉を失った。
(……見ていた? あいつが?)
そんなこと、蓮自身ですら覚えていない。
「ほら、黒崎さん。冷めちゃいますよ」
「……ああ」
蓮は、箸を取った。
一口、白身魚のフライを口に入れる。
サクサクとした食感。中はジューシーで、ほんのりレモンの香りがする。
「……おいしい」
「ほんとですか!」
陽向の目が、輝いた。
「作ってよかったー! 朝早く起きて頑張りました」
「……朝早く?」
「はい! 失敗したのが二回あったんです。三回目で成功しました」
蓮は、陽向の顔を見た。
少し眠そうな、でも満足げな笑顔。
(このために……早起きしたのか)
胸が、締め付けられる。
「……食え。お前も」
「はい、一緒に食べますね」
陽向は、自分の弁当箱を開いた。
二人は、並んで座って弁当を食べた。
春の風が、髪を揺らす。
陽向は、無心に食べていた。時折、蓮の顔を見て、満足げに笑う。
その笑顔が、蓮の心を揺さぶっていく。
(……好きだ)
蓮は、ふと気づいた。
自分の気持ちを。自分が陽向に対して、どんな感情を抱いているのかを。
(馬鹿だ、俺は)
ツンデレだと、周囲に言われることもある。
厳格で、完璧主義で、近づきがたい。
でも、本当は寂しがり屋で、誰かに認められたくて。
蓮は、陽向の横顔を見た。
穏やかな春の光に照らされた、無垢な笑顔。
(……この人に、認められたい)
そう思った。
「陽向」
「はい?」
陽向が、口を塞ぎながら振り向いた。
「……いや、何でもない」
「んー?」
蓮は、視線を逸らした。
(まだ、言えない)
でも、蓮は決心した。
この気持ちを、確かなものに変える。
もっと、陽向と話したい。もっと、陽向の笑顔を見たい。もっと、陽向に近づきたい。
「……陽向」
「はい、何ですか?」
「今日、誕生日だから」
「はい」
「何か……頼みがあってもいいか」
陽向は、少し驚いたように目を見開いた。
そして、大きく頷いた。
「もちろんです! なんでも言ってください!」
蓮は、ちらりと陽向を見た。
「……また今度、ゆっくり話したい」
「話す、ですか?」
「ああ。仕事の話じゃない。俺たちの話」
陽向は、不思議そうに首を傾げた。
それでも、すぐに明るく笑った。
「わかりました! 楽しみにしてます」
蓮は、弁当の最後の一口を口に入れた。
春の風が、二人の髪を撫でていく。
——この気持ちは、もう隠さない。
蓮は、そう決めたのだった。




