5話 残業と距離の縮まり
午後十一時三十二分。
オフィスの蛍光灯が、ひとつだけ残っていた。
「……鈴木、帰ったのか」
蓮はデスクに置かれたメモを見下ろした。
『急用できた! 二人で頑張ってね♡』
「……余計なことを」
小さく舌打ちし、紙を丸めてゴミ箱へ放る。
その時。
「あ、鈴木さん帰ったんですね!」
陽向が給湯室から戻ってきた。
「お疲れ様ですって言いたかったんですけど……」
「別にいい」
蓮は素っ気なく返し、再びパソコンへ視線を戻した。
——また二人きりか。
最近、妙にこういう状況が多い。
偶然だ。
ただ残業する人間が少ないだけ。
そう思おうとしても、胸の奥が妙に落ち着かなかった。
「黒崎さん、お茶淹れました!」
陽向がマグカップを差し出してくる。
ふわりと緑茶の香りが立った。
「……ありがとう」
言った瞬間、蓮はわずかに眉を寄せた。
陽向はぱっと笑う。
「どういたしまして!」
……調子が狂う。
蓮は視線を逸らし、無理やりキーボードを叩いた。
それから二時間後。
長時間の作業で肩が重かった。
首を回すたび、小さく軋む。
「……ん」
無意識に漏れた声に、陽向が反応した。
「黒崎さん、肩こってます?」
「別に」
「いや絶対こってますって」
陽向は立ち上がり、蓮の後ろへ回り込んだ。
「マッサージしましょうか? 結構得意なんですよ」
「必要ない」
即答だった。
だが陽向は引かない。
「ちょっとだけ! 三十分だけでいいですから!」
「……断る」
「効かなかったらやめます!」
真っ直ぐな目だった。
その視線に弱いことを、蓮はもう自覚していた。
「……少しだけだ」
「やった!」
陽向は嬉しそうに笑い、蓮をソファへ座らせた。
「失礼しますね」
その瞬間。
肩に触れた指先に、蓮はわずかに息を止めた。
「痛いですか?」
「……いや」
陽向の手つきは意外なほど丁寧だった。
固まった筋肉をゆっくり押しほぐしていく。
「……下手だな」
「ええ!? おばあちゃんには褒められましたよ?」
「基準が年寄りなんだろ」
「じゃあもっと強めで!」
ぐっと力が入る。
蓮は危うく変な声を漏らしかけ、慌てて息を飲み込んだ。
「……まあ、悪くない」
「ほんとですか?」
嬉しそうな声が、すぐ後ろから聞こえる。
近い。
近すぎる。
陽向の呼吸が、髪をかすめる。
甘いシャンプーの匂いが、微かに漂った。
蓮は目を閉じる。
触れられるたび、妙に落ち着かない。
「黒崎さん、意外と筋肉ありますね」
「……必要な感想か?」
「なんか、かっこいいなって思って」
その言葉に、蓮の心臓が大きく跳ねた。
「……無駄口叩くな」
「はーい」
陽向は笑いながら、再び肩へ手を添える。
その手つきが、さっきより少し優しかった。
まるで壊れ物でも扱うみたいに。
「陽向」
「はい?」
「……もう少しだけ続けろ」
言ったあとで、自分でも驚いた。
陽向はぱっと顔を輝かせる。
「もちろんです!」
……本当に、甘い。
蓮は小さく目を伏せた。
三十分が過ぎても、陽向は文句ひとつ言わず肩を揉み続けた。
「もういい」
名残惜しさを押し隠し、蓮は立ち上がる。
「ありがとうございました!」
「……礼を言うのはこっちだ」
ぽつりと漏れた本音に、自分で驚く。
陽向も少し目を丸くしていた。
蓮は誤魔化すようにデスクへ戻る。
だが、画面の文字はまったく頭に入らなかった。
肩にはまだ、陽向の手の感触が残っている。
——まずい。
このままでは、本当にまずい。
「黒崎さん、そろそろ休憩しません?」
「必要ない」
「でも、お腹空いてません?」
「終わらせてからだ」
強めの口調で返すと、陽向は「はーい」と不満そうに席へ戻った。
しばらくして。
「……すぅ」
小さな寝息が聞こえた。
蓮は顔を上げる。
陽向が机に突っ伏して眠っていた。
無防備だった。
長い睫毛。
少し赤い頬。
穏やかな寝顔。
その姿を見た瞬間、蓮は思考を止めた。
……可愛い。
胸の奥が妙にざわつく。
蓮はしばらく迷ったあと、静かに立ち上がった。
脱いだ上着を、そっと陽向の肩へ掛ける。
「……風邪引くなよ」
返事はない。
当然だ。
眠っているのだから。
それでも、言わずにはいられなかった。
三十分後。
「……あれ?」
陽向が目を覚ました。
肩の上着に気づき、目を瞬かせる。
「これ、黒崎さんのですか?」
「違う」
「いや絶対そうですよね?」
「知らん」
蓮は視線を逸らした。
陽向は上着を抱えたまま、ふっと笑う。
「ありがとうございます」
その笑顔に、また胸がざわつく。
……本当に厄介だ。
「作業は終わった。帰るぞ」
蓮は逃げるようにパソコンを閉じた。
陽向も慌てて荷物をまとめる。
「黒崎さん、お疲れ様でした!」
「……お疲れ」
エレベーターの中。
閉じた空間に、沈黙が落ちる。
陽向はどこか眠そうに目を擦っていた。
その姿を横目で見ながら、蓮は小さく息を吐く。
また二人で残業する日が来たら。
——自分は、ちゃんと平静でいられるのだろうか。
考えたくない。
だが。
少しだけ、期待している自分がいた。
「じゃあ黒崎さん、また明日!」
陽向はいつもの笑顔で手を振り、夜道へ駆けていく。
蓮はその背中を見送りながら、無意識に口元へ触れた。
……笑っていたらしい。
自覚した瞬間、蓮は小さく舌打ちした。
「……ほんと、厄介だ」




