8話 怖がっている暇がない
数日後の午後——
窓の外には、春の陽光が差し込んでいた。
陽向はデスクに座りながら、ぼんやりとその光を見つめていた。蓮からのメッセージ。
今日の打ち合わせ、屋上で——とだけ書かれていた。
(なんだろう……)
最近の蓮は、どこか変だった。いつもの厳格さはそのままに、時々陽向を見る目が、以前とは違う温度を帯びているような気がする。気のせいかもしれない。でも——気のせいだと思いたくない自分もいた。
「佐藤くん、お茶淹れるわよ」
同僚の声に、陽向は我に返った。
「あ、はい。お願いします」
時刻が近づくにつれ、胸の高鳴りは収まらなかった。なぜだかわからない。ただの打ち合わせのはずなのに。
屋上へ向かう足取りは、いつもより少しだけ速かった。
屋上の扉を押し開けると、春風が頬を撫でた。
蓮はフェンスの近くに立っていた。風が彼の黒髪を揺らしている。いつものスーツ姿なのに、その背中がどこかいつもと違って見えた。
(……緊張してる?)
陽向は気づいていた。あの完璧な蓮が、珍しく背筋を張り詰めていることに。
「……来たか」
「はい。呼び出してくれてありがとうございます」
陽向は明るく笑った。蓮の眉が、わずかに動いた。
(……この笑顔。いつも通りだ)
蓮は内心で苦笑した。陽向は何も知らない。自分がこの数週間、どれだけ眠れない夜を過ごしたかを。
「話がある」
「はい、なんでしょう?」
陽向は首を傾げた。その無邪気な仕草が、蓮の決意を揺さぶる。
(……やめようか)
いや、もう引き返せない。蓮は深く息を吸った。何度も繰り返した言葉を、喉の奥でもう一度確かめる。
「俺は——」
声が掠れた。蓮は眉をひそめた。こんなところで、と自分に苛立ちながら。
「……俺は、お前のことが」
陽向は待っていた。何を待っているのかわからないまま、ただ蓮の言葉だけを待っていた。
「——好きだ」
風が止んだ。
陽向は、しばらく言葉の意味を理解できなかった。
「……え?」
「お前のことが、好きだ」
蓮はもう一度、はっきりと言った。普段の冷たさとは違う、どこか震えるような声で。
陽向の目が見開かれた。
「蓮……先輩?」
「……変な顔をするな」
蓮はそっぽを向いた。耳が赤くなっているのが、陽向にはよく見えた。
陽向の頭の中が、真っ白になった。
蓮先輩が。鬼の黒崎が。自分のことを。
「……どうして、ですか?」
思わず出た言葉に、蓮は眉を上げた。
「どうして、とは?」
「だって、僕なんか……」
陽向は自分の胸に手を当てた。心臓が、今にも飛び出しそうな勢いで跳ねている。
「蓮先輩は、すごい人じゃないですか。完璧で、厳格で、誰もが尊敬する……。そんな人が、なんで僕なんか」
「……お前」
蓮の声が、少し低くなった。
「それが、お前の答えか?」
「い、いえ、違うんです!」
陽向は慌てて手を振った。
「ただ、信じられなくて……。蓮先輩が、僕のことを……」
陽向は初めて、言葉が出てこないことを経験していた。
いつも厳しい言葉を投げかけてくる先輩。完璧主義で、誰も寄せ付けない雰囲気を纏う「鬼の黒崎」。そんな人が、自分を好きだと言っている。
「……怖い、です」
思わず漏れた言葉。
蓮の表情が曇った。
「……そうか」
「違うんです!怖いのは、蓮先輩じゃなくて……!」
陽向は必死に言葉を探した。
「こんな人を好きになってしまった、自分が……怖いんです」
蓮の目が見開かれた。
「……なに?」
「だって、蓮先輩は綺麗すぎるんです。完璧すぎて。そんな人を好きになったら、もう後には戻れないじゃないですか」
陽向の声は、震えていた。
「落ち着け」
蓮は一歩近づいた。陽向の肩に、そっと手を置く。
「……お前が、俺を好きだと言っているのか?」
「……はい」
陽向は小さく頷いた。
「いつから、だ」
「わかりません。気づいたら、もう」
陽向は苦笑した。
「蓮先輩が怒っている時も、仕事に真剣な時も、たまに見せる不器用な優しさも……全部、ずっと見ていました。そうしたら、いつの間にか」
言葉が詰まった。
「——好きになってたんです」
蓮は、しばらく何も言わなかった。
春風が二人の間を通り抜けた。
「……本当か?」
「はい」
「俺のことか?」
「はい。蓮先輩のことです」
陽向は真っ直ぐに蓮を見つめた。いつもの明るい瞳に、今は真剣な光が宿っていた。
「でも怖かったんです。こんなに好きになって、でも釣り合わなくて、それで……」
「お前」
蓮が遮った。
「釣り合うとか釣り合わないとか、そういうことを俺が気にすると思うか」
「……え」
「俺が欲しいのはお前だ。他の誰でもない」
陽向の目が、じわりと潤んだ。
蓮は少し視線を逸らした。自分でも、これほど真っ直ぐ言葉が出てくるとは思っていなかった。
「……俺だって、怖かった」
「蓮先輩が、ですか?」
「お前を失うことが、怖かった。お前はいつも明るくて、誰にでも優しくて……。俺みたいな人間には、とても手が届かないと思っていた」
「蓮先輩……」
「それでも、諦められなかった」
蓮は小さく、不器用に笑った。
「……バカみたいだろ」
「違います」
陽向は首を振った。目尻に光るものを拭いながら。
「すごく、かっこいいです」
「……お前なあ」
「だって本当のことじゃないですか」
「そういうことを、平気で言うな」
「えへへ」
照れくさそうに笑う陽向を見て、蓮はかすかにため息をついた。呆れたような、でも——どこか安堵したような息だった。
「……おい」
蓮は陽向の手を取った。
驚いて目を丸くする陽向の顔を見ながら、蓮は続けた。
「これからも、よろしくな」
陽向は一瞬だけ固まって——それから、力強く頷いた。
「はい! こちらこそ、よろしくお願いします」
二人の手が、春の陽光の中で繋がれた。
それから数日後。
「蓮さん、これ承認お願いします!」
陽向は書類を差し出した。
「……『さん』はいらん」
蓮は眉をひそめながらも、書類を受け取った。
「じゃあ、蓮?」
「……ああ」
蓮はそっぽを向いた。だが口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
「ねえ、蓮」
「なんだ」
「今日、一緒に帰りませんか?」
蓮は一瞬だけ逡巡して——
「……仕方ないな」
「やったぁ」
陽向は満面の笑みを浮かべた。
蓮は呆れたようにため息をついたが、その目は穏やかだった。
いつもの鋭さが、どこかへいってしまったような——そんな目だった。
窓の外では、春の光が燦々と降り注いでいた。
「鬼の黒崎」と呼ばれた完璧主義のディレクターと、天真爛漫な新入社員。
釣り合わないと思っていた二人が、今日も隣り合って座っている。
「これからもよろしく、蓮」
「……ああ」
蓮は小さく頷いた。
春風が、二人の髪を優しく撫でた。
好きな人の隣にいられる。
それだけで、もう怖がっている暇などなかった。
筆者はずっと、すべての感情は得難く尊いものだと思っています。
多くの感情は性別を超え、時に生死さえも超えていく。
私の一番の願いは、想い合うふたりが結ばれること。
そして誰もが、かけがえのない絆を見つけられますように。




