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君が綺麗すぎて、怖がっている暇がありません  作者: リンコ


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3/8

3話  勘違いと生姜焼き

朝の光が窓から差し込み、オフィスを淡いオレンジ色に染めていた。


黒崎蓮はデスクに向かいながら、無意識に窓の外へ視線をやった。


昇り始めた朝日が、ビルの谷間で静かに輝いている。

新しい一日が始まろうとしている——はずだった。

(……まったく)


蓮は小さく舌打ちした。

昨夜のことが、どうしても頭から離れない。


窓の外を見ながら、ふと浮かべてしまったあの笑み。

自分があんな顔をしたのは、いつ以来だろう。


いや。


そもそも、そんな顔をした記憶がない。


「黒崎さん、おはようございます!」


背後から、やけに明るい声が飛んできた。


蓮は反射的に表情を引き締め、振り返る。

そこには、満面の笑みを浮かべた佐藤陽向が立っていた。


今日も相変わらず元気だ。

ジャケットは少しだけ着崩れ、ネクタイもゆるい。

どこか無防備で、妙に隙がある。


「……おはよう」


蓮は短く返し、すぐにパソコンの画面へ視線を戻した。


(落ち着け、黒崎蓮。ただの新入社員だ。部下だ。アシスタントだ)


心の中で何度も繰り返す。


だが、陽向がデスクの横を通り過ぎた瞬間、ふわりと甘い香りがした。

いつもとは少し違う、柔らかなシャンプーの匂い。

「あ、今日は新しいの使ってみたんです!」


陽向が振り返り、笑いながら言った。

「……何の話だ」


「黒崎さん、今すごく嗅いでましたよ?」

「嗅いでいない」

「嘘です。鼻、ちょっと動いてました」

蓮は眉をひそめた。

自分の顔が、そんな間抜けな動きをしていたというのか。


「……仕事に集中しろ。朝礼が始まる」

「はーい」

陽向は元気よく返事をして、自分の席へ向かった。


蓮は再び画面に向き合う。

しかし、集中できない。


視線が、勝手に陽向のほうへ流れてしまう。

陽向は先輩社員たちと楽しそうに話していた。

同期の新入社員とも、気軽に笑い合っている。

誰に対しても明るく、素直で、距離が近い。


職場の空気を自然にやわらげる、天然のムードメーカーだった。

(……あいつは、誰にでもああなのか)


ふと、そんなことを考えてしまう。

昨日、自分に向けられた笑顔は特別だったのか。

それとも、陽向にとっては何でもない、日常の一部なのか。


(馬鹿なことを考えるな)

蓮は小さく頭を振った。


朝礼が始まる。

蓮はチームのメンバーに向けて、いつも通り簡潔に指示を出した。

今日の撮影スケジュール。

編集の締め切り。

確認が必要なクライアントのリスト。


「以上だ。質問は?」

「はい!」


真っ先に陽向が手を挙げた。


「何だ」

「黒崎さん、昨日はお疲れ様でした! 一緒に帰れて嬉しかったです!」

オフィス中の視線が、一斉に蓮へ集まった。

空気が止まる。


「……仕事中に私的な話をするな」

蓮は低く言い放った。


「あ、ごめんなさい!」

陽向は素直に頭を下げた。

しかし、まったく堪えていない。

むしろ、どこか楽しそうに見える。


(……なぜ、懲りない)

蓮は内心でため息をついた。


朝礼が終わり、それぞれが仕事に戻る。

蓮も自分のデスクに戻り、メールの確認を始めた。


だが、やはり視界の端に陽向が入る。

陽向は、先輩デザイナーの鈴木美咲に何かを尋ねていた。

美咲は笑いながら、陽向の肩を軽く叩く。

陽向も嬉しそうに笑っている。


(……鈴木とは、ずいぶん仲がいいんだな)


気づけば、蓮の眉間に皺が寄っていた。


メールを打ちながら、何度も陽向のほうを見てしまう。

陽向が席を立つと、どこへ行くのか気になる。

誰かと話していると、何を話しているのか気になる。


(……集中できん)


蓮は自分の異常に気づいていた。


普段なら、こんなことで動揺しない。

新人が誰と仲良くしようが、自分には関係ない。

仕事ができればそれでいい。


——そのはずだった。


「黒崎さん」


声をかけられ、蓮ははっと我に返った。

美咲が資料を持って立っている。


「このデザインの確認、お願いできますか?」


「……ああ。後で見る」


「了解です。あ、そうだ」


美咲は少し声を潜めた。


「佐藤くん、なかなかやりますね。黒崎さんのアシスタントなんて大変だと思ってましたけど、あの子なら案外いけるかも」

「……そうか」

「ふふ。意外と気に入ってるんじゃないですか?」

「馬鹿なことを言うな」


蓮は即座に切り捨てた。

だが、内心では大きく揺れていた。

(気に入っている? 私が? あんな……)

視線が、また陽向へ向かう。

陽向は同期の新入社員と話しながら、笑って手を振っていた。

無邪気で、まぶしい。


(……気に入っている、か)


その言葉が、妙に胸に残った。


気に入っている。

いや、それだけではないのかもしれない。

(違う。ただの部下としてだ。アシスタントとして、多少は使えると思っているだけだ)


蓮は必死に自分へ言い聞かせる。


けれど、心の奥で別の声がした。

——もう、気づいているだろう。

蓮は小さく息を吐いた。


分かっている。

分かっているのだ。


自分が、陽向に惹かれ始めていることを。

それでも認めたくなかった。


「鬼の黒崎」と呼ばれ、完璧であることを求めてきた自分が、こんなにも単純な感情に振り回されているなんて。


(……仕事だ。仕事に集中しろ)

蓮は画面に向き直った。


昼休みのチャイムが鳴り、オフィスがざわつき始める。


蓮はいつものように、デスクで簡単な食事を済ませるつもりだった。

弁当を取り出し、パソコンの画面を見ながら箸を取る。


その時だった。

「黒崎さん!」

陽向が元気よく駆け寄ってきた。

「……何だ」

「一緒にランチ行きましょう!」


蓮は眉をひそめる。


「断る。私はここで食べる」

「えー、またですか? 黒崎さん、最近ずっとそうですよね」


陽向は少し唇を尖らせた。

「それがどうした」

「だって……」

陽向は困ったように笑った。


「一人だと、寂しくないですか?」

蓮の箸が止まった。

「……何?」

「黒崎さん、いつも一人で食べてますよね。昨日の夜もそうだったし」


陽向は、まっすぐ蓮を見る。

「もしかして、ほんとは寂しがり屋なんじゃないですか?」

蓮は言葉を失った。

(……なぜ、こいつは)

なぜ、そんなところまで見ている。


一人でいるのが平気なふりをしていること。

本当は、誰かに踏み込まれるのを待っていたこと。


「……馬鹿なことを言うな」


蓮は冷たく言った。


「私は一人でいるのが好きだ。邪魔されるほうが困る」

「本当ですか?」

「本当だ」

「じゃあ、昨日はどうして一緒に帰ってくれたんですか?」

蓮は言葉に詰まった。


「……それは」

「黒崎さん、口では嫌がるけど、本当は一緒にいるの嫌じゃないんですよね?」


陽向は悪戯っぽく笑った。


「……」

反論できなかった。


一人でいたくない。

誰かといたい。

——陽向と、一緒にいたい。


だが、それを認めるわけにはいかない。

「……勝手にしろ」


蓮は弁当を仕舞った。


「え。行くんですか?」

「黙れ。行くぞ」


蓮は立ち上がり、陽向を促した。

陽向の顔がぱっと明るくなる。

「はい! やった!」


その無防備な喜び方に、蓮は内心で苦笑した。

(……本当に、勝手な奴だ)

だが、その勝手さが、今の蓮には不思議と心地よかった。


会社の近くにある、小さな定食屋。

蓮にとっては初めて入る店だった。


「ここ、僕が見つけたんです。たぶん黒崎さん好きだと思って」


陽向は得意げに言った。


「……来たこともない店で、どうして私の好みが分かる」

「観察してましたから」

陽向は当たり前のように答えた。


(……観察?)

蓮が眉を上げたところで、店員がメニューを持ってきた。


しかし、陽向は蓮にメニューを渡さなかった。

代わりに、店員へ向かって明るく言う。


「すみません。こちら、豚の生姜焼き定食をお願いします。味噌汁は、あさりのお吸い物に変更できますか? あと、お漬物が苦手みたいなので、別の小鉢にできますか?」


蓮は目を見開いた。


「……なぜ、君がそんなことまで知っている」

「え? 黒崎さん、生姜焼き好きですよね。前にお弁当で何回か食べてましたし」

「……」

「あさりのお吸い物も好きそうだなって。コンビニで買ってるの見ました。お漬物は、いつも残してましたよね」


陽向は少し照れくさそうに笑った。


「黒崎さんのこと、気になるので」


蓮の心臓が、嫌な音を立てた。


(……気になる?)


陽向は、蓮の動揺などまったく知らない顔で続ける。


「もっと知りたいんです。好きなものとか、苦手なものとか。そうしたら、もっとちゃんと手伝えるじゃないですか」

蓮の頭の中が、一瞬白くなった。

気になる。

もっと知りたい。

好きなものも、苦手なものも。

——それは、どういう意味だ。

「……佐藤」

蓮は乾いた喉を動かし、ようやく声を出した。

「はい?」

「君は……私のことを、どう思っている」

「え?」

陽向は不思議そうに瞬きをした。


「どうって……尊敬してます。すごく頼りになる先輩ですし」

「……それだけか」

「それだけ、って……」


陽向は首を傾げる。


「あ、もちろん、もっと仲良くなりたいです。黒崎さん、なかなか心を開いてくれないじゃないですか。でも昨日一緒に帰った時、ちょっとだけ距離が縮まった気がして」


陽向は照れたように笑った。

「だから、もっと先輩のことを知れたら嬉しいなって思ってます」

蓮は、その言葉を聞きながら、勝手に確信していた。


(……そういうことか)


陽向は、自分に特別な好意を抱いている。

少なくとも、ただの先輩後輩以上の感情を向けている。


「仲良くなりたい」という言葉は、きっと照れ隠しだ。

本当はもっと踏み込みたいのだろう。


(……なら、私はどうする)


蓮は自分の心に問いかけた。


陽向への感情は、もう誤魔化せない。

気に入っている。

いや、それ以上だ。


だったら、応えるべきなのかもしれない。


「……佐藤」


蓮は真剣な顔で陽向を見つめた。


「はい?」


「君の気持ちは、分かった」


「え? 何の話ですか?」


陽向はきょとんとしている。


蓮は深く息を吸った。

そして、覚悟を決めた。


「……私も、だ」


「は?」


「君のことが、気になる。……それ以上かもしれない」


自分で言っておきながら、耳の奥が熱くなる。


「黒崎さん……?」


陽向が目を瞬かせた。


蓮はその反応を、さらに都合よく解釈した。


(動揺している。照れているのか)


「だが、私たちは職場の先輩後輩だ。簡単な関係ではない」


「え、ええ……?」


「急ぐつもりはない。だが、君の気持ちに……応えたいとは思っている」


蓮はそう言って、視線を逸らした。


しばらく、沈黙が落ちた。


「……黒崎さん」


「何だ」


「それって、どういう意味ですか?」


蓮は一瞬、固まった。


「どういう意味、とは」


「いや、その……僕、何か変なこと言いました?」


陽向は本気で困っている顔をしていた。


蓮の胸の奥に、不穏な予感が広がる。


「……君が私のことを特別に思っている。その気持ちに応えたい、という意味だ」


「特別に……?」


陽向はますます困惑した。


やがて、ぱっと手を打つ。


「あ、分かりました! 僕がもっと黒崎さんの役に立ちたいって話ですよね? もちろんです! それは僕の仕事ですから!」


蓮は、ゆっくり瞬きをした。


「……仕事?」


「はい。アシスタントとして、もっとちゃんと黒崎さんを支えたいんです。だから、好きなものとか苦手なものとか、覚えておこうと思って」


陽向は一点の曇りもない笑顔で言った。


その瞬間、蓮の世界が静かに傾いた。


(……待て)


(これは、どういうことだ)


「……佐藤」


「はい」


「君は、私のことをどう思っている」


「尊敬する先輩です!」


即答だった。


「あと、もっと仲良くなりたい人です!」


「……恋愛的な意味では、ないのか」


「えっ?」


陽向は大きく目を見開いた。


「恋愛的な意味って……黒崎さん、僕、男ですよ?」


「分かっている」


「いや、だから……」


陽向は困ったように笑う。


「僕、黒崎さんのこと先輩として大好きですよ。尊敬してます。でも、恋愛とかそういうのではなくて……」


そこで、蓮はすべてを理解した。


(……勘違いしていた)


陽向の「気になる」は、恋愛的な意味ではなかった。

純粋に、先輩としての蓮を知りたいという意味だった。


「もっと知りたい」も、「好きなものも苦手なものも」も、すべて仕事のための情報収集だったのだ。


(……私は、何を)


顔から火が出そうだった。


「……そうか」


蓮はどうにか平静を装い、低く言った。


「仕事のため、だったのか」


「はい。でも、黒崎さんのことをもっと知りたいって気持ちは本当です。仕事以外のことも、少しずつ知れたら嬉しいなって」


陽向は無邪気に笑った。


蓮の心が、また厄介な方向へ揺れる。


(……この馬鹿は、自分が何を言っているのか分かっているのか)


仕事以外のことも知りたい。


それをどう受け取ればいい。


だが、陽向の表情に恋愛の色はない。

ただ、人として蓮に興味を持っているだけなのだろう。


(……つまり、私だけか)


蓮は小さく息を吐いた。


陽向は、自分に恋愛感情を抱いていない。

尊敬している。

仲良くなりたいと思っている。


それだけだ。


だが、蓮のほうは違う。


一緒にいたい。

もっと知りたい。

触れたい、とさえ思ってしまっている。


(……片思い、か)


ようやく、自分の置かれた状況を理解した。


蓮だけが、勝手に落ちている。

陽向はまだ、こちらの気持ちに気づいてすらいない。


「黒崎さん? どうかしましたか?」


陽向が心配そうに顔を覗き込む。


「……何でもない」


蓮は視線を逸らした。


「あ、来ましたよ。生姜焼き!」


陽向が嬉しそうに言った。


テーブルに、蓮の好み通りの生姜焼き定食が置かれる。

味噌汁はあさりのお吸い物。

漬物の代わりには、小さな煮物が添えられていた。


「……本当に、覚えていたんだな」


蓮は小さく呟いた。


「もちろんです。黒崎さんのこと、観察してましたから」


陽向は得意げに笑う。


蓮はその笑顔を見て、胸が締めつけられるのを感じた。


(……この馬鹿め)


(どうして、そんな顔をする)


無防備で、まっすぐで、残酷なほど優しい。


陽向への想いが、さらに深く沈んでいくのが分かった。


ランチを終え、会社へ戻る道すがら。


陽向は終始上機嫌だった。

蓮と一緒に食事ができたことが、ただ嬉しいらしい。


「黒崎さん、今日は楽しかったです! また一緒に行きましょうね!」


陽向は無邪気に笑った。


(……また、一緒に)


陽向にとっては、ただの先輩後輩の昼食だ。

それ以上の意味はない。


だが蓮にとっては違う。

陽向と過ごす時間は、もう特別なものになっている。


「……勝手にしろ」


蓮はそっけなく言った。


「えー、またそれですか。黒崎さん、本当は嬉しいんですよね?」


「黙れ」


「ふふ。照れてる」


陽向は悪戯っぽく笑った。


蓮は陽向に背を向け、少し早足で歩き出す。


(……勝手にしろ、と言ったが)


本当は、嬉しい。


また陽向と食事に行ける。

そう思うだけで、胸の奥がわずかに浮き立った。


「黒崎さん、待ってくださいよー!」


後ろから、陽向の声が追いかけてくる。


蓮は振り返らなかった。


けれど、口元には自分でも気づかないほど小さな笑みが浮かんでいた。


(……本当に、困った奴だ)


片思いでもいい。

今はまだ、それでいい。


この感情を、なかったことにはしたくない。


「黒崎さん、歩くの早いですって!」


陽向が隣に並ぶ。


蓮は横目でその顔を見た。

陽向は相変わらず、無防備な笑顔でこちらを見上げている。


「……仕方ないな」


蓮は小さく呟いた。


「え? 何か言いました?」


「何も言っていない」


蓮はそう言って、また少しだけ歩く速度を落とした。


午後の日差しが、二人の影を並べて伸ばしていく。


(……また、一緒に行こう)


蓮は心の中で、そっと呟いた。


誰にも聞こえない、小さな願いだった。


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